2022/02/22

マーケティングとは…?

大学入試シーズンゆえ、却って暇になる。
暇なので電機メーカ時代の旧知の連中とちらほら話すこともある。
いわゆる総合電機メーカーゆえ、製品の事業を大別すれば いわゆる'BtoB'型の事業と'BtoC'型の事業が同じ屋号のもと併存しており、同時にまた対立もしているところ、ちょっとした合衆国のごとき在りようではあった。


僕が主だって従事していたのは 'BtoB型事業の拡販活動。
発電システムから半導体まで、いわばそれらの複合システム製品を製造し販売していた。
いわゆる生産財というものだ。
顧客はといえば、水道・建設・電力・ガスそしてICTといった社会基幹インフラの事業者、さらにさまざまな管轄省庁である。
だから、電機メーカとしてはしぜん彼らの世界観/市場観に準じるようになる。
それすなわち ─ いかなる生産財であれ何らかのエネルギーと部材素材から成っており、それらがお客様によって運用され償却されてゆくにともない、さまざま新たな需要と供給を生み出し、新たな製品をも生み出し、かくて、或る生産財のエネルギーや部材は姿かたちを変えつつさまざまな世界と市場をずーっと巡ってゆくことになる…といったものだ。

ざっと、これが’BtoB’事業における世界観/市場観、ヨリ総括的にいえば「マテリアルシステム」としての世界観とでもなろうか。
(もうちょっと気取ってヨリ学術的に本源を突けば、化学反応におけるイオン化や酸化還元のイメージにそっくり、もっと大胆に物理学風にいえばエネルギー保存則の典型例ともとれよう。)
'BtoB'事業の従事者であれば、製品開発担当や技術設計担当や製造(部材調達)担当から財務や法務まで、そして営業担当もがこういう「マテリアルシステム」を大前提に抱きつつ諸々業務をこなす。

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それでは、’BtoC'型の事業とはなにか。
電機メーカでいえば、パソコンはじめホームエレクトロニクス、つまり一般消費者向けの家電製品や生活メディア製品や関連ソフトウェアが典型的なBtoC製品であり、それらの量産的な販売がBtoC型の事業である。
ハハン、たかが一過性の嗜好品にすぎないじゃないか、そんなものバカでも担当出来ると、BtoBチームの僕たちはしばしば嘲笑したものだが、とんでもない!
そもそも、複合や循環が偉くて一過性は偉くないという決めつけこそが浅薄なのである。
人間の活動そのものを微分的に捉えてみれば、すべての人間はその生活そのもにおいて常になんらかの一過的な消費者である。
そして、そういう消費者向けの量産品こそは’たかが嗜好品’どころか「生活上の需要を満たすための必需品」なのである。

電機メーカの製品に絞ることなく、衣食住そのものの一瞬いっしゅんを鑑みてみれば、食材も衣類も一般消費者向けの量産品であり、我々人間のなんらかの需要を一瞬一瞬ごとに満たし続けている。
これら製品(産品)の製造や拡販をバカが仕切れるか?仕切れるわけがないんだ。
※ いまはBtoCどころかネット経由でのCtoCが興隆しており…といった事業形態分類はなんぼでも出来ようが、些末はともかくも本質的には一般消費者の需要に則った事業論である。


BtoB事業の担当者は世界と市場をマテリアルシステムとしてとらえ、あらゆるエネルギーや部材が循環していると見る ─ と上に記した。
一方で、BtoC事業担当者たちはシステム論や循環論にはあまり拘泥されないようで、むしろ人間そのものの消費需要を充足させていくことに大いなる関心意欲が掻き立てられるようである。
世界や市場は人間の需要/供給の絶え間なきダイナミズムから成り、これはなんぼでも拡大させ連結させていくことも出来よう、ゆえに、製品を大量にしかも速く普及させ、おのれも大いに儲かっててこそ、事業には存在意義があるのだという。
だからこその値下げ競争でもあり納期競争でもあり、株式でありカネまわしであると。
この開拓者型の精神、これこそ'BtoC'、まさに起業者としてのそれであり、功成っていけば社長ともなり、大成功すれば業界のリーダー型企業たりえよう。


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さて、以上のようにつらつらと記したのには一応は訳がある。

学生諸君らのうち少なからずは『マーケティング』について聞いたことがあるだろう。
そして社会人の多くが ─ というより農林水産業から観光業にいたるまで ─ ほとんどの職業人が多かれ少なかれ従事しているのが、まさに『マーケティング』なのである。

マーケティングといえば、お客様の需要を探り、お客様の具体的な嗜好を見極め、お客様の意欲関心を自社優位に誘導してゆく、こうして自社製品(産品)の販売量の最大化はかる、といったところまでを含むようではある。
じっさい、或る製品(産品)の対象市場は既に特定の事業者によって寡占されているのか、まだまだ参入の余地があるのか、そしておのれ自身の製品(産品)はどうなのか、もっと投資すべきかいやいや撤退すべきか、新製品はいつぶちこむか。
これら、市場分析や競合分析そして事業分析までひっくるめてこそ真のマーケティングである。
どさくさ紛れイチかバチかのたたき売りノウハウではなく、そうならぬよう従前に緻密な市場捕捉を進めておき、同時に経営判断も為すわけだ。

上にBtoC事業について概説したように、人間は本質的になんらかの需要を有する消費者でるので、マーケティングはBtoC型の事業に適した戦略技法であるともいえる。
しかしまた、あらゆる製品(産品)の製造過程においても人間はなんらかの部材を常に欲しており、それら部材だってやはり需要なのであるから、つまりBtoB型の事業においてもマーケティング技法は大いに有用である。
だから、事業者にとってはあらゆる工程のあらゆる従業員も、あらゆる製品(産品)もが、マーケティングに多かれ少なかれ関与していることになる。

マーケティング論は、法や経済にかかる学術論と比べるとさして抽象度は高くないし、自然科学のような完結型ないし循環型のシステム観をあてこむわけでもない。
だから、ちょっとかじってみれば易しい分野と映ることは否めない。
しかし、繰り返すがこれはあらゆる職能のあらゆる人間の需要分析を進めていく学問分野であるので、実践的なデータ収集力も分析スキルも大いに求められよう。
それだけの覚悟を持って挑んでみたい。


(え?僕はどうするのかって?さぁそのうちに。)

2022/02/15

【読書メモ】 数学にとって証明とはなにか

多くの学生は、理数科目が嫌いである。
たとえば理科の場合、さぁ宇宙と自然の大海に飛び込もうだの、無限の未来が君たちを待っているだのと、掛け声こそは勇躍しつつも、じっさいの勉強となると自然物や運動そのものに身を委ねるでもなく、むしろ数歩身を引きつつ、さまざまな条件分けと束縛条件のもとでのアナリティカルな客観演習ばかり。
総じてみればむしろ’自然離れ’した思考活動…うぬ、これはどうにも恋心が芽生えにくい代物なのである。

さらに輪をかけて’自然離れ’しているよう映るのが数学であろう。
えーと、なんだ?数学こそは宇宙と万物の統一の系でありかつ根元でもあるのだって?そんな遠大にして深淵なご高説を懇々と聞かされれば聞かされるほど、却って疎遠感覚ばかりに苛まれてしまうのがまともな精神の学生ではないだろうか。
僕などは高校生の時分からずーっと数学が嫌いでたまらず、なるほど美貌の数学教師に教わった経緯もありその節は恋や愛について色々と、いやそれはともかくも、どうにも数学というものは’自然離れ’どころか’人間離れ’すらした奇妙なほどの法則性、それどころかいわば悪魔のコードブックのごとき超越性そして超然性、さまざまな畏怖を垣間見ることしきりなのである。

仮に数学に’人間寄り’の側面がチラッとでも垣間見れるとしたら、さまざま超然的に固められた数学命題群そのものよりも、むしろそれらの'整序つまり証明論理'と、それらを活かしつつ現実側に捌きおろしてゆく’確率技法'かもしれぬ。
思い起こせば、これらの思考系に限っては僕は学生時代から比較的得意ではあった。
それでも、電機メーカにてICT周りの製品拡販さらに契約法務においてしばし考えたこと ─ 本当は’人間自身’による思考活動はあくまで「諸命題の設定」までであり、それらを整序し捌き下ろしていく「証明や確率の技法そのもの」は最も早くコンピュータへと移植が片付いてしまうのではないか、よってそれらの数理技法はむしろ人間には無用となってしまうのではないか。

そんな、こんな、とつらつら回想し考えをくるくると巡らせたのがきっかけで、本ブログにて久々に数学まわりの本を紹介しようと思い立った。
そこで此度は以下の本を手に取ってみたのである。
数学にとって証明とはなにか 瀬山士郎 講談社Blue Backs』

僕なりにあらためて察するに、もとより数学という思考系は入口も出口も判然とせぬまま、目的と過程が混然とした若々しさ満点の超然世界であり、だから数学本というものは(とりわけ一般読者向けの場合は)往々にして論旨が縦横無尽かつ循環的ではある。
本書にしてもさまざまな論旨が章立てを超えてしばしば交差しており、そこが数学本たるゆえん、寧ろスリリングなつくりではあるのだが、とまれ読み進めるにさいしてはある程度以上の精密な分析力や峻別力は必要となろう。

さて今回の【読書メモ】としては、本書における大要/概説にあたるであろう第2章~第3章にて特に要約的に記された箇所を、僕なりに絞って以下に記す。




<大要>
複数の命題の関係を原因ないし結果として証明していく場合、我々が数学(そして自然科学)にて起用する論理を大別すると、演繹論理帰納論理仮説論理である

これらの論理をそれぞれ単純化して分析。
まず或る2つの数学命題(変数)AとBを、それぞれの論理によって複合命題と成す。
ここで、それぞれの論理を論理記号で表現し、真/偽を当て込んで論理整合を確かめる。

なお論理記号としては、ここでは ¬A (Aではない)、A∨B(AまたはB)、A∧B(AかつB)、A→B(AならばB) に限定しおく。
※ とくに、’…ならば’ にあたる’→'は直接因果'if'ではなく、'この場合にwhile' と了解した方が分かりやすい ─ と僕なりに思う。
※※ なお本書にては真/偽の判定フラグとして真を1とし偽を2として作表されている。

さらに、これら複合命題の単純な数学例を挙げる。


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<演繹論理>
「Aである。AならばBである。したがってBである。」

論理記号で表すと (A∧(A→B))→B
ここで、Aの真/偽および Bの真/偽 この4通りにて
A→B, A∧(A→B), そして総じた (A∧(A→B))→B いずれの真/偽も整合する。
演繹論理は恒真式である。

演繹論理による証明の例: 2等辺三角形の底角は等しい。
2等辺三角形の頂角Aから補助線を底辺BCまで引き、交わる点をDとする。
この補助線が2等分線ならば2辺夾角の合同定理が成り立つ。
したがってΔABD≡ΔACDとなる。
したがって対応角が等しくなり、底角∠B=∠Cとなる。


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<帰納論理> ※いわゆる数学的帰納法ではない
「Bである。AならばBである。したがってAである。」

論理記号で表すと (B∧(A→B))→A
ここで、Aの真/偽 および Bの真/偽 この4通りのうち
Aが偽でBが真の場合には 総じた(B∧(A→B))→Aが偽になってしまう。
’したがってAである’との命題は論理上は偽のまま、これを真に変えることは出来ず、なんらかの実験実証を繰り返し、経験則として’したがってAである「だろう」と見做すしかない。

帰納論理による証明(の不完全さ)の例:
一般に、整数を係数とする1変数の多項式 f(n) で すべての正整数nに対してf(n)が素数となるものは存在しない。
整数を係数とする多項式は一般に f(x) = anxn + an-1xn-1   + … +   a1n + a0
ここで或る正整数mについてこの多項式の値f(m)が素数p 
ならば 
 f(m+p)=f(m)+f(pの倍数) 
したがって f(m+p)<0 ならば素数ではない また f(m+p)>0 ならば素数ではない


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<仮説(演繹)論理>
「Aである。Bである。したがってAならばBである(と仮説する)。」

論理記号で表すと A∧B→(A→B)
ここで、Aの真/偽 および Bの真/偽 この4通りにて
A∧B, A→B, 総じたA∧B→(A→B)  いずれの真/偽も整合し、恒真式である。
とくにこの論理の場合には 総じたA∧B→(A→B)が必ず真となる。
仮説論理は命題Aと命題Bから ’したがってAならばB'(に違いない)と仮説、そして実証してゆく数学手法。

仮説論理による証明の例: あくまで仮説を導くための三段論法
命題A: この袋の中の玉はすべて黒い
命題B: この玉は黒い
したがって この黒い玉はこの袋から取り出されたもの(と仮説可能)


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<背理法(帰謬法)>
「AはAではないという矛盾がある。ならばPである。」
論理記号で三段論法として表すと
A∧(¬A) である。
A∧(¬A) → P である。
ならば P である、証明終わり。
こうすると、何が前提であろうとも命題Pが証明されるということになる。
ところが最初の命題A∧(¬A)がそもそも常に矛盾つまり偽であるので、この証明における論理の真/偽はどうやっても整合されえない。

※ 本箇所は僕なりにさらっと理解したつもりで要約してはみたが、本当はもっと深度の大きな論考なのかもしれない。正直これ以上踏み込む自信が無い、悪しからず。

背理法による証明の例: √2 は有理数ではない 無理数である
√2 が有理数であると仮定
√2 = a/b とし、a,b は整数であり、a/bは既約分数となっている とする。
両辺を2乗して  2 = a2/b2
したがって 2b2 = a2  だから a2 は偶数。
2乗して偶数であるa自身も偶数 だから a=2c とも記せる。
したがって 2b2 = 4c2  だから b2 も偶数。
しかし a2 は偶数 かつ b2 も偶数となると、a/bが既約分数であるという初めの仮定と矛盾したままこの証明が終わってしまう。
よって、√2が有理数であるとの仮定は偽であり、√2は無理数であることになる。


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ざっと以上のとおり、本書の第2章と第3章のうちとりわけ大要と思しき箇所について僕なりに要約してみた。

じっさい、本書は学校教育の事例をはじめ多種多様な証明論題がふんだんに呈されており、理数系のみならず文系の読者でも論題によっては「人智の絶妙さ」に驚嘆させられるであろう。
あらためて僕なりに考えさせられたこと ─ こんご更に人智が論理機械(コンピュータ)に置き換わっていくとしたら、そこで最も徹底されていく知性は証明論理力と確率計算ではないか。
そうであるのなら、人間に真に問われているのは論理整合性よりもさまざまな命題設定力そのものではなかろうか。

2022/02/05

【読書メモ】 脳と人工知能をつないだら…

人間は人体としては自然物であるが、さまざまな’マテリアル’を「外部」に創造し、それら外部マテリアルと合力しながらさまざまな物理運動を起こすことが出来る。
物理運動どころか、それらとの複雑な信号同期によって数学や言語などの思考活動を高速化させることさえも出来る。
では、さまざまなマテリアルを人体の「内部」に取り込んだら? ─ しかも物理運動や化学反応のレイヤに留まらず、思考活動のプロパティとして脳神経細胞とコンピュータを直接接続したら、いったい何が出来る(ことになる)だろうか??
かかる関心さらに疑念はおそらく多くの人々が抱き続けていよう、そう察しつつ手にした一冊が本書である

【脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか
池谷裕二  紺野大地 / 講談社

書名にては’人工知能’と銘打たれつつも、じっさいに読み進めてみれば本書コンテンツのほとんどは脳神経細胞への情報入出力による知覚能力拡大の事例集、それらを平易な文面でまとめたテクニカルダイジェスト本であろうと見当はつく…。
いや、そんなに簡単に片付く代物では断じてない!本書コンテンツにて続々紹介されるさまざまな技術論は、却って事実関係を超えた根元的な論題(そもそも論)を触発してやまぬ!

・いったい、我々の脳神経細胞に入出力される’情報’とはなにか?あくまでも電圧刺激と弁えるべきか、いや、電磁プログラムコマンドとして同期共有さるべきものか、いや、もっと上位の数学や言語などの思考秩序プロパティなのか。
・そして、脳神経細胞が補強され増幅されることによって生じうる新たな’能力’とはなにか’?数理上の情報処理能力か、物理上の運動能力まで拡張されるのか。
・これらを新規に付与された脳神経細胞は、直前までのそれらとは別物になってしまうのか、そういう処理を施された人間はそれでもまだ自律的な人間といえようか。
・そもそも或る個人にとっての’外部環境’は何らかの自然物であるとしても、'外部情報'は別の個人があらかじめ準備しておいたものであるはず、ではもともと誰が(なにが)準備したものか、コマンドプログラムは、数学や言語は…

’情報’、’環境’、そして’能力’ ─ どれもこれも、本書の頁を捲るたびに寧ろ多元的な疑念を読者に喚起し続けうる重大な論題なのである。

さて、さまざまな知的洞察や想像力は本書読後の皆々様に存分に発動頂くとして、とりあえず此度の【読書メモ】ブログとしては本書コンテンツそのものをちらりと要約しおくこととしよう。
とりわけ触発性の高い箇所は第3章『脳とAI融合の未来』であろうと僕なりに察し、だから本書第3章に絞って僕なりに以下に記す。




<脳の能力開発と潜在能力の模索>
本著者の名を冠した『池谷 脳AI融合プロジェクト』の事例 ─ 脳チップ移植、脳AI移植、インターネット脳、脳-脳融合。
※ なお、これらにおける人工知能の役回りについては本文のみではやや想像しがたいところあり、若干の斟酌必要。


① 脳チップ移植
或る個人の脳にコンピュータチップを移植し、そのチップを介して、本来その個人が感知出来ない外的環境情報(地磁気など)や自身の生体情報(血圧変化など)を入力、これらをその個人自身の知覚情報たらしめるもの。

地磁気を感知していないネズミの脳の複数の部位に、地磁気情報のチップを埋め込むと、これによる電気刺激によってこのネズミは脳において地磁気を感受し、地磁気に応じて行動することが出来るようになる ─ と既に実証されている。
これをさまざま応用し、人間にまで適用すれば、例えば赤外線情報のチップ、紫外線情報のチップ、X線情報のチップを移植することによって、その個人は赤外線や紫外線やX線を脳において見ていることになる ─ と想定されている。


⓶ 脳AI融合
或る個人の脳内の情報をいったん人工知能に出力し、これを人工知能が分析、それらを同じ個人の脳にフィードバックして脳の情報知覚力を拡張するもの。

或るネズミが人間の英語とスペイン語それぞれの音声振動パターンを別個に聞き分けるよう、操作が試みられ続けている。
ここでこのネズミに両言語を聞かせつつ、このネズミの大脳皮質における一次聴覚野における脳波を、別個に人工知能で高確率で判別させる。
ここで判別された両言語の音声振動パターンを、あらためて電気信号としてこのネズミの一次聴覚野にフィードバック入力すると、このネズミは’自律的’にこれら両言語の音声振動パターンを判別できるようになる ─ と予想されている。

この成果を人間に適用すれば、人間自身がこれまで脳において僅かしか活用していなかった潜在的な情報認識能力や情報判別能力をさまざま補強することが可能となるであろう。


③ インターネット脳
或る個人の脳をインターネット/電子デバイス類と連動させ、脳活動と電磁気入出力をシームレスに接続するもの。

ネズミを或る部屋内におき、2つのボタン押下を選択させ、ひとつのボタンはこの部屋を明るくするものでありもうひとつのボタンは部屋を暗くするものであるとパターン学習させる。
このネズミの脳内における活動情報を人工知能に読み込ませ、それからあらためてこれら情報をこのネズミにフィードバックする。
ここで、このネズミとこの部屋のファシリティを何らかの方法でICT連結すると、このネズミが脳内において部屋を明るく/暗くしたいと「脳内で念じる」だけで、本当に部屋が明るく/暗くなるように…?? と期待されている。


④ 脳-脳結合
複数個人の脳における情報を、人工知能を介して連結し、コミュニケーション規模拡大によって同じ複数個人間にて情報量を増やしつつ共有するもの。

アメリカの或る実験室におけるネズミの脳波を、インターネット介してブラジルの或る実験室にいるネズミの脳に直接送信し、刺激を加えると、このブラジルネズミはアメリカネズミの脳波を「知る」ことが出来た。
それどころか、複数のネズミの脳を0/1で(電圧?)刺激させつつ、これらネズミをいわばそれぞれ電子素子と見做して連結させ、全体をコンピュータとして駆動させることにより、画像認識や天気予報にかかる演算処理が可能であることも分かっている。
脳-脳結合によって成る生体コンピュータ(biological computer)といえる。

尤も、在来型のコンピュータと比べてこれら生体コンピュータの情報処理能力はまだまだ劣っている。


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<脳情報の読み取りと、脳への情報書き込み 現時点での留意点>
脳への情報アクセス手段としては、電気、磁気、超音波振動、光 が試み続けられている。
これら手段は、空間分解能における精度、時間分解能における精度、そして脳への侵襲(物理上の接触)度合い に則って妥当性/是非が判断されるべきである。

① 脳情報の読み取り
非侵襲型の(脳に直接接触しない)方式を採った脳活動記録デバイスが、アメリカのヴェンチャー企業によって既に開発済みである。
脳の電気的活動による磁場を測定記録するものがあり、また脳内血流の動態を近赤外分光法によって測定するものもある。
これらは軽量で携行可能ゆえ、特定専門機関による設備に留まらず広く普及が目されている。


⓶ 脳への情報書き込み
こちらはどうしても大脳皮質や海馬における神経細胞を刺激することになり、部位の精度も安全性も極力尊重されなければならない。
とりわけ空間分解能と時間分解能における精度を(電磁気活用以上に)向上させる手段として、超音波振動によるものと「光遺伝学」を活かしたものがある。

超音波振動を活かしたものとしては、たとえば2万kHz以上の高周波を当てることによって、電気よりも非侵襲的にかつ数ミリmのオーダーで脳のごく特定の領域部位を刺激が可能 ─ なはずである。
しかしこの振動の方位精度は必ずしも信頼されているわけではない。

また光遺伝学を活かしたものとしては、なんと光照射によって特定の神経細胞に’遺伝子改変操作’を加え、’新たなタンパク分子’を発現させつつ、これに光を当てるたびにそれら脳神経細ひとつひとつをミリ秒単位で操作可能なもの。
空間分解能と時間分解能ともに極めて優れていることになる。
ただし、現時点ではそもそも光の入射そのもののために脳に光ファイバを直接差し込む操作がどうしても必要となり、また、もともとその個人が有さない神経細胞を遺伝子改変で新たに作るため、これら含め合わせればむしろ極めて侵襲的な操作ともいえる。


ともあれ、脳への情報書き込みのごく最近の研究では、ある個人の視覚皮質を電気刺激したことによってその個人のアルファベット認識能力が向上しており、これは非言語「イメージ」の外部入力/直接伝送を可能とした実例である。

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以上 学術素人の僕なりにほんの一端ながら要約してみた。
本書ではこれらに続き、我々人類がおのれの脳の物理的かつ数理的な限界を「脳そのものにおいて」超越するとしたら、何が為されることになるのか、そこで人工知能やビッグデータとどう協調することになるのか、さらに、それらが我々自身にとっていったい何を「意味」するのか、などなど深淵な論旨も添えられている。

あらためて繰り返すが、本書は平易な技術案内本に留めるべきものでは断じてあらず、むしろ本書をきっかけに人智そのもののとてつもないパラダイム転換をさまざま考察深めてゆくべきであろう。

(おわり)