2015/11/30

チェスボード

チェスボードを眺めていると、ほわんと気づくことがある。

まず、チェスボードには縦と横それぞれ別番地のマス目が有る。
そのそれぞれのマス目において、騎馬や戦車砲や女王など特定の権能の駒が動き回る。
そして ─ それらの駒を操作する我々プレイヤーが要る。
こういうふうに、我々人間を含め最低でも3層の独立したファクターから、チェスというゲームが成り立っている。
ここのところ、ざっと考えれば。
電子の移動属性および外殻電子数に応じた元素周期表、そしてそれぞれの元素、さらに元素それぞれの物理・化学反応を試みる我々人間に、似ていなくもない。
似てはいるが、チェスの方が人間随意であるだけ、はるかに人間的である。

現行のチェスボードは、たった8x8のマス目しかない。
しかし、これをどんどん大きくしていったら、どんなゲームになるだろう?
もしも、100x100という正方マス目のボードとなり、それでも自走砲や騎馬などの駒の権能そのものは変わらんとしたら ─ 我々人間プレーヤーの思考単位、そしてゲームの総時間がかなり変わるだろう。
まして、100,000x100,000 というマス目にもなると、おそろしく茫漠とした譜面になり、あたかも大平原の遊牧民のように遠大な年月をかけて、ゆーーーっくりとプレイすることになるのでは?
いや、そんなことしてられっか、と考えたくもなる。
そうだ、駒の数を数十万個にしよう、そして、グーーンと長距離ひとっ飛びさせればよろし
……といった具合に、人間プレイヤーの思考時間や闘争心だけは維持したままで、ボードのマス目と駒の権能をどんどん拡大させたくもなろうというもの。

人間の歴史経緯とは、今までのところ、こんなものじゃないかな。
科学史でいえば、大は移動輸送から、小はナノテクノロジーまで、マス目の数と駒の機能をともにどんどん増大させてきた。
あわせて経済史でみても、商材も取引回数も通貨量もどんどん増大させ、これもマス目の数と駒の機能をともに増大させてきたといえよう。
しかも数学や価値査定方式や権利思想が、これらの複雑化にどんどん拍車をかけたり。
とはいえ、これらマス目と駒の「どんどん」を邁進させてきた当の人間自身は、何かが変わってきたのだろうか。


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かつてチェスや将棋を考案し普及させた、太古の人たち。
なぜ、マス目の数を数十万や数百万にまで広げようとしなかったのだろうか?
そして、なぜ駒の権能を孫悟空やシンドバッドやアーサー王のように超強力化させようとしなかったのか?
いや本当は、それらを無限大にまで「どんどん」拡大させていこうという意思だけは、世代を超えていまだにどこかで進行中なのかもしれない。
だから、人口が数億人以上の国家が出現し、それでもエネルギー源と食糧を科学技術力でまかなって余りある。
しかし、もしそうならば、数億人以上の人口をかかえた巨大都市が地球上に出現しないのはなぜだろう?
聖書やコーランのページ数、そしてSNSユーザの数は、なぜ無限大に増え続けることがないのだろうか?

あるいは。
あまり巨大化したチェスゲームなどは 「野暮で退屈で体力を消耗させる」 からだろう、ゆえに、経験と調整を続けた上での、現行の8x8マス目であり、駒の権能ではないかしら。
こっちの方が真理のような気もする。
マージャンにしてもポーカーにしても、兵器の殺傷能力にしても、そしてインフレとデフレの交代にしても。
ならば、世界の問題など、人間の気風次第でなんとでもなる。

以上