2018/12/30

【読書メモ】知の果てへの旅

知の果てへの旅 マーカス・デュ・ソートイ著 新潮クレストブックス』

本書は本年4月に日訳が出されたもの、英語原題は'What We Cannot Know'であり、著名な数学者によるかなり壮大な随想集。
巻頭から読み進めてゆけば、本著者が問いかけ続ける主題はおそらく以下のようなものではないか。
「この宇宙あるいはどこかの宇宙にて、'いつかどこかで何かが'起こしえたはずの何らかの事象'と、'これから起こしうる何らかの事象'の関わりにつき、'我々自身の数学'によって万全に対応付けが可能か否か?」
この問いかけはあまりにも巨大で深淵な論題ではあるが、p.300における以下の言がとりあえずは本著者なりのひとつの回答であろう。
「(人間の)数学は、(人間の)有限の脳を通して無限を記述することが出来る」

さて、本書はそれぞれの章立てにおけるコンテンツのいずれもが、論旨を三転四転させつつ謎かけを呈し続けるエキサイティングな筆致展開であり、「ひょっとしたら」「けっきょくのところ」「かもしれない」などなど断定を敢えて回避する表記がとてつもなく多いのもやむなしか。
それでも僕なりに察するに、本書を構成する基本命題は、第1章および第2章にわたる箇所に掲げられている、ニュートン物理学から現代カオス理論まで、或いは着想の軸を換えて、宇宙におけるあらゆる物質の実在に対する人間の認識/数学記述力についてであろう。
尤も、これらはいずれも対立概念として描かれているので、文脈に慣れれば大意捕捉は難しくない。
とまれ、此度の読書メモとしては、本書を理科知識本ではなく数理や哲学の啓発書としてふまえ、あくまで第1章と第2章における主要な論題を記してみた。



・フェルマーやパスカルは神の存在などの不確かな命題を扱うために確率の数学技法を開発し、物質の性質や振る舞いを予測可能とした、が、これはたとえ遥か後代の量子力学にても活用された技法とはいえ、あくまで予測の技法である。
ガリレオやケプラーを経てニュートンが確立した古典物理学においてこそ、動き続けるあらゆるものを微分積分学をとおして力と質量と運動として記述出来るようになった ─ はずであった。
ラプラスなどは、或る時点までの或る実在について数学上の実証が出来るのならばその未来の在りようも記述出来る、と主張した。

・尤も、ニュートンまでの数学は2つの天体の共通重心と焦点の一致などは説明しえたが、3つ以上の天体のケースには対応しきれなかった。
ポアンカレは、この宇宙において太陽系が安定した軌跡を描き続けるか否かを証明させる懸賞問題に挑み、三体問題への解法に基づいて系の安定を解答提示したが、そのさいに質量を無視しうる微小な物質を想定しており、これが物理どころか数学上の過ちであると気づいた。
この過ちがきっかけとなり、極小の物体の変化によっても突然バラけてしまう系の存在、つまりカオス系についての数学理論が発展 - というより困惑させられることとなった。

・数学者にして貴族院議員でもあるロバート・メイは、動物の個体群の繁殖率と生存率と頭数のダイナミクスを単純なフィードバック方程式であらわし、一見単純なこの関係式においてさえ、繁殖率がほんの少し変わっただけで頭数が激変すると明示。
単純に見えつつも恐るべきカオス系の難解さは、宇宙あまねく処における生命の発生確率、さらに遺伝と生存確率にかかる問題であることはむろん、人間の数学知性の限界そのものを問う大問題でもあると指摘する。

・コンピュータ導入によってカオスのモデル化と解析そのものは進みうるし、そのさいに例えばリアプノフ指数を用いればカオス系のバラついていくさまを数学表現も出来よう、が、そのようにして確認を続けたところ、太陽系は(やはり)この宇宙においてカオスの系であることが分かってしまった ─ つまり分からなくなってしまった。
なお、宇宙の天体系のうちには、水星や地球のような岩石惑星が衝突を起こして幾つか弾き飛ばされた結果であろう、奇妙な軌道を成している惑星群も発券されている。
そもそもカオス理論に則れば、宇宙のどこかの片隅で電子がひとつ移動しただけでも宇宙のありようが変わることになる。

・カオス系は、複数次元にわたる多元的要素の問題ゆえに難解であるわけではない。
カントール集合図では、一次元の線分を特定の秩序の線分長で割って割って割り続けて白線と黒線に切り分けていくが、この論理上の操作をどれだけ続けていっても線分が完全に消えることはなく、むしろ無限個の黒い点と白い点が残ってしまう。

・量子物理学者のポーキングホーンは、宇宙がカオス系で成るにもかかわらず我々人間が頑として存在する理由として、全ての無限小の要素をもトップダウンで制御する知性の存在を ─ つまり神の意思を挙げている。
量子力学が素粒子などの運動のランダムさに則った科学である一方で、カオス理論は(本当に理論とすれば)なんらかの意思による決定論として捉えるしかないという。
かつ、その何らかの意思は、エネルギー保存則に抵触せず物理上の実在を大変動させることはない、あくまで情報系の何かとして存在することとなる。

・では我々人間の自由意志はどうなるのか ─ 我々が知りうることについての我々自身による認識論と、我々が知りえないであろう宇宙の真実にかかる万物の存在論は、これまでのところ一致してはいない。

・数学は、カオスについてどこまでが分かり、どこからが分からないか、つまり、どこまでが明らかな過去でありどこからが予測不能な未来であるかについて記述出来るようにも察せられる。
そうであれば、過去~現在までのカオスの起こりようから数学演繹して未来予測も可能である、ともとれるが、しかし未来に存在するものやその事象について完全に説明しうる数学は今のところ存在していない。

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以上、本書の第1章および第2章について、ともかくもニュートンから現代カオス理論まで、かつまた実在と認識について、つまり本書を対立的に構成しているであろう基本命題らしきを、ざっとまとめてみた。

さても本書はなかなかのヴォリュームにて、人間による数学の可能性について多段的に探究が続けられつつ、14の章立てから成る500ページ余の思索の旅が続く。
もちろん、宇宙だ観察だ実在だとなると量子物理学もひとつの主柱に据えられている。
だから、ハイゼンベルクやディラックやアインシュタインやシュレーディンガーからファインマンあたりまでは言うにおよばず、さらに、膨張する宇宙、ビッグバン、ダークエネルギー、ユニヴァースとマルチヴァースについてなどなど、引用も広範である。
一方では、カール・ポパーらによる科学哲学に対する人間の観察能力の限界からの反論、我々自身の脳神経の分析による認識可能性への懐疑などなどにおいて、そもそも我々の認識(論)そのものを我々自身がどこまで信頼できるか辛辣についた論題が多い。

特に学生諸君には、本書を思考のリフレッシュ教材として、さらに新たなる知識見識のリファレンス教材として、書棚のどこか目立つところに置いて、時おり読み進めることを薦めたい。
僕はたくさん読み残しているから、あとは君たちがどうぞ。