『現代の裁判 第8版 市川正人・酒巻匡・山本和彦 有斐閣アルマ』
本書は’裁判’と銘打たれてはいるものの、例えば第1章をざっと読みぬいてみれば、社会規範と法の根本やいわゆる法的三段論法、罪刑法定主義やデュープロセスなどなどを皮切りに、司法にかかる総論が展開されており、平易な文面ながらも理路整然とまとまっている。むしろこの第1章は、高校~大学にて基礎教養として倫理政経科(新課程でいう公共科)を選択している学生諸君にとって、なかなか手頃な参考書となりえようし、さらに例えば’第三者’などという抽象性高い観念への追随力も鍛えられよう。
もちろん、以降の章立てには幾つもの難問もある。
最も難解な観念のひとつは国民による「司法参加(制度)」であろう ─ 例えば日本の裁判員制度にて、これは一般国民と独立司法権における審理上の実務協働を企図したものか、或いはあくまでも両者における審理上の知識共有に留める主旨か。
本旨についてはさまざま類書を参照し実践例を確かめつつ、主旨および是非を見極ざるをえないであろう。
他にも、例えば法律家の身分についての法曹一元制度と職業裁判官制度、また外国法事務弁護士の増加などもなかなか多元的に思案させる論題といえよう。
さて此度ここに紹介する本書は本年2月の第8版、比較的最近の裁判まわりの趨勢について把握しまた喚起しておきたいとの思いから手に取った一冊であり、それらは特に本書の第5章に概説されている。
だから此度の【読書メモ】としても、第5章のうちとくに現時代的な事態進展について僕なりにちょっとだけ抽出し、私的な是非解釈論は極力回避しつつ、以下に要約する。
(繰り返すが「司法参加」については本書読んだ限りでは精密な観念了解が出来なかったので適当に記しておく)。
元来、民事訴訟における審理’遅延’の主な理由は、当事者間での争点整理が非効率であり、よって証拠調べ(証人尋問など)も非効率となり、ここに引き延ばし目的の控訴・上告まで絡めると更に非効率になってしまうため。
そこで民事訴訟法が2003年に改定され、各事案に即した争点整理と証拠調べと判決言い渡し予定期間などを’裁判所が審理計画’として従前に定め、これに強制力をもたせた。
併せて鑑定制度の改善、専門委員制度、知的財産事件や労働事件への対応力強化も進められてきた。
それでも、2020年の民事訴訟にて、地方裁判所第1審訴訟のうち79%が訴訟終了までに2年以上を要しており、とくに控訴・上告のケースでは’審理’のみでも平均で1年以上掛かっている。
ここで更に民事訴訟の迅速化を実践すべく、広く一般社会と連携した全面IT化が謳われ、2020年には争点整理手続きにおけるウェブ会議の活用が推奨され、2021年には全ての地方裁判所本庁で利用可能となっている。
これらITまわりの実践促進のため、民事訴訟法の改正も併せて進められている。
※ この改正がつい先月成立している(と僕なりに理解している)。
2025年以降、オンラインによる訴状の提出など更なるIT化促進が期されている。
民事裁判は’当事者’を訴訟実務にては疎外しつつもその判決には拘束させている、との見方は確かにある。
この不整合は弁護士能力に因るものでもあるが、ともあれ’当事者'は訴訟プロセスにおいて自身の主張と立証の機会が十分に与えられなければならない。
むしろ当事者にかかる自立的な機会を与えること自体が民事訴訟の目的である、との見方すらも可能とされる(『手続き保障の第3の波』理論)。
国民による多数原理(つまり民主主義)と司法権力は協働し難く、むしろ緊張関係が常態である。
とはいえ、国民の一般見識と司法との知識乖離を克服し、司法制度における諸問題を一般国民が民主的に共有すべく、いわゆる「国民の司法参加」が謳われ続けている。
ひとつの典型と見做されている例が、アメリカでこれまで実践されてきた民事・刑事における陪審裁判制度および、裁判官や上級検察官の公選制度。
間接的な「国民の司法参加」の一例が、日本の最高裁判所裁判官に対する国民審査(多数決リコール)。
最高裁裁判官は内閣から任命された上で司法の独立権を維持しているので、彼らに対する国民審査は内閣に対する民主的コントロールともいえる。
※ なおこの国民審査にては、在外邦人の投票能力はこれまで認められてこなかったが、この投票制限に対して先ごろついに当の最高裁が意見判決を下したこと、記憶に新しい。
民事手続きにおける「国民の司法参加」の間接的な例としては、簡易裁判所における司法委員と家庭裁判所における参与員の制度が古くからあった。
両職とも民間選任ではあったが、最高裁によって資格が定められており、裁判所によって事件ごとに指定され、裁判官の審理における補助的な職能に留められてきた。
2003年の民事訴訟法改正では建築、医事、知的財産関係の専門訴訟に関わる専門委員会制度が導入されている。
裁判手続きではなく調停手続きにて、第3者ADRの一環として民間有識者が充てられており、これが民事調停委員および家事調停委員、ただしこれらは最高裁によって資格が定められている。
一方で、これまで日本の刑事事件の裁判手続きにおいては、一般国民が関わる制度は検察審査会(地方検察官による不起訴処分の当否を審査する公選職)のみであり、これとて国民による直接の司法参加ではない。
そこで、周知の裁判員制度が……
(※ それにしても、僕なりにずっと疑念ぬぐえないこと ─ そもそも厳密な刑法制度を本来的に潔しとしてこなかった我々日本人にとって、裁判員制度などが’司法への民主的な理解’を真に深化させえようか?)
国際間のビジネスにおける民事訴訟では、同一の事件にても裁判「管轄」の所在地了解が異なり、おのおのの国が裁判管轄を主張した上での自国優位の訴訟遂行もありえ、だから複数国間での訴訟の競合も起こりうる。
裁判管轄の所在決定について世界包括的に定義した国際条約は未だ成立していない (2005年のハーグ国際私法会議でも包括条約には至っていない)。
日本では従来より、特別の不都合な事情がある場合を除き、国内管轄にかかる民事訴訟法の規定を国際裁判管轄にても当て嵌める由が基本解釈であり、2011の民事訴訟法改正にても明定されている。
国際的な訴訟競合を規制するための日本側の対処策としては、先に訴訟係属している外国の判決が「日本でも承認されうる」ならば日本での訴訟は認めないか、或いはこの外国による訴訟係属を考慮しつつ最適な裁判管轄地を決定するか。
本旨も2011年の民事訴訟法改正で議論されたが明文規定には至っていない。
日本側では一定の許容可能な要件下にて外国判決の効力をも認め、それらに則って債権者は日本の裁判所で執行判決を取得し債務者への強制執行も可能とされている。
なお、例えばアメリカの裁判では、不法行為における加害者の悪性が強い場合には懲罰的・制裁的な賠償支払いが判決なされる場合があるが、このような苛烈な判決の執行が日本側にも求められたとしても、日本側ではこれを公序に反するとして承認しない立場を判例上とっている。
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以上、あくまでも本書第5章のコンテンツから、ほんの一端だけ掻い摘んで僕なりに丸めて綴ってみた。
ともかくも、「司法権の独立」に対する「国民の司法参加」についての解釈が難しい。
これが真に民主的な知識増大たりうるのか、そして権力拮抗の克服たりうるのか、いや、かかる発想そのものが寧ろ軽薄短慮な衆愚すらもたらしうるのか。
法学部への進学を目している大学受験生諸君。
法は政治のみから造られる加工品ではないぞ、むしろ政治以前からナチュラルにそしてヒューマンに存続してきた慣習に大いに依っているものだ。
つまり根本は愛と良心だ!
だから裁判は断じてビジネスに終始してはならないんだ、忘れるなよ。
(おわり