2022/02/15

【読書メモ】 数学にとって証明とはなにか

多くの学生は、理数科目が嫌いである。
たとえば理科の場合、さぁ宇宙と自然の大海に飛び込もうだの、無限の未来が君たちを待っているだのと、掛け声こそは勇躍しつつも、じっさいの勉強となると自然物や運動そのものに身を委ねるでもなく、むしろ数歩身を引きつつ、さまざまな条件分けと束縛条件のもとでのアナリティカルな客観演習ばかり。
総じてみればむしろ’自然離れ’した思考活動…うぬ、これはどうにも恋心が芽生えにくい代物なのである。

さらに輪をかけて’自然離れ’しているよう映るのが数学であろう。
えーと、なんだ?数学こそは宇宙と万物の統一の系でありかつ根元でもあるのだって?そんな遠大にして深淵なご高説を懇々と聞かされれば聞かされるほど、却って疎遠感覚ばかりに苛まれてしまうのがまともな精神の学生ではないだろうか。
僕などは高校生の時分からずーっと数学が嫌いでたまらず、なるほど美貌の数学教師に教わった経緯もありその節は恋や愛について色々と、いやそれはともかくも、どうにも数学というものは’自然離れ’どころか’人間離れ’すらした奇妙なほどの法則性、それどころかいわば悪魔のコードブックのごとき超越性そして超然性、さまざまな畏怖を垣間見ることしきりなのである。

仮に数学に’人間寄り’の側面がチラッとでも垣間見れるとしたら、さまざま超然的に固められた数学命題群そのものよりも、むしろそれらの'整序つまり証明論理'と、それらを活かしつつ現実側に捌きおろしてゆく’確率技法'かもしれぬ。
思い起こせば、これらの思考系に限っては僕は学生時代から比較的得意ではあった。
それでも、電機メーカにてICT周りの製品拡販さらに契約法務においてしばし考えたこと ─ 本当は’人間自身’による思考活動はあくまで「諸命題の設定」までであり、それらを整序し捌き下ろしていく「証明や確率の技法そのもの」は最も早くコンピュータへと移植が片付いてしまうのではないか、よってそれらの数理技法はむしろ人間には無用となってしまうのではないか。

そんな、こんな、とつらつら回想し考えをくるくると巡らせたのがきっかけで、本ブログにて久々に数学まわりの本を紹介しようと思い立った。
そこで此度は以下の本を手に取ってみたのである。
数学にとって証明とはなにか 瀬山士郎 講談社Blue Backs』

僕なりにあらためて察するに、もとより数学という思考系は入口も出口も判然とせぬまま、目的と過程が混然とした若々しさ満点の超然世界であり、だから数学本というものは(とりわけ一般読者向けの場合は)往々にして論旨が縦横無尽かつ循環的ではある。
本書にしてもさまざまな論旨が章立てを超えてしばしば交差しており、そこが数学本たるゆえん、寧ろスリリングなつくりではあるのだが、とまれ読み進めるにさいしてはある程度以上の精密な分析力や峻別力は必要となろう。

さて今回の【読書メモ】としては、本書における大要/概説にあたるであろう第2章~第3章にて特に要約的に記された箇所を、僕なりに絞って以下に記す。




<大要>
複数の命題の関係を原因ないし結果として証明していく場合、我々が数学(そして自然科学)にて起用する論理を大別すると、演繹論理帰納論理仮説論理である

これらの論理をそれぞれ単純化して分析。
まず或る2つの数学命題(変数)AとBを、それぞれの論理によって複合命題と成す。
ここで、それぞれの論理を論理記号で表現し、真/偽を当て込んで論理整合を確かめる。

なお論理記号としては、ここでは ¬A (Aではない)、A∨B(AまたはB)、A∧B(AかつB)、A→B(AならばB) に限定しおく。
※ とくに、’…ならば’ にあたる’→'は直接因果'if'ではなく、'この場合にwhile' と了解した方が分かりやすい ─ と僕なりに思う。
※※ なお本書にては真/偽の判定フラグとして真を1とし偽を2として作表されている。

さらに、これら複合命題の単純な数学例を挙げる。


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<演繹論理>
「Aである。AならばBである。したがってBである。」

論理記号で表すと (A∧(A→B))→B
ここで、Aの真/偽および Bの真/偽 この4通りにて
A→B, A∧(A→B), そして総じた (A∧(A→B))→B いずれの真/偽も整合する。
演繹論理は恒真式である。

演繹論理による証明の例: 2等辺三角形の底角は等しい。
2等辺三角形の頂角Aから補助線を底辺BCまで引き、交わる点をDとする。
この補助線が2等分線ならば2辺夾角の合同定理が成り立つ。
したがってΔABD≡ΔACDとなる。
したがって対応角が等しくなり、底角∠B=∠Cとなる。


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<帰納論理> ※いわゆる数学的帰納法ではない
「Bである。AならばBである。したがってAである。」

論理記号で表すと (B∧(A→B))→A
ここで、Aの真/偽 および Bの真/偽 この4通りのうち
Aが偽でBが真の場合には 総じた(B∧(A→B))→Aが偽になってしまう。
’したがってAである’との命題は論理上は偽のまま、これを真に変えることは出来ず、なんらかの実験実証を繰り返し、経験則として’したがってAである「だろう」と見做すしかない。

帰納論理による証明(の不完全さ)の例:
一般に、整数を係数とする1変数の多項式 f(n) で すべての正整数nに対してf(n)が素数となるものは存在しない。
整数を係数とする多項式は一般に f(x) = anxn + an-1xn-1   + … +   a1n + a0
ここで或る正整数mについてこの多項式の値f(m)が素数p 
ならば 
 f(m+p)=f(m)+f(pの倍数) 
したがって f(m+p)<0 ならば素数ではない また f(m+p)>0 ならば素数ではない


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<仮説(演繹)論理>
「Aである。Bである。したがってAならばBである(と仮説する)。」

論理記号で表すと A∧B→(A→B)
ここで、Aの真/偽 および Bの真/偽 この4通りにて
A∧B, A→B, 総じたA∧B→(A→B)  いずれの真/偽も整合し、恒真式である。
とくにこの論理の場合には 総じたA∧B→(A→B)が必ず真となる。
仮説論理は命題Aと命題Bから ’したがってAならばB'(に違いない)と仮説、そして実証してゆく数学手法。

仮説論理による証明の例: あくまで仮説を導くための三段論法
命題A: この袋の中の玉はすべて黒い
命題B: この玉は黒い
したがって この黒い玉はこの袋から取り出されたもの(と仮説可能)


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<背理法(帰謬法)>
「AはAではないという矛盾がある。ならばPである。」
論理記号で三段論法として表すと
A∧(¬A) である。
A∧(¬A) → P である。
ならば P である、証明終わり。
こうすると、何が前提であろうとも命題Pが証明されるということになる。
ところが最初の命題A∧(¬A)がそもそも常に矛盾つまり偽であるので、この証明における論理の真/偽はどうやっても整合されえない。

※ 本箇所は僕なりにさらっと理解したつもりで要約してはみたが、本当はもっと深度の大きな論考なのかもしれない。正直これ以上踏み込む自信が無い、悪しからず。

背理法による証明の例: √2 は有理数ではない 無理数である
√2 が有理数であると仮定
√2 = a/b とし、a,b は整数であり、a/bは既約分数となっている とする。
両辺を2乗して  2 = a2/b2
したがって 2b2 = a2  だから a2 は偶数。
2乗して偶数であるa自身も偶数 だから a=2c とも記せる。
したがって 2b2 = 4c2  だから b2 も偶数。
しかし a2 は偶数 かつ b2 も偶数となると、a/bが既約分数であるという初めの仮定と矛盾したままこの証明が終わってしまう。
よって、√2が有理数であるとの仮定は偽であり、√2は無理数であることになる。


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ざっと以上のとおり、本書の第2章と第3章のうちとりわけ大要と思しき箇所について僕なりに要約してみた。

じっさい、本書は学校教育の事例をはじめ多種多様な証明論題がふんだんに呈されており、理数系のみならず文系の読者でも論題によっては「人智の絶妙さ」に驚嘆させられるであろう。
あらためて僕なりに考えさせられたこと ─ こんご更に人智が論理機械(コンピュータ)に置き換わっていくとしたら、そこで最も徹底されていく知性は証明論理力と確率計算ではないか。
そうであるのなら、人間に真に問われているのは論理整合性よりもさまざまな命題設定力そのものではなかろうか。