2019/05/31

【読書メモ】ロボット・AIと法

AIやロボットは、ヒトと同様に独立自律の意思ー行為ー責任主体と見做されるべきだろうか。
見做されるとすれば、如何なる主体として、また如何なる法解釈に準じてのことか。
本主題はかなり抽象度の高い大テーマでありつつ、社会生活における実践面にてこんご不可避となる直接的な論題ともいえよう。
よって社会科のセンスを論理的にも実践的も問い質す絶好の主題たりうると僕なりに判断、此度ここに本書を紹介してみたい。
ロボット・AIと法 弥永真生・宍戸常寿 編 有斐閣

本書の巻頭部ほか随所に引用紹介されている法や施策の策定プロセスやガイドラインについては、ほとんど総論概況に留まっておるので精読は不要であろう。
むしろ注目すべき論旨はChapter 3 以降の数章に展開されているように察せられる。

以下の僕なりの読書メモとしては、とりわけ思考意欲を触発された Chapter 3 及び Chapter 6 についてまとめおくこととしたが、それは前者がヒトの存立の根本を問い質す論題であり、後者は契約主体の何たるかを再考させる実践的な問題設定であるため。


<Chapter 3. ロボット・AIと自己決定する個人>
※ 本章はとりわけ多元的な分析箇所である。
ヒトは意思と行為と責任の連関において本当に自律的に独立した個人たりえるか、そして、ヒトの社会生活に介在しうるAIないしロボットも社会構成の同胞と見做しうるか
─ かかる複合的(かつ深淵)な論題を設定した上で、民主主義と法におけるさまざまな解釈論をも照会しつつ、ヒトのこんごの在りようを精密に導出図っているようではある。
(※ なお本箇所にては、ヒトの存立要件と社会の存在要件につきもっと整然とマトリクス化(箇条書き)されていれば、個々の論旨もヨリ明瞭になるように察せられる。)

・法定義上の「個人」は、不可分に独立した主体(個体)として、意思と行為と責任を一貫して成す者とされる。
能力からとらえれば、いかなる個人も、権利・義務の自律的な主体として「権利能力」を有し、かつ、それらにかかる私的自治や契約自由を自律的に行使しうる「行為能力」も有する ─ はずである。

ケルゼンらによる価値相対主義によれば、いかなる個人にも自律的な権利能力や行為能力が有るからこそ、万民共通の絶対的な価値基準をおくことなく民主主義が(つまり暫定的な多数決も)存続し、かつ民主主義は常に望ましいものに修正されつつ機能し続ける
民事法における過失責任主義(無過失への免責)も、刑事法における応報刑論も、個人の自律的な権利能力や行為能力を信頼してこそ成り立っている。

・しかしながら。
20世紀後半以降の認知科学や心理学は、「或る個人が或る選択環境下にて必ずしも自律的な意思決定~行為を成すとは限らない」、と指摘している。
じっさい、各主体は、何らかの制限下にて特定の行為を余儀なくされ、その行為ののちにおのれの意思決定を整合させてしまう場合がありうる。

レッシグは、そのような「各主体の行為上の制限が広くアークテクチャとして存在している」とし、とくに(民主的なはずの)国家を超えた(利益最優先の)多国籍企業等によってサイバースペース上のソフトウェア/コードが可塑的にコントロールされ続ける危険性を指摘。
それでも、例えばサンスティーンは、たとえ各主体が行為制限のアークテクチャ環境下におかれたとしても、そこで国家行政が各主体の「選択環境条件を柔軟に変えてやる=ナッジする」ならば、社会にとって良きパターナリズムとも見做すことが出来、これは結果として個々人の自律的意思決定の保障追求つまりリバタリアニズムとは矛盾しない、としている。

・さて、上の前提にて ─ 「ヒトの各主体の選択環境条件における’良き’変更(ナッジ)」を、ヒトではなくAIが行う事態につき、我々はこれを如何に諒解すべきであろうか?
このナッジがAIによって総括的になされたにせよ、あるいは部分的であったにせよ、ヒト各主体自身の自己決定によるはずの行動選択機会ないし行為責任が矮小化しないだろうか?
本旨を吟味すれば、ヒト各主体とAIロボットにてそれぞれの意思と行動とその法的責任を整然と切り分けること容易ならざると想像出来る。

もっと難度高い問題は、AIによるナッジをヒト各主体が意識すらしていないケースにおける意思と行動と責任の領域設定であろう ─ そもそもこの状況下にて、ヒト各主体が自律的にAIのナッジを受容ないし排除出来るか?
出来ないとしたら、法の適用をどうすればよいのか。
そして、AIがそこまで了察した上でヒト各主体をナッジしているとしたら、それどころか、ヒト社会の側がそこまで了察した上でAIにナッジさせていたら…


・サヴィニーやカント以来、民法学ではヒトを自律的な人格としつつ、モノをヒトの意思と行為の対象物と見做して切り分けてきたが、この伝統的な切り分けでは自律的知性を有しうるAIをモノと見做しおくことはもはや難しい。
ヒト/AIにわたる法解釈上の主体峻別が出来ぬ以上は、意思ー行動ー責任の連関におけるそれぞれの主体をヒト/AIのいずれかに一律に帰することも困難となる。
よって、行為の主体がヒトであろうとAIであろうと、あくまでその行為の結果そのものに対して責任が生じるとの見方もやむなし、国家による=刑法上の事前抑止力の早期化重視にもつながりうる(新派刑法学の観点)。

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<Chapter 6. AIと契約>
※ 本章も多元的な分析眼を触発しえよう素敵なコンテンツ (それでいてやや散文的な文脈展開のため、読者として本当に文脈を捕捉しているか否か不安は残る。)

本章の論旨を僕なりに乱暴に箇条書きするかぎり、おそらくは以下のようなものであろうと察する。

① 事業(販売)契約にて発生しうるアクション
・契約の主目的の定義
・契約の申込み
・契約の承諾(名義と利益帰属において)
・特定事業者間での「基本契約」の合意
・契約締結における代理行為
・契約履行における諸実務の表意
・表意に因る錯誤行為
・契約履行における瑕疵(誤動作など)

② 事業(販売)契約における「機械/コンピュータの介在」レベル
・自販機が介在する契約
・EDIなど、特定事業者間のクローズド・ネットワークの契約
(基本契約が当事者間で合意されやすい)
・インターネットなど、オープン・ネットワークでの契約
(不特定多数間のため基本契約が共有されにくい)
・AIが介在する契約

③ 上の①と②の組み合わせにおける、判断者あるいはリスク負担者;
・自律的なヒト
・機械/コンピュータの介在を知らされていないヒト
・機械/コンピュータの機能を開示されていないヒト
・ヒトの指示に迎合するのみの機械/コンピュータ
・ヒトの指示を超えて自律的に学習し演算処理しうるAI
※ なんと、コンピュータとくにAIを、契約の合意や実務履行や代理行為の当事者とする見方もある!

上の①~③のどの組み合わせにおいても、理論上の最適解は呈されておらず、また世界的にも共有されていない。
それゆえにこそ、さまざまに深淵な考察が為されうる。
例えば、以下のようなもの。

インターネットにおける販売契約の入力端末にて消費者(ヒト)が錯誤によって誤入力をした結果、不本意な契約ないし重過失に至ったとする。
この場合、あくまで販売事業者(ヒト)が事態回避のための努力を怠っていた(あるいは悪意すらありえた)とされ、この契約は無効となる。
尤も、事業者による意思表示の妥当性は個別には司法判断されやすいが、意思表示の要件そのものまでが厳密に定義されているとは言い難く、さらに、真意の「表示の意思」がたとえ事業者に有ったとしてもそれを意思表示の構成要素そのものとは見做さない傾向が強い。

契約履行における意思表示にさいして「表示の意思」自体が必須か否か。
コンピュータ/AIには何ら自律的な意思そのものは無いとしても、形の上では、これらが意思表示を為しうるとされてはいる。
それでいて、ここがウヤムヤだとヒトとAIとの間における帰責意識が希薄たりうる。
民法に則ったリスク配分理論も、コンピュータ/AIについてはヒト同様には適用できない。

インターネット時代にて契約が増大する中、ヒトの実務軽減のため、(自律的意思はなくとも)意思表示だけは可能なコンピュータに「契約締結の代理人」の機能までは期待する、との見方もおこりうる。
しかしそれでも、コンピュータ自身にはなんら責任能力が無く(無権代理人とするならばなおさらのこと)、そして、仮にそのコンピュータが何らかの不具合や不法行為を為した場合、それを代理人として介在させたヒトのみが契約当事者として全責任を負うことは出来ない。
つまり、コンピュータを活用する契約においては、ヒト同士のように「契約当事者」と「契約締結の代理人」を明確に分界することは不可能で、よって欧米では概してコンピュータを代理人とは解釈していない。

AIは従来のコンピュータと異なり、いわばインテリジェント・エージェントやモバイル・エージェントとしてネットワークを介しつつ、人間に成り代わって自律的に学習し契約履行実務の最適化判断まで行いうる。
AIによって、ブロックチェーン技術などを活かして仮想通貨決済にかかる契約の合意から履行までを自律的に遂行する、いわゆるスマートコントラクトも可能となってきた。
それでは、AIは契約締結の代理人機能を果たせるか、それどころか、AIを契約当事者そのもの(法人格)であると見做してもよいものか??

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……ざっと、このあたりまで読んで、まとめてみた。
AIを契約当事者そのものと見做しうるかについては、コンピュータと代理人の論とほとんど似たかたちで、今のところ学術的には否定論が強いようである。

なお、上に概括した本書の第3章にせよ第6章にせよ、文面はじつに精密であり、かつ法学上の引用もふんだん。
さらに他の章立てとしては、ロボットによる自動運転や手術、産業技術と競争と知財権、民事から刑事まで、そして国家政府から民間、などなど。

さて、機械とコンピュータは(とりわけAIは)我々人間にとって何を省力化し、どこまで代行し、何をもたらしうるか、これほど理論的にチャレンジングであり、現実との折り合いつけ難い学術領域はそうは無かろう、或いは、知性と権利の分離をもたらす新種の「自己同一性意識」さえもがいずれ興るかもしれぬ
─ そう捉えてみれば本領域は緊張感バツグンな新分野ともなりえよう、よって、とりわけ法律分野に何らかの志をおく学生諸君に一度は手に取って欲しい一冊である。

以上
(なお、つまらぬことだが本書の英訳タイトルである'The Laws of Robots and AI' については 'of'より'on'の方がヨリ本書主旨に近いような気もしている。)

2019/05/30

縄文スマホ

もしもの話だ。
タイムマシンに乗って縄文時代にゆき、充電済みのスマホを1台、置いてきたとする。
この場合、縄文人にはそれが何のためのデバイスなのか、さっぱり分からぬだろう。
だからすぐに破損して、おしまい。


だが、やはりタイムマシンに乗って同じ縄文時代にゆき、充電済みのスマホを2台置いてきたらどうだろうか?
この場合、縄文人たちは極めて多くを知るだろう。
まず、同じ物質、同じ加工、つまり複製というものを可能とする工業技術が存在すること。
しかも、電気を使っているらしいこと。
そして ─ もしかしたらだが、これら2つのスマホで無線の通話が出来ることも、知ってしまうかもしれない。
ただし、仮にそこまで知れたとしても、浅はかな誰かが1つを解体し復元不能にしてしまうかもしれぬ。
それに、文字を知らぬとしたら、データ通信の意味は分かるまい。
ここまでだ。


さて、それでは、同じ縄文時代に今度は3台の充電済みスマホを置いてきたとする。
縄文人たちは、やはり2台間で音声通話が可能だと知り、そこで残る1台を解体することになろうか。
そこで彼らは、ハードウェア素材としてプラスティックも液晶も知り、また導線や半導体も知ることになる。
そして、このスマホ内部の導線や半導体は、電気を或る位置から別の位置に変位させる回路らしい、と見当をつけうるだろう。
そして閃くだろう ─ この電気は、とてつもなく小さな信号であろうが、一定のアルゴリズム(つまりプログラム)なのだと。
そこでさらに気づく、音声を無線で交わすアルゴリズムの信号があるのなら、画面にチラチラと現れる小さな記号も何らかのアルゴリズムの信号に違いない ─ うむ、これは文字だ、と。
残すは電気容量についての問題だが、これは一番最後にまとめて了解すればよい派生技術だ。


かくして。
スマホが3台もあれば、縄文人たちは電気を知り、半導体や導線やプラスティック素材を知り液晶も知り、信号を知り、アルゴリズムつまり数学を知り、音声の情報変換を知り、文字をも知ることになって……
そういうわけで、スマホは縄文時代の日本にて既に沢山製造されていたとしても、おかしくはないのだ!!

そうだとしたら、現在の日本においてもまだスマホは使われているだろうか?
「くだらないなあ、わざわざこんな不便なもの使って。だって大気の粒子転送などによるテレパシーの方が遥かに正確だし便利じゃないか」
「いやいや、それでもこれは多くの人間を製造に従事させ、また多くの指示を転送するための道具だったかもしれないよ」
ということになるのかな。


(尤も、どこかの王さまが、自分自身の知識「以外」を全て消滅させてしまえば、そこで何もかもおしまいだが。)

以上

2019/05/27

大学入試の英文は誰でも読める

アメリカ合衆国のトランプ大統領が、目下のところ訪日中である。
トランプ大統領に、日本の大学入試問題をご確認頂いた。

まずは数学の入試問題を大統領にご覧頂いた。
「ほぅ、日本の数学教育はわが国のよりも概して水準が高そうだな」、と、大統領は嘆息された。

次に、美術や音楽の資料集および授業を、大統領に参観頂いた。
「ほぅ、日本の芸術教育はかなり高尚なものだね」、と、大統領は感嘆の声をあげられた。

次が、英語の(いわゆる)長文読解問題である。
すると大統領は、「おぃなんだこれはキッズの知能テストか」と失笑された。
さすがにこれにはこちらもカチンときて、こんどは早稲田や慶應の入試英文をご覧頂いたが、大統領がちょっとだけ感心の風を見せられたのは早稲田理工および慶應SFCと文の入試英文のみであった。


…以上はすべて空想による冗談である。
じっさい、僕ごときの問いかけが畏れ多くもアメリカ合衆国大統領に相手にされる由もなかろう。

ただ、本稿で言いたいことは極めてシンプルだ。
日本の大学入試における英文読解のごときは、18歳の青少年が理科や社会科を犠牲にしてまで深く掘り下げるような代物ではない。
たかだか6000語かそこいらのヴォキャレベルだぜ、こんなもの英米では10歳のキッズのヴォキャ数にも満たない、それで、高尚ないし深淵なコンテンツの文面が展開されるはずもなかろうが。
ほほぅ?と、日本語訳を一瞥してみれば、うむ、数学や現代文の1/10程度の思考動員で片付いちゃいそうな代物であると知れる。

さぁ、日本の大学を受験する青少年たちはきけ。
どうせ6000語程度で済んじまうキッズの世界だ、英単語と熟語をとっとと覚えりゃいいんだ、それでほぼ全ての入試英文を読める。
どの参考書にも典型的な例文が載っている、どの参考書も似たり寄ったり、あたりまえだ。
こんな程度のちっちゃな世界で、英文の構造ごときをいちいち探求するな、いちいち悩むな、時間のむだむだ。
探求心があるのなら理科や社会科で存分に発揮すればいいんだ、悩みたいのならば難解な数学や現代文で身をよじって苦しめばいいんだ。
そして、本当に高尚な英文にぶち当たりたいのならば、大学に入ってから大人向けの本格的な学術英語を存分に読み漁ればいい。


…と、まあ、こんなふうに考えると、むしろ理科や社会科で優れた成績をおさめ大学に入学した子が、それから初めて英語学習にとりかかっても十分じゃないか、とも考えられる。
この由については、語学と知育の関係も要考慮であろうから、別にまた記すこととする。


以上だ。

2019/05/11

A.I.U.


「先生、聞いて下さい!あたし、必殺のサーブを習得しちゃいました!」
「ほぅ、そうか。で?」
「だから受けて下さい!」
「なんだ、そんなもん、顧問のxx先生に相手してもらえばいいじゃないか」
「だって、あの人イヤなんだもん」
「それはそうかもしれないが、だからって、なぜ俺が?」
「お願いしますよ~、あたしのサーブを受けて下さい、ねえ、きっとビックリするから」
「…うぅむ、それならちょっと相手してやるか」



「先生、いいですかー、それでは打ちますよ、凄いボールだから腰を抜かさないようにね」
「そうかね。さぁ、遠慮せずに思いきり打ってきなさい」
「ハイッ!」
「うわっ!…消えた!…ボールが消えてしまった…これはなんということだ!」
「ねえ、すごいでしょう!」
「おい!これは只事じゃないぞ!君はとんでもないことをしでかしてしまった!いいか、『消えるボール』は在ってはならないものなんだ」
「ふーん?でも、あたしは使えるんだけど~~、ふふふん♩」
「しかし、これは起こってはならないことなんだよ……うーむ…よし!こうしよう。いいかね、ほら、ここに人工知能があるね」
「はぁ、ありますね~」
「人工知能で『消えるボール』について検索してみようか。すると…ほらっ、見てごらん、『消えるボールは物理上も数学上も存在しないことになっている』と書いてある。ね、人工知能が存在を否定するくらいなんだから、そんなものは在ってはならないんだ。分かるね」
「はぁ??そうなんですか?……でも、おかしいなあ、その解説は誰が書いたんですか~?
「誰って…だから人工知能が書いたんだよ、つまり、間違いなしだ」
「はぁ~??それじゃあ、あたしはどうすれば」
「何も心配することはないよ。いいかね、人工知能はこう続けているぞ、『消えるボールを競技者が打ち込んだとして騒動が起こる場合もあるが、これは大いなる錯覚及び勘違いである』 だって」
「な~んだ、あたしの勘違いだったのね。ばかばかしい……」
「さぁ、納得したところで、ひきあげるとしようか」


「あれっ?ねえ先生!人工知能の記述がいつの間にか変わってます!」
「なんだと?!で、なんと書いてあるんだ?」
「えーと、なになに? 『いまや、消えるボールは通常の技法として広く認知されており、世界各地のプレーヤーが試合において大いに活用するものである』 だって」
「……ウーム、そう言われてみれば、そんな気もする……うぬっ!そうだ、人工知能が言う通りだ!『消えるボール』は確かにありきたりの技法だ、だから君が習得したところで不思議でもなんでもない。ははははっ、あったりまえのことなんだ」
「やっぱりそうなんですね ─ ところで、ねえ先生、いったん消えたボールが数分後に再び出現する現象について、人工知能の説明によるとですね」
「あ痛っ、おお?突然ボールが出現したぞ!」
「はい、そんなふうなありふれたアクシデントに驚かされてはならないと警句を発しています」



(おわり)
※ 落語のネタとして使えないものかな