だから今年も書いてみよう。
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そうだな、まず、今回の新成人たちは1994年度の生まれであって、過去一回りの世代のうちでもとりわけ優秀だとされてきた連中だ。
少なくとも、学力やスポーツなどのように顕在化された能力においては、まこと優秀な子が多いとされてきた。
全てにおいて、そして総体として優秀かどうかは分からないが、頼もしさは十分。
人間が世代を下るとともに能力発揮に優れていくのは、以前の世代を卑怯に矮小化させてきた強欲や迷信が根絶されつつ、エネルギー調達や活用の効率化、そんな好回転が進むからだろう。
まこと、人間はみな動的な存在だなとつくづく納得する。
しかも能力向上は、必ずしも全方位への直線的なプロセスを経るわけではなく、あっちこっちと試行錯誤の行為の連続。
その試行錯誤が誰の意思なのか、さっぱり分からぬところが痛快だ。
行為、能力、意思と並べておいてみれば、行為の内に能力が育ち、行為の外に意思が付く、というべきか。
どんなことでも行為から始まるのであって、未経験の物事に意志を確立することなど出来ない。
若い人たちは、何でもやってみることだ。
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いろいろ試行錯誤してみて、そこで理解出来ない観念に突き当たったとしても、怖気づくことはない。
おのれがどうしても理解出来ないものは、既に誰か先人の意思が紛れ込んで、こびりついている。
それらを全部バリバリと剥ぎ取って、ゴミ箱に捨ててしまおう。
それからあらためて、わけのわからなかったものをクールに観察し直してみれば、中から出てくるものはギラッと輝く素材と事実と論理だけだ。
さぁ、そこまで暴いたら、君たちが好きに料理すりゃいいんだ。
だからこそ、今年も言う。
「誰が」 「何を」 「どうする」 という思念において、まず「誰が」を切り捨てろ。
何が、どうなってんのか、何をどうすればよいか、そこんところを考え続けろ。
誰が、については、自然に定まっていくから。
でもカネはいつでも「誰か」にくっついているじゃないか ─ というのだろうが、それとて錯覚だ。
自由経済圏では、カネはずーっと回り続けるように出来ている、それはあらゆるビジネスがずーっと損得を繰り返して動いているからだ。
一方で、人間は誰だっていずれ死ぬ。
だから、永遠に誰かが専有し続けるカネなど在ったためしがない。
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日本は領域拡大が許されず、随意の武装すら許されず、日本円は世界の基軸決済通貨には格上げされていない。
つまり物理的条件は制約され、利潤の追求にも制限がおかれ続けている。
このような世界で我々が豊かになってきたのは、まず産業における供給競争に鋭敏だったこと、次に、出来るだけ多くの国民の消費力を尊重してきたから。
日本国民の産業競争力と消費享受、これらを「ともに」発展させるためにはGDP拡大(カネまわしの拡大)といった答えがなされうる。
が、それ以上に世界に打って出る拡張的な答えは、まだ明確ではない。
答えを出さずにじっとしている人たちの話は、きっと、答えが出ないようにという意思がロックを掛けている。
そんな意思はアンロックして、素材と事実と論理に挑んでいこう。
以上