2023/08/29

英語学習についての私論 (2023)

① 僕はロンドンの郊外で生まれた。
せっかくのロンドンではあったが、もともと僕は言語勘が鈍いのか、あるいは英語との知的相性がよろしくないのか、ともあれ英語表現はけして巧みな子ではなかったという。
日本語でさえも発話能力はパッとしなかったようで、むしろボンヤリ少年に映っていたかのもしれぬ。

小学校にあがるころには東京都立川市に移り住んでいた。
以来、成人するまでずっと立川在住、だから故郷は立川ということにしているし、心の動きかたや動かしかたは立川でこそ培われてきたものと自覚もしている。
それでは英語能力はといえば、中学校でも高校でもパッとしない出来栄えだった。
大学は慶應だが、入学試験にては英語ではなく論説文の出来がかなり良かったのだ ─ といまでも信じている。
ちょいと付言すれば、もしも高校時代にもうちょっと数学と相性がよかったら一橋くらいには受かっていただろうと、これもいまだに信じている。


そんな僕でもとりあえずの英語「論」は有る。
これは幼少期以来の仲良しにしてライバルでもあったN子の影響が大きい。
このN子についてはしばしば別稿にて触れてきたが、ざっといえば彼女はニューヨーク居住経験も有るなかなかの英語通、しばしば小憎らしいほどのスーパー美少女であった。
これまで時おり記してきた英語まわりの蘊蓄も、じっさいのところ、高校時代に彼女がぎゃーぎゃーとやっかましく披露していたさまざまな英語講釈を、僕なりに下地に据えて焼き直してきたもの。
さらに、それらに拠りつつ、ずっと後になって東芝で海外営業にあたり、あるいは商社に出入りしつつブラッシュアップしたものが現時点での僕なりの英語論である
だからロンドン出生などはこの際どうでもいいんだ。


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② さて、英語学習について僕なりの私論を展開してゆこう。

高校生諸君。
最も浅薄な勉強科目はいったい何か?
英語に決まっている。

英語そのものが浅薄な言語だなどと主張するつもりはない ─ 実社会における職業経験を踏まえて評するならば、むしろ英語は「実体」表現における学術性も精度も高く、論理のエッジもなかなか強固であり、皮肉のパンチも強烈だ。
しかし高校までの英語学習はつくづく浅薄である

なぜ学校の英語学習が浅薄なのかと言えば、理科や社会科といった実体そのものの学術知識と命題に’ちょっとだけ'便乗しつつも、あくまで表現ルールと技法ばかりに拘ったペラペラの情報スキル系に留められているためだ。
そのペラペラのかき集めによるお子様レベルの文面を、長いながい時間をかけてひたすら読まされ、さらには発話まで課されている。
だから浅薄きわまりない。

たとえば、以下の英文はどういう意味か?

Tachikawa is a big city.

立川は大都市でーすという解釈は無意味だ、そもそもこの英語表現そのものが無意味だ。
「大」都市とはなにかを説明していないじゃないか。
土地面積か、人口か、エネルギー消費量か、工業生産量か、カネまわしか…これら全てか。
いったいなにがbigなのか?
さらに、cityとはいったい何なのか?
社会科や理科であればこれらの「実体」考察からこそ理知的なスタディが始まるもの、しかし英語学習はここで思考が止まるんだ。


「言語」はどこまで「実体」を表現しきれるだろう?
こんな緻密な疑問に直截に答えることは僕には到底無理だ。
しかし、言語と実体の差異については一応は語ることができる。

「実体」の「実体」たるゆえんは、いったい何か?
それは、その「実体」の或る時点における仕事 (F・s = W) や運動量 (mv=P) をどれだけ微分的にデジタルに分析し運動方程式 (ma=F) にまで還元しても、それらをあらためて組み合わせて組み上げてみれば運動量や仕事を成すということだ。
うむ、そういうことなんだ。
リング上で展開しているボクシングの応戦は、ひとつひとつのアクションとして微分的に分析してみれば瞬時瞬時のジャブやフックやストレートパンチなどであるが、それらをあらためて組み合わせればやはりボクシングだ。
ピアノの旋律や楽曲は、鍵盤ひとつひとつによる独自の音符に還元できよう、しかしそれらをあらためて連綿と合成すればほ~ら流麗なる旋律となり楽曲を成すじゃないか。
油絵を為すさまざまな色は、パレットにおけるひとつひとつの絵の具に…

要するに、「実体」とは実在する「力」」であり「量」である。
あるものを寸分にバラしても、あらためて積み上げて束ねても、それら力と量の特性は変わらない。
しかし「言語」は、もとより思念であり論理でしかないので、なんらかのものについて何とでも言い換えが出来るし、とりわけそのものが物理的に実在するのかしないのか(リアリティなのか嘘っぱちなのか)を実証しきることが出来ない。

だから英語学習が無為だとまでは言わぬ、しかし「実体」についてさまざま学ばずして「言語」ばかりペラッペラに学んで何とするのか?
まずはここのところ、高校生諸君にはきっちり指摘しておきたいね。


高校生諸君は、まず体育、それから美術と音楽、これらが最重要科目だ。
なぜならこれらこそが身体をずずんと突き抜けて突き動かすリアリズムでありリアリティそのものだからだ!
その次に重要な科目が化学だ、なぜなら化学こそが新規物質の組み換えと創造をもたらす科学だからだ。
さらにその次に重要な科目が数学と物理、その次が地理と政治経済。
それでは古典は?伝統芸能は?となるが、それらは家庭で親子ともども学び続けるべきものではなかろうか。



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③ そもそもだぜ。
学校における英語学習の目的はと問えば、まず返ってくる名目が「国際化」である。
へっ?「国際化」ってなんだ?
言語への依存を高めることか?それとも依存から脱却はかることか?

もしも国際化が言語依存強化を図っていくプロセスであるならば、国際化の進展とともに言語の種類がどんどん増えていくはずである。
産業や軍事によっても、市場活動によっても、学術によっても、法秩序によってもまた文化交流によっても、言語の種類が続々と増えていかなければならない。
そうであるのなら’万民共通の標準統一英語などありえず、ならば学校教育で英語のみに拘泥する意義が無い。
逆に、国際化があらゆる言語依存からの脱却を図り、あらゆる融合を深化してゆくプロセスであるのなら、数学や物理や化学など万民共通の記号化が進みこそすれ、学校での言語学習は不要となる一方ではないか?
これまた、学校教育で英語学習を義務化する意義が無い。

※ もちろん屁理屈っちゃぁ屁理屈ではある、しかしこんな程度の屁理屈すら理知的に反論出来ないんだから、言語マニアの国際的な知能程度などたかが知れている。


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なんだからイジワルな思いつきの投稿に映ってしまうかもしれないが、そうだ、そのつもりだ。
次回以降はもっとワイルドな投稿を図ろうと思案中だ、イェーース。


(つづく)