2022/04/17

【読書メモ】 ヒトの壁

『ヒトの壁 養老孟司 新潮新書
養老孟司氏によるさまざまな言質は、超一流の理系思考はむろんのこと、超超一流の文明哲学論ともいえ、大ヒット『バカの壁』以来僕なりに注目し続けてきたところであり、社会科思考における日下公人氏と並んで実に多くの着想の源泉となってきた。

さて此度の『ヒトの壁』は昨年末にまとめられつつ、とくに昨今のさまざまな時事に軸足をおいた平易な文体の随想集の体でありつつも、かなり難度高い一冊ではなかろうか。
たとえば、従来より念押しされ続けてきた自然物(実体)と数理(論理)の乖離の危険性など、論旨に一定の方向が据えられていればまだ分かりやすいのだが、此度の本はそのような一貫したリスク喚起メッセージがしたためられているのかどうか。
それでいて、物理学から系統学への入り口まで、理系思考の学術難度はかなり高いものと察せられ、たとえ文面が平易に抑えられていようとも精密な了察はけして容易ではなかろう。
とびきり難しいのが'情報の入出力'の真意で、これがあくまでも論理表象の入出力に過ぎぬのか、或いは(シャノンの情報通信理論のように)電磁上の実体の入出力であるのか、正直白状すれば僕もすべて理解しきったわけではない。
また、’解釈'と'行動'について、これらが同義の意かどうか解りかねてしまった。

それでも、しばらく以前の『虫とゴリラ』同様、本書は大学生さらに高校生にも読解チャレンジ薦めたい教養書の一冊ではあり、そこで、おそらくこういったところが思考の要諦であろうと僕なりに察した箇所につきとくに章立てには拘らず抽出し、それら以下に要約してみた。




<感覚系と運動系、理解と解釈>

脳神経は、外部の情報を感覚系に入力させ、一方では特定の目的によって運動系に出力している。
外部情報の因果をそのまま認知しておのれの感覚系に入力させれば、その個人にとっての「理解」ともなる。
それら理解内容をおのれなりの目的をもって運動系へと出力すれば、その個人が外部情報を「解釈」していることにもなる。

ヒトにとって、外部の物事の意味を感覚系にて「理解」することは、それによって運動系へ出力される「解釈/行動」の意味さえをもあらかじめ感覚系にて「理解」することでもある。
しかし、おのれの解釈/行動の意味を本当にあらかじめ理解することが出来ようか?


そもそもあらゆる生物は、おのれの感覚系と運動系をともに進化させてきたはず、ヒトも同様のはずである。
一方で、身体の機構/器官/細胞/ゲノム/ウイルスのさまざまな機能は、ヒトの解釈以前から厳然として在る。
しかも、それらが他にどのような機能を有しており、どう進化しさらに多様化してきたのか、ヒトは解釈しきれていない。
…これらを我々人間が感覚系にて理解しきれていないため、進化論という特定の解釈が常に疑われている。


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<エネルギー、情報、エントロピー>

熱力学第二法則とシャノン情報理論(※概括)
或る空間(系)におけるそれぞれの粒子は、元々の状態にてはそれぞれが独自の運動エネルギーを有している。
これら粒子は互いにランダムに衝突を続けつつ運動エネルギーを拡散/移転させ続け、いずれはどの粒子もほぼ同じエネルギー(秩序)を有することになる
ここで、このエネルギーのランダムな拡散/移転は、エネルギーのエントロピー(無秩序さ)の増大でもあり、これは不可逆な運動である。
ボルツマンの数理モデルによれば、ここで元々の小エントロピー状態の発生確率よりも、プロセス後の高エントロピー状態の発生確率の方がずっと高い。

一方で、シャノンによる情報理論では、情報通信におけるさまざまなデータの発生確率を高くするためにはビット数が相応に多くなければならない。
ここで必要となってしまうビット数をとくに情報エントロピーと称している。

或る事象の発生確率を上げる(秩序をもたらす)プロセスにては、それに必要なエネルギーのエントロピー(無秩序さ)或いは情報量のエントロピー(無秩序さ)の増大も不可避となる。


以上のエントロピー概念を、ヒトの意識活動に適用してみる。
ヒトの意識は常に「ああすればこうなる」はずと信じての秩序的活動ゆえ、意識に拠って何事かを成せば、その仕事プロセスにては何らかのエントロピー(無秩序さ)も必ず増大してしまう。
たとえば、原子力発電は秩序活動の維持であるが、これを確実に遂行する以上は原発のゴミという無秩序がどうしても起こる。
同じことが近代化における軍事と経済の全般について言えよう。


AIは宇宙世界のあらゆる事象を「ああすればこうなる」はずのものとして「解釈」出力する。
歴史の経緯を「特定の必然法則に則っている」とする見方も同様である。
ヒトはおのれの意識による秩序優先で生きているので、これを当然として受け入れがちではある。
しかも、ヒトは感覚系における「理解」と運動系を経ての「解釈」の中立的存在であるので、周囲のヒトたちとどうしても影響を与え合ってしまうので、なおさら特定の必然法則を共有しがちといえる。

しかし、「ああしたのでこうなったという必然解釈」は、日本人の古来からの「感覚系」にそもそもそぐわないものである。


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……以上、本書の随所に散りばめられている基幹的な大テーマ(と思しき箇所)につき、僕なりにざっと要約。

そして、あらためてちらりと考えてしまうこと。
じっさい物理学にては、さまざまな物質物体の遠隔作用であろうと近接作用であろうと、仕事とエントロピーがどのように増大しようと、プロセスにおける変化量を微分し分析し、再現性を見いだせた運動のみ冷徹に方程式にしたためている。
それでいて、同じ物質物体であるはずのヒト自身が独自の因果律を以て物理現象を「解釈」し、感覚的にはそれらの強引さをどうにも「理解」出来ぬと嘆いている??
これは星新一などさまざまなSF作家が可笑しく語り継いできた科学論的な悲喜劇ではあるが、さらに養老氏は系統解剖学などに則りつつヒトの内部と外部世界の近似性および矛盾を論証し続けてきたわけで、もはやSF以上の着想スケールともいえ、リアリズムがフィクションを超えうるという…