その続編として、あらためて簡単なエッセイを記しておく。
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時々、我々人間はハードウェアである以上、どこかに限界があるのではないか、と考えてしまうことがある。
そもそも、我々人間をハードウェアとして構成する物質・元素は限られている。
(たとえ代謝は絶え間無いとはいっても、その物質と元素は限られている。)
また、我々が農林水産業や医療やエネルギーや鉱工業において取り扱うハードウェア、つまり物質・元素も、やはり限られている。
だから、この生産物と人間の相対関係においては、何らかのタイミングで必ず供給超過となる ─ つまり、人間の方が余ることになる。
本当はもう、とっくに余っているのかもしれない。
それで、しょうがないからカネや法や議会や知識産業などという虚構=ソフトウェアを生み出して、それらを余剰な人間にあてががい、民主主義だの貿易交渉だの国際金融だなどと遊んできたのでは?
そして一方では、ハードウェア型の職能における生産活動はすべて、ロボットによる複製拡大にとって代わりつつあるのではないか。
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いや、たぶん違う。
我々はありとあらゆる素材や元素の新規組み合わせを生み出して、新たな物質を作り出してきた。
新たな物質素材は次から次へと編み出されており、その量的規模はともかくも、組み合わせの上限にはまだまだ到底至っていない。
と、すると、たとえ人間自身を構成するハードウェアは有限であっても、農林水産業や医療やエネルギーや鉱工業を織り成すハードウェアは次から次へと新種がまだまだ出てくるわけだ。
よって、これらの産業において人間がいつまでも余るわけがない。
それ以上に、もっと重要なこと。
我々人間自身は、ハードウェアとしては確かに限られた物質素材でしかないが、しかしさまざまな創出を仮想的にひらめく「脳」においては、まだまだ論理的な試行錯誤が終わっていないはずだ。
だからこそ、我々は次から次へと新種のハードウェアの組み合わせを創出出来るというわけだ。
ロボットには、まだここまでは出来ぬだろう。
つまり。
我々人間の失業率とは、新たな元素物質の組み合わせによる新素材の創出速度と、ロボットによる既存のハードウェア複製拡大の速度、この両者の速度差なのである
─ なんて言い切ってみれば、一丁前の論文のたたき台にはなるかもしれないぞ。
以上