2024/11/09

【読書メモ】化学と歴史のネタ帳

 化学と歴史のネタ帳  Ⅰ. 酸とアルカリ  遠藤瑞己 文彩堂出版』

本書は巻頭箇所にも案内のとおり概ね高校化学の範疇に則りつつ、化学イノベーションと協調あるいは拮抗してきた政治/軍事の諸事情をも併せ綴ったもの
化学選択の高校生~大学生などなどがヨリ学際的な着眼を鍛えてゆく上で、恰好のガイダンスたりえよう。

そもそも自然科学は文字通り’自然物’の状態や運動の探究が本性ではあり、中でも物理学は’人工性’(つまり数学上の再現性)との同期に絞り込んだ科学といえよう。
一方で、もっと’人工的’な操作性に準じつつも、もっと’拡張的’な創意から実践までもたらしてきた物質科学こそが「化学」である。
化学のスリリングな創造性と拡張性はズバぬけている ─ 或るインプットが或るアウトプットを生み出しつつ、そこでのデリバティヴを別の反応系にインプットすれば新たなプロセスが進行し…と、さまざまマテリアルがパズルのごとく入りつ解れつである。
よって、化学の活かし方によっては次々と産業を興し、市場を拡大しうるだろう、となれえば、デフレだろうがスタグフレーションだろうがなんぼでも克服可能ではないか。

…僕なりの所感をひっくるめて言えばざっと上述のとおりとなる。

なお予め注記しおくが、本書にては実践上の環境要件や物理量にかかる描写は控え目に留められてはいる。
よって、今回の【読書メモ】にても、あくまで総論的な化学反応式まわりを僕なりに引っ括って、以下にさらっと要約するに留め置いた。
範囲は「第1部(アルカリ)」である。





18世紀以来、石鹸やガラスの製造原料として炭酸ナトリウム(Na2CO3)が大量に求められた。
海草類や樹木灰など植物性アルカリも器用されてはいたが、これでは需要に間に合わず、そこで'人工的'にアルカリを合成するため、硫酸ナトリウム(Na2SO4)から炭酸ナトリウム(Na2CO3)が得られるようになる。
Na2SO4 + 2C → Na2S + 2CO2
Na2S+ 2CH3COOH → 2CH3COONa + H2S
2CH3COONa → Na2CO3 + (CH3)2CO

また、硫酸ナトリウムと石灰(Ca(OH)2) から、水酸化ナトリウム(NaOH)を作る方法も確立された。
Ns2SO4 + Ca(OH)2 → CaSO4 + 2NaOH


なお、火薬の原料としては、炭酸カリウム(K2CO3)を使って硝石(KNO3)を製造し、これをもとに硫酸(H2SO4)が合成されてきた
しかしアメリカ独立戦争~フランス対外戦争の時期になると、炭酸カリウムがヨーロッパに入ってこなくなった。


硫酸ナトリウムを活かしつつ、炭酸ナトリウムの品質安定と大量生産のためヨーロッパ側で開発されたのが「ルブラン法」。
2NaCl + H2SO4Na2SO4 + 2HCl
このNa2SO4 と炭から 硫化ナトリウム(Na2S)ができる
Na2SO4 + 2C → Na2S + 2CO2
さらに石灰石CaCO3を反応させて
Na2S + CaCO3Na2CO3 + CaS

尤も、こうして大量生産用に開発された炭酸ナトリウムも、ナポレオンによる「塩税」政策によりしばらくはローkカルビジネスに過ぎなかったが、1825年以降にはヨーロッパで拡大生産と販売へ。
炭酸ナトリウムによるソーダ産業の勃興は、ヨーロッパの基本的な産業技術を革新させ、、反射炉から回転炉への転換、耐火材の開発などは製鉄業にも応用されていった。


炭酸ナトリウムと石灰水を反応させると水酸化ナトリウム(NaOH)に変化する。
Na2CO3 + Ca(OH)2 → 2NaOH + CaCO3
さらに未反応の硫化ナトリウム(Na2S)に硝酸ナトリウム(NaNO3)を加え、これを加熱すると、硫酸ナトリウムなどに変わりつつこのNa2Sが分離される。
ここに亜鉛ZnOを加えればNa2Sをもっと分離出来、かくて水酸化ナトリウム(NaOH)の純度が高まる。

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炭酸ナトリウムの製造方法としては「アンモニアソーダ」法もある。
NH3と水と二酸化炭素を反応させて、炭酸水素アンモニウム(NH4HCO3)を作り、これを食塩水(NaCl)と反応させてNaHCO3を生成させ、これを加熱すれば炭酸ナトリウムとなる。

さらにここで、炭酸ナトリウムと炭酸水素アンモニウム(NH4HCO3)を反応させれば、炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)が生成される。
これに、純度高い塩化ナトリウム(NaCl)とアンモニア(NH3)と二酸化炭素を投入すれば、塩化アンモニウム(NH4Cl)も出来る。 
この生成方式が「ソルベー法」。
塩化アンモニウムは肥料として活かされるようになった。
NaCl + H2O + NH3 + CO2  →  NH4Cl + NaHCO3
2NaHCO3 → Na2CO3 + H2O + CO2

一方では、炭酸ナトリウムと鉄(Fe2O3)を組み合わせて水酸化ナトリウム(NaOH)を生成する方法も確立された。

ソルベー法は20世紀初めにはアメリカ含め全世界に普及していった。

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19世紀末の発電機の発明や人工炭素電極の実用化によって、大スケールの電気分解の工業化が始まった。
その端的な例が塩素ガス(Cl2)の製造であり、ここで開発された製造方法が「電解ソーダ法」。
陽極のCl2と陰極のH2およびNaOHによる反応。
2NaOH + CO2  → NasCO3 + H2O
この電気分解では水素ガス(H2)も同時に大量生成が出来、こちらは気球や飛行船に投入された。

ここで次亜塩素酸ナトリウム(NaClO)などを生じないよう、隔膜を以て分離させる。

「電解ソーダ法」として普及したのが「水銀法」。
塩素(Cl)とナトリウムの電気分解にて、NaOHとCl2を反応させないように、陰極側ではナトリウムと水銀のアマルガム(Na-Hg)を生成する。
全反応としては、2NaCl + 2Hg  →  2(Na-Hg) + Cl2
さらにこのアマルガムに水を加えると、
2(Na-Hg) + 2H2O  →  2NOH + H2 + 2Hg
こうして水酸化ナトリウム(NaOH)をきれいに分離抽出が出来る。

※ 尤も、この「水銀法」は有機水銀による公害ももたらしたため、電界ソーダ法としては「イオン交換膜法」に切り替えられていった。

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そもそも窒素は植物の重要な栄養源かつ肥料であり、ヨーロッパ農業では南米チリからの硝石(NaNO3)に多く拠っていた。
またこれに塩化カリウム(KCL)を反応させ、黒色火薬の硝酸カリウム(KNO3)も合成されていた。
NaNO3 + KCL → KNO3 + NaCl
さらに、硝酸(HNO3)も製造でき、これがTNTやニトログリセリンへ。
2NaNO3 + H2SO4  → 2HNO3 + Na2SO4
電気化学の発展によりアーク放電(電弧法)が活かされると、この硝酸製造が大規模化可能となった。

この硝酸と石灰石を反応させれば硝酸カルシウムが出来る。
2HNO3 + CaCO3 →  Ca(NO3) + CO2 + H2O


19世紀末、アンモニア生成の「石灰窒素法」。
電気炉内で合成されたカルシウムカーバイド(CaC2)と窒素ガスからアンモニア(NH3)を合成する。
CaO + 3C → CaC2 + CO
CaC2 + N2 → CaCO3 + 2NH3
なお、この途中で生産される石灰窒素(CaCN)は肥料としても大いに使われるようになる。

1902年、アンモニア(NH3)から硝酸(HNO3)を製造する「オストワルト」法。
4NH3 + 5O2 → 4NO + 6H2O
2NO + O2  → 2NO2
3NO2 + H2O → 2HNO3 + NO

1913年、窒素ガス(N2)と水素ガス(H2)の直接的な合成によってアンモニア(NH3)製造する「ハーバー・ボッシュ」法。
N2 + 3H2  → 2NH3


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1914年、第一次大戦。
ドイツによるフランス侵攻作戦'シュリーフェンプラン'は'マルヌ会戦'で頓挫し、ここからドイツは消耗戦へ。
弾丸や魚雷や砲弾のため大量の窒素化合物が必要となるが、ここまで頼りにしてきたチリの硝石が輸入不可能となった。
そこでドイツは「石灰窒素法」に大注目したが、ここまでは低品質の褐炭が大量に投入されていたため加熱効率が悪く、だから石灰窒素法による窒素化合物の大量生産も困難であった。

しかし「ハーバー・ボッシュ」法によるアンモニア製造ならば、プロセスが省力的であり、このアンモニア(NH3)が硝酸(HNO3)と硝酸アンモニウム(NH4NO3)になった。
NH3 + 2O2  → HNO3 + H2O
NH3 + HNO3 → NH4NO3

一方で、「オストワルト法」は鉄をベースとした触媒の発見後に硝酸製造の効率が高まった。

こうしてドイツの硝酸アンモニウム製造能力は大きく増大し、軍事力も農業も支えることが可能となったはずだが、しかしドイツは戦局挽回することなく第一次大戦は終わってしまった。

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ここまでの「ハーバー・ボッシュ」法は約20MPaの低圧下におけるアンモニア生成であったため、高温でアンモニアが分解しやすく、これを防ぐためにわざわざアンモニアを液化しなおしてから抽出せざるをえなかった。

フランスのクロードは第一次大戦の終戦直前に約100MPaの高圧化にて500℃でのアンモニア合成に成功しており、これはほとんどの窒素と水素を反応させる高効率の方式である。
また、農地を確保しづらいイタリアでも合成窒素が大いに求められ、このため第一次大戦終了に前後して高効率のアンモニア合成が模索されており、カザレーが鉄くず触媒を用いつつ80MPaの高圧下でのアンモニア合成に成功。


1920年代以降、世界的な化学工業の成長に伴い、ヨリ効率的になった「ハーバー・ボッシュ」法によるアンモニア合成が進んだが、このため水素ガスの需要も増大した。
そこで、たとえばイタリアでは地形の高低差による水力発電とその設備が、アンモニア合成および水素ガスの大量生産に大いに活かされることになり、これが「ファウザー」方式。

KOH水溶液の電気分解による水素ガス製造
2H2O + 2e- → H2 + 2OH+
アンモニアガスへの硝酸噴霧による硝酸アンモニウム製造
2NH3 + H2SO4 →  (NH4)2SO4

高圧下では…
4NH3 + 5O2  →  4NO + 6H2O
2NO + O2  →  2NO2
2NO2  → N2O4
2N2O4 + O2 + 2H2O  →  4HNO3


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以上が、「第1章(アルカリ)」についての僕なりの超大雑把な要約である。
本章はさらに、カリウムや塩素ほか1940年代以降のプラスティック需要増大などにもふれつつ、学際的な論説が続く。

化学選択の高校生や化学分野専攻の大学生諸君にとって、本書は化学の本性的なダイナミズムはむろん、学際的な着想をも大いに拡大し得る一冊であろう。
同じ理由から、とくに「第3章(酸と塩基)」におけるアレニウスの定義などなども是非一読をチャレンジして欲しい。


おわり

2024/10/13

【読書メモ】活かすゲーム理論

経済学や政治学を’量的に’理論立てて表現するための数理として、ゲーム理論がしばしば用いられるようだ。
しかしながら、僕自身はゲーム理論についてどうも疑義を払拭しきれずにいる。


そもそもだ。
人間のさまざまな意思はあくまでもアナログ量の連続変化にあり、それら連続変化の過程においてこそ意思決定も変遷してゆくはずであろう。
一方で、ゲーム理論はその理論フォーマットにて ─ たとえば最も基本的な囚人のジレンマ~ナッシュ均衡などにても ─ さまざまプレイヤーの’利得/価値’を局面局面ごとにデジタルに整数表現している。
そして、これらによって意思決定の確率も最適化も均衡や収束も(一応は)公正かつ定量的に表現しきっているようではある。
なるほどこうして捉えてみれば、ゲーム理論はデジタルな数学手法としてはよく出来た思考系ではあり、しかもソリッドにまとまってはいるようには映る。


だからこそ、僕は却って疑念を覚えてしまう

・数学は確かにあらゆる概念の定量化における最強ツールとはいえよう、しかしだ、思考対象の客観性も公正性も保証してはいないのでは?

・互いの戦略について意思疎通をせぬままに進行してゆくさまざまな「同時手番ゲーム」において、互いの’利得’の整数値をいったい誰が設定し誰が付与しうるのか?

・あるいは、おのおのプレーヤーがお互いの戦略を開示しあった上での「逐次手番ゲーム」ならば、'利得’もしぜんに共通の整数表現に単純合意されてゆくものだろうか?

・ここに公正中立の第三者が神のごとくおわしますならば、彼こそがおのおのプレイヤーに利得を差配することでプレイヤー同士は丸く収まる ─ かもしれぬが、そうであるならばゲーム理論そのものが無用ではないか??

・神とまでは言わぬにせよ、それぞれゲームにおける’利得’≒価値の整数化の発想は、もともとバランスシートやROEなどの公正かつ定量的な記載方式から導かれ、ここからプレーヤー間の戦略意思を公正かつ定量的に単純化させてきたのではないか?

・あるいはもっと純朴に、チェスのようなテーブルゲームにおける盤目と駒の配置、それら攻守の’利得上の有利不利’の裁定などが、公正な定量化のヒント足りえたのでは…?


…以上につき、なんとか理知的なけじめをつけてみたいものだと考え、そこでこの一冊を見出したので此度ここに紹介しおく。
『活かすゲーム理論 浅古泰史・図斎大・森谷分利 著 有斐閣y-knot

本書の第1章~第3章および第5章前段あたりまでにて、段階的に解き明かされるゲーム理論の本質は、ざっと総括すれば以下のとおりとなろう:

<a>「同時手番のゲーム」ではあっても、例えばサッカーゲームなどのスポーツ競技にては統一ルール化での得点がデジタルに整数表現されており、これら得点をゲーム理論における’利得’と同一視可能。

<b> やはり「同時手番ゲーム」ではあっても、同一市場での公開的な商取引にては商材やサービスの通貨換算上の価格がやはりデジタルな整数表現にあり、これらをおのおのの’利得’と同一視可能である。

<c> 国家間における要求~制裁の意思決定プロセス、さらにはさまざま事業上のアウトソーシングのプロセスなどなどにおいては、おのおの利害当事者が調整局面ごとに’利得’を開示した上での「逐次手番」型の駆け引きとなるので、おのおのの’利得’を共通の通貨換算上の整数としてデジタルに表現されるのがあたりまえ。
さらにこれらを時系列ごとの意思決定の変遷として分析も数学的帰納法分析も可能。

<d>  とりわけ’実践的’なアプリケーションと考察は、本書の第4章『進化動学』およびから始まる。
ここいらでは、さまざまな’戦略上の選択肢’に応じる意思決定選択者たちの人数分布度合いが戦略ごとに動的に均衡し収束してゆくさまを、「最適反応動学」によって分析していく。
この最適反応動学により、意思決定者たちおのおのが定常状態から最大’利得’の獲得状態にいたる(あるいは獲得しえない)までの、クリティカルマスとプロセスを分析可能
ここには経済学でいう’外部性’やピグー税も鑑みた考察が含まれうる。

<e>  第5章『信じられる脅し』にては、逐次手番ゲームにおけるおのおのプレーヤーたちの、さまざまな意思決定段階における’利得’判断の整数値を、根と枝のツリー構造にて「ゲームの木」として数学表現する技法を紹介。
ここで、おのおのプレーヤーによるひとつひとつの意思決定段階の’利得’判断を「部分ゲーム」と称し、これら「部分ゲーム」が’時系列’によって「完全均衡」に収束してゆくさまを確認可能。
さらにこの「完全均衡」の状態をもとに、いわゆる数学的帰納法によって’時系列’と真逆にゲームの木を遡っていけば、それぞれ「部分ゲーム」ごとのおのおのプレーヤーの’利得’判断も分析しうる。



…如何であろうか?
あくまで僕なりに本書前半あたりまでをざーーっと了解の上で要諦をまとめ、僕自身の所感も大いに交えつつ書きおきたつもり。
これでも、社会人の皆さまや学生諸君には本書コンテンツや思考難度への大雑把な案内とはなったのではなかろうか。
もちろん僕自身としては最初に掲げた根本的な疑念がクリアに払拭されたわけではないが、ともかくこのゲーム理論分野のゲーム性(そして数学性)についてはあらかた見当がついてきた。

本書はさらに、’利得’分析と意思決定と戦略についてわんさかと論旨が進んでゆくが、とりわけ最終章『活かすゲーム理論のススメ』は文系の皆さんには是非とも挑んで欲しいところ。
ではこのへんで。


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なお、本書に挑む社会人や学生諸君にはあらかじめ注意喚起しおきたい。

まず、本書はさまざまなゲーム理論を数学的かつ段階的に解き明かしてはいるが、それぞれのゲーム事例におけるプレイヤーの戦略や意思決定がしばしば実況中継的に描写されているため、総じて文面が長めである。
かつまた、章立てによっては文面にて否定文の挿入が目立ち、これは文章の論理上のストレスを和らげる効果を狙ったものかもしれぬが、読者としては却って全体否定か部分否定かをいちいち斟酌してゆくことにもなる。

数学勘のはたらく読者ならば文面に拘らずに大意を捕捉し得ようが、しかし経済学や政治学の理解一助として文面を追うのであれば相応以上の忍耐は必要。



以上

2024/09/18

ご飯と米粒


豪華な弁当の’ご飯’を粒子にバラしてしまえば、一つひとつの’米粒’に還元される。
それらの’米粒’をあらためて束ねてくっつけ直せば、元通りの’ご飯’に戻るだろうか?
おそろしく困難ではなかろうか。

僕が此度ここで書き留めたいのは、こういうことだ。


この宇宙・世界のあらゆるものは、さまざまな力と粒子による奇跡のような巡り合わせから成り、さまざまな「仕事(エネルギー)」を成している。
どんなに単純な物質でも、たとえば物理で最初に学ぶ放物線のごとく、数次の関数を以て動いている。
それら「仕事(エネルギー)」をもうちょっと統合的かつ簡潔に記せば
運動エネルギー としてW = Fx = mgh = 1/2 mv2 [J]
(さらに水力発電ダムのような位置エネルギー表現なら、 U = mgh [J] ともいえよう)
さて、この運動エネルギーを時間で微分してバラせば、あるいは計測明瞭なように特定距離で微分してバラせば、運動量 p=mv [kg・m/s] 
この運動量をさらに時間で微分しつつ特定方位ごとにバラせば、
ひとつひとつが 運動方程式 F =ma [N] による力(と質量)にまでバラすことは出来る。

ところがだ。
これらの力(と質量)をあらためて'何らかの距離と時間で積分したからとして、元通りの「仕事(エネルギー)をそっくり再現することは、途方も無く難しかろう。
少なくとも我々の眼前にては、二度とくっつかない ─ かもしれないぞ。

これなら何を語っているか分かるだろう。
こういうことなんだよ!


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掛け算と、割り算。
実体「量」と、論理「数」。
未来と、いま。
エネルギーと、エントロピー。
アナログ連続量と、デジタル微分ビット。
連続の因果と、一瞬の関わり。

宇宙と、素粒子。
恒星と、電磁波。
原子と、量子。
生命と、炭化水素。
地震・火山と、シリカ(半導体)。
電力と、電荷。

ハードウェアと、ソフトウェア。
コンピュータと、プログラム。
ハンドルと、スイッチ。
生命と、遺伝子。
免疫と、ワクチン。
ホモサピエンスと、LGBTQ。


意義と、データ。
文化と、情報。
絵画と、画素。
音楽と、音符
会話と、信号。

知能と、知識。
知見と、多数決。
意志と、弁証法。
学術と、メディア。
学力と、偏差値。
連続の因果と、一瞬の関数。
偶然と、必然。
自然選択と、適者生存。
人生と、スナップ写真。
放送文化と、広告視聴率。


シェークスピアと、ピューリタン。
トムソーヤーと、南北戦争。
ジャンバルジャンと、ジャベール警部。
バイブルと、マルクス。
ロシアと、ソ連。
シナと、中国共産党
フカヒレと、コオロギ。
役満と、吸い殻。


経済と、税。
市場拡大と、均衡財政。
自由経済と、統一通貨。
信用取引と、即時決済
価値と、価格
資産と、株価。
売上と、利益。
技能と、画一労働。
開発と、リサイクル。
経験則と、マニュアル。


人生と、マイナンバー。
住民と、移民。
姓名と、匿名。
民主政治と、アパルトヘイト。
大資本と、サラ金。
社会科と、金融教育。
プロフェッショナルと、ライドシェア。
満塁ホームランと、送りバント。

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我々まともな人類をブツ切りにしバラさんとする脅威は、いまや明らかだ。
それら脅威に身を委ねれば、単一通貨のカネ貸しだけが潤うんだ、あとは野と成れ山と成れ、砂漠とゴミと無数の死体だけになってしまう。


大学生や高校生の諸君はきけ。
「ブツ切り細断の思考」で進歩しうるのは物理学だけだ。
化学や生物学はむしろさまざまな掛け合わせで成っている。
じゃあ数学はどうなるんだと気色ばむ向きもあろうが、数学くんにはもとより実体そのものが無く、だから経過時間も因果も無いので、ブツ切りだろうが組み合わせだろうが縦横無尽にやってりゃいいんだ。


以上だ。
あくまで僕個人の思いつきでざっくり綴ってはいるが、本当に重大なことはざっくりと記した方がいいのではないかと、まあそんなふうに最近は考えているのだ。

2024/09/14

【読書メモ】 Mine !

『Mine ! 私たちを支配する「所有」のルール
マイケル・ヘラー /  ジェームズ・ザルツマン  早川書房

久しぶりに社会科分野についての本を紹介してみたくなった。

社会科はもとより理科と同様、有限性を前提とした思考体系であり、しかも人間マターゆえに競合に則っており、それら競合の根元要素として価値と権利をおいている。
ここで、価値なるものは各構成員の主観と集団間での多数決に帰着せざるをえない暫定抽象にすぎぬが、その価値にしばしば立脚しうるさまざまな権利は強制力と支配力を継続的に有するがゆえ、社会科の考察は権利の考察といえよう。
それでは、我々人類が与えられている権利のうちでも最も根元的な行使形態はとなれば、それはさまざま物質や財貨や知性そのものの「所有」ではなかろうか。

…といったところから、「所有」権そのものについて論じているであろう本書にすっと手が伸びだ次第。

もとより僕自身としては、社会あまねく財貨の「所有」における最適な分配方式などは期待していないし、おそらくそんな方式は誰にも設定しえまい。
それどころか、さまざまな財貨「所有」にはさまざまな次元があり側面があり、さまざまな方便も詭弁もまかり通り、だからさまざまな正当性が主張されえよう、そうだ、ここのところだ、ここが本書のエッセンスだ。
じっさい、本書の英文サブタイトルは 'How the Hidden Rules of Ownership Control Our World'  とある。
この'Hidden Rules'という表現からして、財貨における所有権には万民公開/共通の確立ルールは無いが、実勢上は清濁合わせてまかり通っている ─  と仄めかしているようである。
 ※ なお、この’ownership'なる語は総じて『所有権』と解釈されるが、ヨリ広義には主体的な支配権とも了察しえようし、一方で僕自身の英文ビジネス経験にてはこの語が排他的支配状態までをも含みうるのか否かしばしば揉めたこともある。


それではと本書の前半部分の数か所をさらりと読みぬいてみれば、うむ、有るぞ有るぞ、「所有権の正当性」についてのさまざまな論拠。
所有権は基本的には早いもの勝ちルールとも見做せるが、暫定的な占有であっても正当性はあり、不法占有の時効さえも正当と見なされ、一方で知的財産(著作権)となると市場普及度合いが高いために正当性判定は難しく、まして各人のゲノムデータともなると医療福祉の公共性の名目ゆえに所有権所在そのものがウヤムヤに…
ざっと総括すれば、たぶんこんなところだ。
社会科系のメディアに多く見られる散逸的な綴り事と比べても、本書は理知的な文脈展開を段階的に成しており、丁寧に読めば教訓性は高かろう。

※ 但し、本書には独特の読み難さもある。
まず、(アメリカ人好みの編集なのか)実例エピソードがさまざま散りばめられているため文面が多大であり、それぞれの思考段階のアブストラクトが却って掴み難い。
さらに、(英→日の論理構造の差異からか)文面上の順接/逆接がしばしば不明瞭に映り、このためビジネス利害についての記述をやや捕捉し難い。


ともあれ、此度の【読書メモ】としては本書の第2章と第3章につき、僕なりになんとか解釈しつつ、以下にざーーっとまとめてみた




<所有権と占有

動物レベルでの先天的本能によれば、或る経済主体によるさまざまなモノの所有意識はそれらの「物理的な占有」状態から起っているようではある。
そして現行の(アメリカなどの)法律も根本的にはこの解釈に拠っている。

ただし、一時的な寄託によって「物理的占有」が他者に移ったとしても、これだけでは所有権そのものが移転したことにはならない。

それでも、所有権そのものには’時効’が有る。
例えば、或る公有地/私有地を何者かが不法に占拠≒占有し、これが何らかの生産活動のための継続的な占有であると公けに宣言し続けるとする。
一方で、この土地の元々の所有権はいつか時効を迎えてしまうはずである。
そうなると、この占有者こそが新たにこの土地の所有権を主張出来てしまう。

アメリカ合衆国の土地の大半は1800年代の何らかの不法占拠≒占有状態によって起こったとも言え、これらの所有権はホームステッド法によって正当化されていった。

東欧の国々が市場経済に’回帰’した1990年代、それまでの共産主義政権によって'一時的に’所有されていたはずの土地財産の帰属が問題となった。
共産政権当局による占有物ならまだしも、実際にはそれら政権の保護や指示のもとに土地財産を占有し事業を展開してきた産業人も多かった。
それらを、数十年前の’元々の’所有者に今さら返還すべきかどうか。
むしろ、いまや市場経済に回帰したのだから、市場経済のためにこそこのまま所有権を認め活用していこう ─ ということになった。


所有権に時効が有るのはやむなしとしても、それによる新たな所有権取得の正当性は確定困難である。
例えば、エルサエムの地の所有権はいつ時効を迎えたのか、それまでの所有者はどこの誰だったのか、そしてそれからの所有者は誰になるのか。
これらの判断にどう正当性を置くことが出来るのか?

物理的占有の正当性の論拠として、その占有によって占有者が’新たな価値’を創出したか否かを挙げることもある。
アメリカインディアンは彼らの所有する土地から何ら’新たな価値’をもたらさなかったが、一方で白人はこれらを物理的に占有することによって’新たな価値’を生み出すことが出来た、だから白人によるアメリカの土地所有権は認められる ─ という方便も成立してしまった。


現代のさまざまな国際法は、国家や個人によるさまざまな財貨の物理的占有(つまり侵略や戦争など)を回避させるように出来ている ─ はずであるが、実際の世界はさまざまな物理的占有が横行し続けており、それら所有権の時効取得を図っている。


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<知的財産と所有権>

アメリカ合衆国憲法の起草時点から、知的財産における所有権が認められるべきか否かが早くも論争の対象となっていた。
知的財産のうち、’創造的な表現’としての「著作物」と、’有用な発明’の体現である「工業製品」について、所有権を認めるか否か、各州ではなく連邦議会で法的枠組みを議決することになった。
そこで、これらに限り例外的に時効付きの(20年などの)所有権を認めることとなった。
「著作権」と「特許」である。


以来、「著作権」としての所有権も、「特許」としての所有権も、多くの産業界によってさまざまな時効解釈や時効延長などが為され、事業利益に供され続けている。
もちろんこれらは、一般社会の消費者の利益に供するか或いは反するかが問われ続けてもいる。

例えばアメリカのディズニー社は、ディズニーによる著作物の「著作権」を永年にわたって堅持し続けており、これらミッキーマウスのキャラクターなどがどれだけ一般社会に普及しようとも著作権を放棄することはない。
これは消費者にとっての重大な機会損失である ─ というのが反トラスト団体の主張。

なお、著作物における事業継続のため「著作権」の延長措置が続けられると、この創作者自身の没後もその著作権が有効であり続けるかとの疑義もおこる。
この著作権の’相続人’が一時的に不明瞭となってしまった場合、この著作物が発行不可能となる場合もありうる。
Google社はこれら’孤児’著作物を独自に有料公開図りつつ、’相続人’の出現にも備えてはきたが、このビジネスさえも反トラスト当局によって打ち切られてしまった。


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<ゲノムデータの所有権はどこに?>

或る個人の身体における「ゲノムデータ」が、他者に供された場合、そのゲノムデータは誰がどのように所有していることになるか?
この供給者の親族のデータは?

現下の(アメリカの)法律にては、「ゲノムデータ」の所有権所在の画定的定義は無い。
あくまでも解釈上は ─ 誰も法的所有権を有さないため活用フリーである、或いは、ゲノムデータ供給者当人が所有権を有する、或いは、データベース構築/活用者が所有権を有するはずである。


「ゲノムデータ」活用企業としては、むしろ所有権所在がウヤムヤであればこそ事業展開のヴァリエーションが増える
例えば、所有権所在を確定せねばこそ秘密保持契約ベースでデータ開示ライセンス料を稼げる。
或いは、この所有権を’分配’する発想に則り、ゲノムデータ活用企業が株式などの対価を以て、データ提供者個々人とさまざまなオプトイン/オプトアウト契約可能になる。

なお、「ゲノムデータ」活用企業のみの判断による自社保存データ削除は認められていない。
あくまでも’医療検査施設'と見做されているため、データ保存が義務付けられている。


さすがに、「ゲノムデータ」活用事業には制限も課されてはいる。
「2008年遺伝子情報差別禁止法」では、医療保険会社や大企業による独占的なゲノムデータ活用が制限されている。
しかし、介護保険、身体障害保険、生命保険などはこの規制対象外であり、それぞれ保険事業においてはデータ活用可能である。

なお、「2018年EU一般データ保護規則」にては、データ提供者がおのれの意思でサンプルデータ削除可能としており、アメリカでもカリフォルニアなど一部の州ではこの動きを見せてはいる。


ごく近い将来、「ゲノムデータ」の活用企業はアメリカ人ほぼ全員の身体データを特定出来るようになる。
関連データベースビジネスの商業価値は飛躍的に高まっている。
医療データとしてのライセンスビジネスはすでに数十億ドル規模。


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以上、あくまでも本書コンテンツのほんの一端にすぎぬが、僕なりにまとめてみた。


本書は所有権についての論考がさらに段階的に続いてゆく。
ともかくも、利害損得の所在からしてそもそも不明瞭であるため、読者としては却って論理上の洞察が大いに試されよう。
一般読者はむろん、法学部の大学生、あるいは志望の高校生などにもチャレンジ薦めたい一冊だ。


おわり

2024/07/31

【読書メモ】 さぁ、化学に目覚めよう

IT'S ELEMENTAL  さぁ、化学に目覚めよう ケイト・ビバードーフ 山と渓谷社』

此度の読書メモにて本書をとりあげた理由は、一般向けの化学本ではありつつも記載コンテンツ豊富で分量が多いこと、かつ、原文が女性化学者の執筆によるものであること、この2点である。

まず本書の「第I部 - ひと味違う科学の授業」は、あくまでも高校までの化学の総復習(あるいは総予習)水準の平易なコンテンツに抑えられており、一方ではたとえば物質と(熱)エネルギーにかかる物理学などには踏み込んでいない。
だから、この「第I部」はひと味違うどころか確実に咀嚼したいところである。

本書の真骨頂はむしろ「第II部 - 化学はそこにも、ここにも、どこにでも」であろう。
本書の大半を占めるこの「第II部」は、化学技術のさまざまな学術案内から実用商材アプリケーションに至るまで、じつに300頁近くにもわたって綴られており、対象分野は人体や衛生、美容と料理、化粧品や医薬品、インテリア、洗剤、プラスティック、家電製品、次から次へと。
かつ、、女性著者ならではの(?)いわば思考の’サーフィン’のような奔放自在な論旨展開高低もあれば深浅もあり、さぁ次はどんな主題が、どんな商品事例が…と、読者の読書意欲を心地よく揺すってやまない。

さて、此度の【読書メモ】にてはこの「第II部」のうち「第8章」と「第10章」のほんの一端を選び、僕なりに略記要約し、以下にざっと記す。




<ポリマー
ポリマーは分子の重合構造の意。
綿のような天然物さらに生物の細胞DNAなどもポリマー構造の分子と言えるが、とくに人工的な合成樹脂類/プラスティックがポリマーと呼称される。

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炭化水素であるエチレンの分子構造は <H2C = CH2>で、無極性分子。
これを極度の高圧のもとにおくと、分子同士が重合反応を起こす。
一方ではもとの炭素原子同士における二重結合が崩れ、バラけた炭素原子おのおのが別個に共有結合。
この過程を経て巨大なエチレン環を形成、こうして「ポリ」エチレンが出来る。

「ポリ」エチレンはやはり無極性で、繊維を成しつつ分散力も働き、成形自在である。
かつ分子量は1万~10万g/molと多く、だから水に溶けない。
よって、クーラーボックスなどに積極採用されている。

「ポリ」エチレンのうち、低密度の構造をとくにLDPEと称し、一方で高密度のものはHDPEと称す。
LDPEは生成過程にて低密度(0.917~0.930g/cm3)の分岐炭化水素鎖を成し、これは構造上の伸縮性は高いが分散力は弱い。
一方で、HDPEは高密度(0.930~0.970g/cm3)の長い直線形の分子結合を成し、LDPEよりも分散力が高い。
HDPEの生成は、チタンを活かした’ツィーグラー・ナッタ(助)触媒の採用がきっかけとなった。
HDPEの生成によってこそ、「ポリ」エチレン製品の一般化が著しく進み、現在我々はいたるところでこの製品を活用している。

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炭化水素であるスチレンの分子構造は <H2C = CHC6H5> で、6員環がそれぞれ炭素原子から突き出た巨大な構造を成し、分子間力も強い。
これが重合結合して、巨大なポリ」スチレンが出来る。

「ポリ」スチレンのうち、全てのベンゼン環が同じ側に並んでいるポリマーを成している構造をアイソタクチック構造と称し、これが最も強い。
なお、ベンゼン環が左右交互につながっている構造はシンジオタクチック構造と称し、またベンゼン環の並び方に規則性の無い構造はアタクチック構造と称す。

「ポリ」スチレンの形態には、「結晶性」「ポリ」スチレンと、「発泡」「ポリ」スチレンがある。
「結晶性」のものは食品ラップ(サランラップ)やプラスティック製フォークなど。
「発泡」のものは構造上ほとんど空気が詰まったごく軽量の材料(発泡スチロール)。

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エチレン系の分子を元に生成されるポリマーのうち、とりわけ安価に大量に生成されるもののひとつが、「ポリ」エチレンレレブタレートで、略称がPET、紛らわしいが通称は「ポリ」エステル

炭素と窒素によるアミド結合から成るポリマーとしては、「ポリ」アミドがあり、このアミド結合はとてつもなく強力なので光ファイバーケーブルや防弾チョッキなどに起用されている。

「ポリ」エステル、「ポリ」アミド、スパンデックスはいずれも無極性のポリマーである。
だから極性分子である水分子を弾きやすい。
よって水着類にひろく採用されている。

一方で、ポリマーのうちでもセルロース(綿)は極性が高いため、水分子とすぐに水素結合してしまう。
だから水着類には採用されない。

なお、ポリマーは環境行政上、紫外線によって(自然に晒された状態で)分子結合が'壊れなければならない'ことになっている。

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<酸 - 塩基、洗剤など>

キッチンのシンクにおけるなんらかの汚れ分子に酢酸をかけると、酢酸がこの汚れ分子に陽子H+1個を供し、ここで酸-塩基反応を起こすので、この汚れ分子はシンクから分離する(汚れが取れる)。
なお、三塩基酸であるクエン酸はもっと強力で、クエン酸から供される陽子H+3個がミネラルなどの汚れ分子と酸-塩基反応を起こし、これによって汚れ分子を分離する。

漂白剤には、塩基である次亜塩素酸ナトリウムとともに、やはり塩基である水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)も混じっている。
この水酸化ナトリウムは塩素ガスとすぐに反応し、これをただちに次亜塩素酸ナトリウムに戻す。
だから、この反応の連続にて次亜塩素酸ナトリウムが果てることはない。

ひとつの塩基分子が対象物を乖離する能力を、水素イオン指数で表現出来、これがpH指数。
或る溶液中の、ヒドロニウムイオン <H3O+> と水酸化物イオン <OH-> の濃度比を、pHプローブにて測定、ここで水酸化物イオン <OH->の比率が高い場合に pH指数が7より大きいとし、この傾向をアルカリ性と称す。
例えば、炭酸水素ナトリウム(重曹)のpH指数は9、アンモニアのpH指数は11くらい、そして水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)は13以上にもなる。


炭酸水素ナトリウム <NaHCO3> +  酢酸 <CH3COOH> 
→ 酢酸ナトリウム <CH3COONa> + CO2 + H2O
この変化前と変化後の分子式では陽子 <H+>1個の移動のみが起こっているが、酢酸 <CH3COOH> が酸として働き、また酢酸ナトリウム <CH3COONa> は’共役'塩基として働いている。
この酸-塩基の機能関係が '共役’酸塩基対の典型例。

弱塩基とその’共役’酸の混合、または、弱酸と'共役'塩基の混合によって、’共役'酸塩基対の分子構造を成す「緩衝液」を人工的に生成可能。

この「緩衝液」は生物の体内にももともと存在している。
呼吸のさいの'共役’酸塩基対をみると、
CO2 + H2O  ⇔  炭酸 <H2CO3>
炭酸 <H2CO3> から 陽子 <H+>1個が放出され、
炭酸 <H2CO3> ⇔  陽子 <H+> + 重炭酸イオン <HCO3->
この酸-塩基反応にて血液のpHを7.4に保っている。

一方、我々が運動中に血液中のヒドロニウムイオン <H3O+> の濃度を高めてしまうと、
炭酸 <H2CO3> ⇔  CO2 + H2O
ここで血液のpH指数が下がるが、
重炭酸イオン <HCO3-> を分解して体外に排出すると、あらためて血液のpHが7.4に戻る。


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以上、「第8章」「第10章」について、ほんの一端ながら掻い摘んで要約略記してみた。

あらためてまとめおくが、本書は化学の学術的な淵源よりも実用性につき、大ぐくりながらも自由な発想を膨らませつつ描かれた(であろう)化学ガイダンス本であろう。
だから読者の見識や学識によってはごく基礎的な教養範囲もありえようが、一方では新鮮な発見も随所に楽しめよう。


おわり





2024/07/22

アリスとボブと


「先生こんにちは。あたしですよ」

「やあ、こんにちは」
「じつは、ちょっとお伺いしたいことが有りまして…」
「ほぅ?どんな?」
「それがですね ─ どうもヘンな話に聞こえるかもしれないんですけど、この世界は何もかもが『夢』で出来ているような気がしてならないんです」
「ほほぅ」
「つまり、現実感覚が無いんですよ。もっと言えば、あたしの人生そのものも『夢』なのではないかって。これっておかしいでしょうか?」
「いやいや、とくにおかしいことはないよ」
「……」
「なんだか不安気だな。それじゃあ、ちょっと確かめてみようか」
「確かめるって、何をですか?」
「俺たちの住むこの世界が、君の案ずるように『夢』にすぎないのか、それとも確固たる『現実』から成っているのかをだ」
「へえ?どうやって、ですか?」
「ここに数学の問題がある。ちょっとした暗号数学だ。さあ、解を出してみろ」
「……はあ、それはまあ、やれと言われればやりますけど……」
「出来たか?」
「はい、出来ました」
「よしよし正解だ ─ さて、それではもう一遍あらためて、さぁやってみろ」
「はぁ?」
「やるんだ」
「…はあ、それじゃあ……出来ましたよ」
「うむ。さっきと同じ解の組だ。さぁいいかね、数学とはそもそも『現実』の’再現性’を保証する技術だ。その数学がちゃんと成立しているじゃないか。だからね、いまこの俺たちの世界はホンモノの『現実』に他ならないってことだ。ゆえに君もまた『現実』の実在ってわけだ」
「………」
「分かったか?分かったな」
「……なーんか、おっかしいなあ……。ねえ先生?そもそも数学は『現実の再現性』なんか保証していないでしょう?あくまでも『思考の再現性』に過ぎないでしょう?」
「うぐっ…、な、なにが言いたいんだ君は?」
「つまりですね、いまこの世界がやっぱり『夢』であるとすれば、あたしたちの思考もまたことごとく夢であって、もしそうならば、夢の中でたまたま成立しているだけの数学だの再現性だのもやっぱり夢に過ぎないってことに」
「まっ、まっ、待てっ、も、も、もう考えるな、もう黙れっ!」
「いーえ黙りません。ねえ先生、いまの暗号数学ですけどね、ほら、こうしてキーを換えると、さっきと違う解の組が ─ 」



とつぜん、大音響の雷鳴が響いた。
とてつもない大雨が激烈に降り注ぎ始め、いたる大地をあまねく打ち鳴らした。
木陰でうたた寝を続けていた彼女は、ハッと目覚めた。
それから地響きを立てつつ身を起こし、樹々をばりばりと斬り倒しながらどすーんどすーんと歩みを続けた。
そして、巨大な洞窟の中にだだーんと転がり込むと、あらためてぐぉーぐぉーと寝入ってしまった。
あまりにも寝心地が良かったため、彼女があらためて『夢』の問題に目覚めるまでには数百万年もかかってしまうのだった。


(おわり)

※ 量子暗号の本を読んでいて閃いた、SF風の落語のつもり。

2024/06/01

【読書メモ】 あっぱれ!日本の新発明

あっぱれ!日本の新発明 ブルーバックス探検隊 講談社Blue Backs』
本書は産業技術総合研究所の協力のもと、コンパクトにまとめられた最先端技術の案内本である。
光格子時計や自動運転技術など巷間聞きなれたテクノロジーをはじめ、まだ具現化には至っていない物理/化学上のイノヴェーションまで、それぞれハードエッジな研究開発の内訳を概括しており、大きく10の章立てにまとめられている。
但し、これらコンテンツは理論面はほぼ概要に留められており、一方では研究開発の進展が必ずしも時系列に沿って段階記述されてはおらず、むしろ未編集な取材ノートのダイナミックな貼り合わせに映る。
ゆえに読者としては相応以上の常識力と想像力を以て挑みたい。

なお本書にてはしばしば温暖化が重要課題として呈されてもおり、あるいはこれが本書の主だった発行動機かもしれぬが、僕は一切触れぬ。

さて、此度の【読書メモ】にては僕なりの常識勘を若干捕捉しつつ、本書概要を記す。
対象は、<磁気冷凍方式>、<地中熱と地下水>、<接着メカニズムの謎>




<磁気冷凍方式の冷蔵庫>

冷蔵庫の熱循環における熱力学原則。
吸熱の量Qー放熱の量Q´ = 外部から為される仕事W-外部に為す仕事W´

現行の冷蔵庫はいわゆる「蒸気圧縮」方式に拠っている
常温気体(イソブタンなど)が冷媒ガスとして気体⇔液体に相転移し、これが連続的に循環している

① コンプレッサ板が、この冷媒ガスを高温高圧とする
② この高温高圧ガスが、コンデンサ板において周辺に放熱しつつ液化
③ この液体が、毛細管から冷却器に至ると圧力が急降下し、周囲から吸熱しつつ気化
④ さらにこのガスはまたコンプレッサ板にて高温高圧となり…

しかしこの現行の蒸気圧縮方式では、冷媒が気体の状態と液体の状態が混在してしまい、熱循環の効率はけして最良とはいえない。
またコンプレッサ板が必須であるため、この振動音をどうしても克服出来ない。


さて、現在開発中の新たな熱循環システムが、『磁気冷凍』方式である。
これは上述の冷媒ガスの代わりに、磁性体の対温度変化と熱運動エネルギーの出し入れを活かす ─ いわゆる磁気熱量効果を活かすもの。

<1> 磁性体は、温度が低い状態では構成電子のN極とS極の方向が揃った強磁性体となっている。
強磁性体は熱運動エネルギーの仕事がまだまだ残っており(エントロピーが低い状態にあり)、だから周囲に熱運動エネルギーを放出しやすい。

<2> 一方で、磁性体はキュリー温度以上に高くなると構成電子のN極とS極の向きがバラついた常磁性体となる。
常磁性体はすでに熱運動エネルギーの仕事が片付いてしまっており(エントロピーが高くなっており)、だから周囲から新たな熱運動エネルギーを吸収しやすい。

こうして、磁性体が温度に応じて <1>強磁性体 ⇔ <2> 常磁性体 に交互に成り代わる過程にて、熱運動エネルギーを放出したり吸収したりを連続的に繰り返す。
この磁気冷凍方式にては媒体が磁性体つまり個体であるため、現行の蒸気循環方式よりも熱循環の効率が良い。
さらに、磁気冷凍方式はコンプレッサ板が不要であるため振動音も小さく抑えられる。

但し、磁気冷凍方式の実用化にさいしてはまだまだ課題も残されている。
そもそも、室内環境にて温度変化に極めて敏感に反応可能な磁性体を採用しなければならず、とりあえずはランタン・鉄・シリコンを組み合わせた磁性体が有力視されてはいる。
また、冷蔵庫の形状そのものが大きく変わると想定されており、最適な形状が模索され続けている。

※ なお冷媒と圧縮コンプレッサを無用とするアイデアとしては、本書記載外ではあるが、半導体素子間の通電にともなう吸熱/放熱構造(ペルティエ効果)を活かしたものも追求され続けている。

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<地中熱と地下水を活かした熱交換>

総じて、日本の平野や盆地などは第四紀層の地質で覆われており、これが日本の「地中」層にあたる。
この地質そのものは空隙が多いため、熱伝導効率が良いとはいえない。
しかしこの地質の空隙に’地下水’が大量に満たされている - そういう地点もある。
この地下水が熱を移送すれば、地中の熱伝導率はむしろ大きくなる
一方で、地表と比べて地中は年間とおして温度変化が小さい。

以上から、地中の熱と地下水を活用した熱交換システムは年間とおしてエネルギー収支効率がよいことになる。

実践的には、地下水のなんらかの熱交換機を地中に埋めつつ、この移送経路を地表まで引っ張り、この地中⇔地表の熱循環を連続させうる(クローズドループ方式)。
或いは、地下水をそのまま地表まで汲み上げた上で、なんらかの熱交換器で熱循環を連続させうる(オープンドループ方式)。
熱交換器のヨリ具体的な応用例として、エアコン室外機が想定可能。

地下100mなどにおけるこの地中熱の活用は、日本の土壌が第四紀層において地下水に恵まれておればこそ。
この地質上の特性は諸外国の地盤には見られない。
よって、日本国土における地中熱活用の有力拠点がこれから探索続けられていく。

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<透過型電子顕微鏡 - 接着メカニズムの謎>

従来までの電子顕微鏡は、観察対象に電子をぶっつけてその跳ね返りを精査するもの。
いわば’走査型’方式である。
そもそも電子の波長は0.1~0.01 nm なので、たとえば原子にぶっつければ原子の「姿
を精査することが出来る。

一方で、現在は透過型電子顕微鏡の起用も進められている。
これは高出力で電子を放出し、この電子が観察対象の内部まで透過、よって内部構造を精査すること可能である。
尤も、観察対象は厚さ100nmのオーダーで超薄くスライスされていなければならない。
それほどの超ミクロ世界の透過観察技術である。


ところで。
接着剤がものとものを接着させるメカニズムとして、これまで推定されてきた主要な効果説は;
・アンカー効果: ものの微細な凹凸への接着剤の絡み付きによるとするもの
・分子間力効果: ものと接着剤の静電的相互作用によるとするもの
・化学結合効果: ものと接着剤の共有結合や水素結合によるとするもの
しかしながら、どの効果によって接着が起こっているのかはいまだ未確定なままである。

とはいえ、これら接着済のものとものを逆に引き剥がすことによって、界面部における接着剤の強度をあらためて精査することは出来よう。
こうすることで接着の真のメカニズムを見極めることは出来る ─ と考えられる。
この引き剥がし実験にて、どちらかのものの表面に接着剤が残留していなければ、この接着剤は接着力が弱く、これらのものは界面剥離したことになる。
一方で、どちらかのものの表面に接着剤が残留しているならば、この接着剤自体が接着力が強いために凝集破壊してしまったことになる。

ここで2021年、透過型電子顕微鏡を起用することによって、アルミニウム試料の剥離プロセスの動画撮影には成功している。
ここまでの精密なアプローチは世界最高水準ではある。
それでも、この試料に起こったことが界面剥離なのか、それとも接着剤の凝集破壊であったのか、やはり断定には至っていない。

よって、透過型電子顕微鏡を以てしても、接着剤の接着メカニズムがアンカー効果によるものか、分子間力効果によるものか、いまだ精密には解明されていない。
(但し化学結合効果によるものではないとは明らかになってきた。)


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以上、あくまでほんの一端ではあるが、僕なりに興味ひかれるまま3テーマについて要約し略記してみた。
他テーマも含め合わせ、研究開発と産業化における更なるイノヴェーションを期待したいところである。
おわり

2024/05/11

【読書メモ】 数学の世界史

数学の世界史 加藤文元 角川書店』
けして皮肉でもなんでもなく、本書は’数学のみの世界’の変節譚と解釈しうる一方で、’人類史そのもの’を数学が紡ぎ上げてきたようにも拝察可能である。
いったいどちらの前提に立って本書に挑むべきか、読者はしばし迷い続けるのではなかろうか。
たとえ数式や図案を略式に留めおいているとはいえ、本書全体の論旨の了察はけして容易ではなかろう。

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さて、僕なりに予め幾らかの所感を記す。

歴史
とはなんだろう?
有意なる文脈の’連続体’であろうか、はたまた無文脈な諸々の’断片記録’に過ぎぬのか?
あくまでも前者であろう ─ と人間自身が認識し続けているならば、さて数学はこの連続体を何時でも何処でも構成し続けてきたと言えるだろうか?

一方で、そもそも数学とはなんだろう?
数学はもともと何らかの有形な実体を表象した記号群であったかもしれぬ、だがそういう表象記号が人類史のどこかで数と量に分かれ、とくに古代ギリシアでは自己の定理化と論証を進め、さらに直感を超えた量化観念や理性(ロゴス)を導いてゆき…

こうして乱暴に併記してみる限りでは、人類の連綿とした歴史を数学が隙間なく織り成してきたとは考えにくい。
むしろ、古代ギリシア以降のヨーロッパ流の数学は悪魔の気まぐれのごとく時や処に不定期に出没し、しばし科学と連携しまた誘導すらしつつ、近代ヨーロッパ以降の’世界史’を先行的に舗装してきたのでは?
なるほど、近現代のパートだけを俯瞰すれば’数学が世界史を学際的に作ってきた’と解釈可能ではある

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数学の形式作法として本書をおそらくは一貫しているであろうものは、「直観」と「論証」と「計算」であろう。
しかしながら何分にも数学論ゆえ、特定方位への発展や成熟が段階的に確定されているとは考えにくく、むしろ諸々の着想や技法が時間空間を超えて堆積的に混交してこその数学であろう。
だから、これら形式の精密な峻別理解は生易しくはなかろう。
寧ろ各箇所にては拘り過ぎぬ方が却って大いなる全貌に行き渡るのではないか - 少なくとも僕はそんなふうに意識留めつつ本書を読み進めた。

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さらに僕なりに注記しおきたい論題。
本著者によれば、’割り算’こそは人類の数学思考の萌芽であると。
なるほど本書にては、高校生ならば誰もが知るユークリッド互除法を取り上げつつ、この技法が古代ギリシア数学の最たる特性である「図形量表現」と「形式的論証」の典型であると論じられてはいる。
しかしながら、文系上がりの僕としては、’割り算'のかかる特性はともかくも実社会における効用面にて疑義を抱いてしまう。
なんらかの有限の資源や資産においては、’割り算’はあくまでもこれら上限を「数的に」額配分(再配分)してゆく額面操作のヴァリエーションに如かず、これでは化学のような新規ブレークスルーを誘導し難く、だから原始共産主義から近現代資本主義まであらゆる経済思考を矮小化や狡猾性の内に留め置いているのではないか…。


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なにはさて、本書前半部における古代ギリシアの論証数学まわりまで、僕なりに掻い摘んで、ほんの雑記ながら以下に記す。




古代バビロニアやエジプトやインドやシナの数学において、さらにゼロ表記の考案や位取り記数法において、個々の表現技法や命題化にはさまざま変化や進歩がみられる。
しかしこれらにては、自身の数学命題の正しさを語る思考は無かった。

自身の正しさを自身が語る数学は古代ギリシアから始まり、これはなんらかの数学命題を定理化(対象化)した上でその正しさを証明、さらにそれを定理化しまた証明…と多重化してゆく構造。
これが「論証数学」の始まり。

タレスによる幾何学命題。
・正円は直径で二等分される。
・二等辺三角形の両低角は等しい。
・対頂角は等しい。
・三角形は底辺と低角から決まる。
・正円の直径の円周角は直角である(これはユークリッドの平行線公理が必要)
これら命題の証明は、図形の回転や折り返しや平行移動などの’運動’さらに'重ね合わせ'による。
尤も、どれも’直観的’方法ではある。

ピタゴラス学派は、協和音の整数比が此岸と彼岸を交信させるといった独特の直観に則りつつ、数論と量論を静/動で分類した。
算術は静的数論であり、音楽は動的数論。
また幾何学は静的な量理論で、天文学は動的な量理論であると。
かかる分類に則りつつ、それぞれがおのれ自身の正しさを論証するとした。


紀元前5世紀ごろ、古代ギリシア数学にては、それまでの’運動’や’重ね合わせ’による直観には留まらない「形式的な論証」が始まった。
あわせて、数を強引に「図形量」と化した上での論証も進んでいった。
この二重の大転換によってギリシアの論証数学は変わってしまった。
この端緒となったのがパルメニデス以来のエレア学派である。

エレア学派によれば、論証数学においては人間自身の直観的感覚よりも論理(ロゴス)が優先されるべきである。
自然界の事物の’運動’や’生成’や’消滅’などはあくまでも人間の感覚過程であり、完全に在るとも完全に在らないとも断定出来ない。
こんなものを理性(ロゴス)で論証してはいけないのだと。

パルメニデスの弟子であったゼノンは4つの「逆理」で知られる。
論理(ロゴス)に忠実に則るならば、時間は無限小に分割出来るはずであり、物体の運動もそれら無限小の時間幅ごと成分に分割出来るはずである。
よって、連続時間を飛行し続けている矢は無限小の一瞬一瞬ごとに停止していることにもなる。

逆に、物体の運動と時間の無限分割が不可能であるならば、運動する物体にはそれぞれ最小の運動単位が在るはず。
しかしその最小の運動単位と経過時間とのタイミング次第では、例えば互いにすれ違う隊列の重なり合う瞬間が無くなってしまう─といった事態も在りうることになる。

さらに、アキレスと亀の競争は…

ともあれ、エレア派の観念優位の論法はとくに'運動'を否定することによって幾何における現実と理論(ロゴス)の不一致さを導くもの、そしてこれへの危惧も自覚していた。
そこで、一応の歯止めを設けるべく公理と公準を従前に設定した上で、彼らなりの論証数学が成った。

数ではなく「図形量」こそを数学思考の対象と据えた論証数学、その最たる例がユークリッド互除法と背理法。
これによって、正方形の対角線と辺の比を自然数単位では通約表現が出来ず、図形量表現するしかない由が、直観ではなくあくまでも論証によって明らかにされてしまった。


アルキメデスによる数学の’逆数版'の原理にては、或る「量」の有限個(回)の分割と近似が可能である由を説いており、これはエレア派ゼノンによる無限分割のパラドックスを回避出来る。
これは正円と内接/外接する正多角形を用いるもので、それぞれの面積が有限「量」としては同じになることを背理法(’取り尽くし法’)によって論証する。
なおこの’取り尽くし法'はプラトンの弟子であった数学者エウドクソスによる無理数の比例論にも描かれている。

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さて、本書の各論が最初に邂逅するのは p.263から始まる『解析と統合』の項であろう。
ここから、近代以降の西洋数学(さらには世界数学?)の論を基幹的に成す2大アプローチについての紹介が為されていく。
ひとつは古代ギリシア以来の馴染みのもので、予め既知である定理をあらためて定義や公理によって論証するもの、これを「総合」アプローチとする。
もうひとつは、方程式と解の関係のように、未知のものを既知と仮定した上で全貌から暴いてゆき、最終的にその未知を発見するもの、これを「解析」のアプローチとする。

とりわけ、「解析」のアプローチは16世紀以降の西洋のみに起こり、これが古来の「総合」アプローチともども、真に普遍的な数学を目指すようになり…

以降、ガリレオ、カヴァリエリ、デカルトらを経て、17世紀後半の科学革命の時節に登場したニュートンやライプニッツ、無限小を前提とした微分積分学へと、本書の数学論は更にさらに続いていく。

なお、傍流的なエピソードの数々もなかなか興味を惹かれるものが多い。
例えば、微分積分数学の端緒は意外にも早く、14世紀のマートン学派による物理運動の幾何的表現に原型を見ることが出来ると(平均速度の定理など)。

本書はともかくもスケール大きな数学論である。
理系文系問わず、また職能も問わず、一読を薦めておきたい。

以上

2024/04/30

【読書メモ】 宇宙を解くパズル

宇宙を解くパズル カムラン・バッファ著 講談社Blue Backs』
本書は典型的な数学パズル群から編成されており、シンプルな解法もあれば若干深淵な数式紹介もあるが、新書本であり概説ベースなので読み進めやすい。
とはいえ、これらの本領はあくまでも物理理論への誘いである。

本書のサブタイトルは 『「真理」は直観に反している』 とあり、全巻とおしての謎かけであろうこの言はなかなか深淵でもある。
物理現象(実在と運動)が真理であり、数学は所詮は人間なりの直感にすぎぬのか、いやいやその逆なのか…ちょっとウヤムヤ感に惑わされてしまう。
それでも本書のトータルなメッセージを僕なりに類推してみれば、なるほど数学は物理学を確立しているようではあるものの、すべての物理現象(つまり宇宙と自然)を完全に記述しきっているわけではない ─ といった由ではなかろうか。
そして物理学に対する数学の至らなさは、その’対称性’の流用において見いだせよう、とりわけ’連続対称性’のそれにおいて。

なお本書の文面読解においては、例えば「〇〇として」と「〇〇における」の論理区分などなどの難解さを留意してみたい。
とはいえ、このような論理表現上の不明瞭さは数学系の本で総じて見受けられるところではあり、しかも本書はあくまで物理学を主題に据えた概括本であるから、いちいち躓くことなく図案と数式と想像力に則って読みすすめたい。

さて、本書全体に目を通したわけではないものの、上に記したとおり重大コンテンツ(のひとつ)は序章~前段部において紹介されている「連続対称性」であろうかと察せられる。
そこで、今般の僕なりの読書メモとしてもこのあたりまでを要約雑記し、以下に記す。
※ 但しあくまでも導入部なので引用される数式も大雑把であり、だからこれらはメモ省略とする。




<最小作用~最小経路>
或る粒子が或る特定の出発点~終着点まで移動するとして、この粒子が任意に辿りうるさまざまな経路を考える。
ここで、この粒子の位置エネルギーと運動エネルギーとこれらの積分量から、この粒子の力学上の「作用」を定義する。
すると、この「作用」が最小となる経路を定義出来るはずである。
これが数学者ラグランジュに始まる「最小作用の原理」。

この原理を数学にて定式化するため、ラグランジュとオイラーは積分量の極致をもとに最小の経路を導く解法をおこし、ここで採用されたのが「変分法」。

ハミルトンは、位置の時間あたり関数と運動量の時間あたり関数を捉えなおし、これら時間微分を2次元から1次元へと単純化。
このさいに考案されたのが「相空間」で、ここからハミルトン力学が始まった。


<マクスウェル方程式~ローレンツ変換>
真空中でのマクスウェル方程式にては、磁場または電場のいずれかを力と見做した上で、ともかくも電磁波の進行とその速度を定義している。
非加速の或る慣性座標系にて、観察者がこの電磁波の速度を測定するとする。
このさい、あくまでもニュートン力学の速度合成則によるならば、電磁波とともに観測者自身も一定速度で移動しているため、両者間の「数学上の対称性」つまり「物理上の相対性」によって速度の測定値そのものが変わるはずである。
しかし、もしもこの電磁波の測定速度が観察者の移動速度にかかわらず一定であるとすると…

ローレンツは、マクスウェル方程式においてニュートン力学とは異なる「数学上の対称性」が在る由を指摘。
電場、磁場、粒子の位置、および時間が、或る座標系から別の座標系へと移る場合にどのように変化するかを数学にて導き、そこであらゆる座標系にて同じ形をとる方程式を導出。
これが「ローレンツ変換」の数学。

マクスウェル方程式とローレンツ変換を元に、アインシュタインは在る物体粒子とその質量と光速2乗がこれら物理エネルギーと等価になると導いた。
これは電磁気に留まらぬ「時空全般の相対性理論」となった。
リーマンは、歪曲した時空においても重力場の自由落下の経路は直線を辿ると指摘、これが「リーマン幾何学」。
これによって「一般相対性理論」は完全に幾何学的な重力理論となった。


<量子力学>
シュレーディンガーは、或る粒子のエネルギー演算子と運動量演算子と位置エネルギー演算子と質量をもとに、「量子力学の方程式」を編み出した。

アインシュタインの「特殊相対性理論」とはエネルギーの次数が2であり、シュレーディンガーの「量子力学方程式」はエネルギーの次数が1である。
この両者のつじつまを合わせようと、ディラックは「行列数学」を投入して次元を統一する方程式を表現した。
かつ、この行列数学は位置や運動量とは独立した電子自身の運動の自由度をも表現、こちらが「スピン」である。

ただし、ディラック考案のこの行列数学の方程式では、電子の正エネルギーも負エネルギーもありうることとなる。
ディラックの解釈によれば、負のエネルギー状態を成す'電子群の海’が存在しており、一方ではパウリの排他原理も働くことにより、エネルギー準位軌道と電子のエネルギー状態の相関をともに説明はかった。
一方で、アンダーソンは宇宙線における電荷粒子の軌跡を観測し、陽子とは別の正電荷を有する「陽電子」を発見。


<場の量子論~経路積分>
ここまで組み合わせて考えると、あらゆる粒子(量子)は移動経路を1つに特定しようがなく、あらゆる経路を進んでいることになる。
ここで、それぞれの経路に位相の複素数を割り当ててみれば、これら位相の総和と移動経路の選択確率が比例関係にある ─ と解釈することになり、これが「場の量子論」。
こうなるとラグランジュやオイラー以来の「最小作用の原理」のみでは説明しきれなくなる。

ファインマンは、或る点から別の点へと移動する粒子のとりうる各経路に「作用」の指数関数を’重み’づけて、これら経路と時間の選択確率を導いた。
ここでの確率計算は、経路と時間の積分にて複素数を採用しこれを2乗しつつ、さらにプランク定数を充てこんだもので、この換算プランク定数が0となる極限のもと、変数が無限個の無限次元における積分計算を為す。
これがファインマンによる「経路積分法」であり、シュレーディンガーの量子力学を新たに定式化しつつ、またニュートン力学をラグランジュとオイラーの形式で表現しなおすことにもなった。

しかしながら、ファインマンの「経路積分法」をマクスウェルの電磁気理論に充て込むためには、あらゆる電場と磁場の無限次元空間を設定しつつ積分計算を行わなければならず、これはあまりに複雑すぎるため完全には為されていない。

つまり、「場の量子論」の数学上の完全な定式化は未だ実現されていない。
数学上の定式化が為されていないのだから、物理法則の定式表現も為されていない。

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<物理上の連続対称性 ─ その破れ>
ラグランジュとオイラーとローレンツ変換にては数学上の対称性が大いに活かされてきたが、かかる対称性をとくに物理現象に充てこんだものが「連続対称性」である。

この物理上の「連続対称性」を集約すれば;
・時間反転における連続対称性
・空間内での鏡映パリティとしての連続対称性
・荷電共役変換としての連続対称性

そして、1つの連続対称性に応じて必ず保存則が1つは成り立っており、これが「ネーター」の定理。
時間の並進における連続対称性からはエネルギー保存則を導出可能であり、また空間の並進における連続対称性からは作用/反作用と運動量保存則が導出可能、そして回転における連続対称性からは角運動量保存則が導出可能。

「ローレンツ変換」においては、4次元時空内にて空間が時間方向へ、そして時間が空間方向へと連続対称性を成している。
そして「相対性理論」と「量子力学」の組み合わせとなると、上の3つの連続対称性すべてが成立しきっている。
(宇宙はビッグバンと相転移とその後の燃焼拡散が一方向なので、時間反転の連続対称性は成り立っていないともとれるが、しかし宇宙が拡大と収縮を繰り返していると見れば時間反転の連続対称性が成立している。)


しかしながら、宇宙自然のすべてが連続対称性を成しているわけではなく、むしろ連続対称性を破ってこそ成立してしまった(とも解釈しうる)物質も現象も多い

何らかの複数の粒子を近接させると、それらの粒子の電子スピンはすべて上向きあるいは下向きの同方向のスピンと成り、ゆえにこれらの系のエネルギーは基底状態にて最小状態に収まっている。
この系が或る一定の温度条件下に在ってこれら粒子が温められると、温度変化に応じてそれぞれの電子スピンの方向が’確率的に’変わる。
この確率上の相関はボルツマン定数を以て数学表現されており、これが「ボルツマン則」、かくて連続対称性は成立してはいる。

ところが、磁石を極低温におくと、それら粒子の電子スピンは上下どちらかの方向を向いたきりとなってしまい、温度条件の変化に応じていないことになる。
こうなると「ボルツマン則」は通用せず、連続対称性は無い

あらゆる剛体は、外部から加えられた一定方向の力に応じて構成原子が特定の位置を占め続けてしまい、だからこそ剛体そのものがその方向に一緒くたに動いてしまう。
つまり、この剛体は(構成原子は)並進対称性を破っていることになる。

ボルツマン則の着想にのっとり、宇宙のビッグバンと相転移、そこにおけるヒッグス場の生成、そこでヒッグス粒子が為す質量獲得などを俯瞰すれば、この超スケールのプロセスは連続対称性を破っていることになる。


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… ざっとここまで、本書巻頭箇所のほんの一端を紹介したに過ぎないが、それでも物理学の総復習ないし総括を楽しめるものである由、お分かり頂けるのではなかろうか。
ともあれ本書は見かけ以上のスケール感満載、次から次へと物理論題が目白押し。
そしてどれもこれも切り口は数学パズルであり、変人の多い数学ファン連中をもけして退屈させない思考鍛錬の書たりえよう。

以上

2024/04/16

大学新入生諸君へ (2024)

大学新入生向けのメッセージをざっと記す。

昨年は世界のデジタルでニヒルな無文脈化について触れつつ、じっさいのモノやエネルギーは無文脈化などありえず、世界の各地でさまざま胎動し連動もし暴発すら続けていると ─ まあそんなところをリマークした。
大学生の諸君らは、他者に押し込まれた断片的な知識や命題にいちいち盲従してはならぬと。

今般はバカでも分かるようにヨリ単純に書き綴ることにする。

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諸君らのほぼ全員は、幼少時から現在まで数学を学び続けてきた(押しこまれてきた)ことであろう。
そもそも数学とはなにかといえば、僕なりにまとめるに、何らかのデータや命題や事象や関数などの’再現性’を保証表現する術であろう。
じゃあ確率論はどうなるんだなどとイチャモンをつける輩もいるだろうが、そういう見方そのものが数学に寄り添い恋している証。
数学が’再現性’を保証すればこそ、アルゴリズムもさまざま可能だし、プログラムはもっと自由自在たりうる。
となると、数学は実体の情報転換技術でもあり、自動化の保証技術ともいえる。


さて、この数学による事象の’再現性’保証があってこそ、宇宙のあらゆるモノやエネルギーの運動(量)や作用/反作用や仕事について特定の法則が成り立ち、これらを束ねて物理学となっている。
たった一度きりの発生事象の場合は宇宙の気まぐれかもしれず幽霊かもしれず、だから再現性を観察できず、ゆえに数学に乗せることが出来ず、これは物理現象とはいえない。
じゃあ量子力学はどうなるんだよと難癖をつける輩もいるだろうが、そういう着眼そのものが物理学を愛している証であろう。
ともあれ、物理学によってさまざまなモノやエネルギーを特定の法則に則って人間なりに活かすことが出来るのだから、これは機械化の技術ともいえる(電子だろうが量子だろうがだ)。

これを産業側からみれば、数学による自動化技術と物理学による機械化技術の複合が大英帝国の繁栄を可能とし、これが巨大スケールの素材とインフラから精妙な暗号数理などなどまで現代型のテクノロジーを導く原初モデルを確立したように映る。


しかし大英帝国の産業は、20世紀以降はアメリカとドイツに対する圧倒的な優位性を失ってしまった。
とくに鉄鋼業などの重大産業にて、大英帝国は化学素材の組み換えやバラエティへの意欲が高揚されにくく、それでアメリカやドイツの後塵を拝するに至ったのではと言われる。

同じような経緯は旧ソ連でも見受けられるようだ。
特定品質の工業製品の大量生産においては旧ソ連はさすがに強かったが、アメリカとドイツが多品種の化学素材によるさまざまなバラエティ製品を世界に送り出すと、旧ソ連はもう追随できなくなったと指摘されている。
さらに悪いことにチェルノブイリ原発事故にても、旧ソ連の工業部材は化学素材がごく限られており、よって大事故を回避出来なかったと。

では日本の産業はどうだったかといえば、数学と物理学はもとより化学においてもドイツやアメリカに負けておらず、むしろ勝っていた。


もう言いたいことは分かりますね。
数学と物理学だけでは現代産業の優位性を保持することは出来ないってこと。
大量生産の勝負に必ずしも適さぬわが日本なればこそ、化学の知識見識が必要とされているってこと。
化学素材や化学薬品がらみでいろいろ揺さぶられてはいる昨今の産業界ではあるものの、大学生の諸君は化学を捨ててはいけない。
将来どの途を選ぼうとも、たとえ数学や物理学が大っ嫌いでも、化学の素材バラエティには常に関心を保持していこう。
世界はまんざら退屈ではないし悲劇的でもないよ、むしろさまざまリアルな関心が高まりかつ深まってゆくのではないかな。

だからって就職活動にて優位となるかどうかは分からないよ、なにしろ素材のバラエティあれこれの世界だ、得もありゃ損もありうる、知ったことかそんなもん。


※ ついでに指摘すれば、日本人のとくに年配層は(経験則からか)医薬品や石油やプラスティックがらみの化学知識がかなり豊富であること、これは大学生諸君にとってひとつの天啓とも呼ぶべき巡り合わせではないか。



なんだかズボラな論旨の投稿にはなったが、大学生向けのつもりだからこんなもんでいいんだ。
おわり

2024/04/11

新卒社会人の皆さんへ (2024)

新社会人の皆さんに伝えおきたことを、ちらっと記すことにする。
僕なりにここ数年ほぼ同じようなことを考えており、着想も問題意識もほぼ変わっていないので、今回も同じような意思を以てちらっと書き散らす。

とはいえ、昨年はモノと観念についての人間なりの捉え方として、無限性と有限性について留意しつつ、創造的な掛け合わせもあれば不幸な割り算(引き算)もあると、まあそんなようなことを記した。
今回はもうちょっと単純に、大人社会で大いに威力を発揮している根元的かつ端的な学術思考、すなわち物理(学)と経済(学)について、ごく簡単な比較をはかりつつ大人社会の不可思議さを ─ まあいいや、ともかくそういうこった。


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物理学はあらゆる物質/物体の運動とそれら仕事/エネルギーの変化と保存則とエントロピー増大を考察対象とし、これらを再現的に捉えて語る。
再現性を語るためにこそ、必ず数学に則っている。
数学が有限が無限かはさておくとして、物理は一応はあらゆる実体の有限性と保存性を記述する ─ ことになっている。
コンピュータプログラムさえも、ブロックチェーンでさえも、電磁波の変化として捉えてみれば物理学の考察対象である。
人間の脳神経も遺伝子もやはり物質なので、物理学のうちにあるのは当然である。


では経済学はといえば、こちらも物質/物体や運動や仕事/エネルギーの変化を捉え、これらについての再現性を語る。
やはり再現性ゆえ、数学に則ってはいる。
それなら物理学そっくりじゃんと納得するかもしれないが、そっくりどころか、おそろしく異なっている。

経済学は人間風の価値と権利を物理よりも上位に据え、それらの需要/供給が増えただの減っただのと分析し、さぁこれは希少なメタルだの貴重なアースだのと誉めそやし、そうかと思えばダーティーなエネルギーだの過剰な仕事だなどと論じている。
さらに、そういう声を反映しつつ信用が高まっただの下がっただのと…。
とりわけ厄介なのは、経済事象のひとつひとつを通貨換算して価値や権利を表象しつつも、当の通貨そのものに価値や権利の絶対尺度が無いというところだ。
要するに、どこまでもその時その場の人間風の価値と権利をとっかえひっかえで、これらが物理の外部に超然的におわしますなのである

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さて、物理学と経済学は同期をとりうるだろうか?
社会人らしくもうちょっと実践的に論うならば ─ さまざまな物質や仕事/エネルギーの「物理量」と「経済価値/権利」は比例関係にあるだろうか?


物理学に則れば、たとえば過去2000年間において地球の全物質量/全エネルギー量は全くといっていいほど変わっていない ─ ことになっている。
しかし同じ2000年間にて、資産の価値も通貨の価値も、それらの量も、とてつもなく増大しかつ変動してきた。
いったいなぜか?
人間とはそういうものさというのが達観的な答えであろうし、じっさいのところ、経験的な答えもこうならざるをえない


① 物理学と経済学の差は、上にちらっと書いたように、物質物体の外部に人間風の’価値’を超然させるかしないかだ。
あらためて、’価値’について捉えなおしてみたい。

資産の「価値」には、物理上の絶対尺度も基準も無い。 
1クーロンあたりや1電子ボルトあたりの「価値」尺度も基準も無い。
金(gold)1オンスあたりもだ。 
あらゆる価値は、あくまで人間がその時その場で好き勝手に決めているにすぎない。
だいいち、データそのものの価値を独占するなどというが、物理に即していえばデータは電磁上の表象でしかないんだぜ、これらの価値とはいったいどういう意味だ?
ましてや、付加’価値’だの、それを見做した上での付加価値税だのと…

ともあれ、物理学には’価値’の観念は無いが、経済学にてはあらゆるモノや仕事に’価値’を設定する。
ここだけ捉えてみても、物理学と経済学は同期をとっておらず、量的な比例関係にない。


② その上で、さらに仕事(生産)において物理学と経済学を比較してみる。

物理学に則れば、あらゆる物体はそれ自体なんらかの「運動」を為しつつ、さまざまな物体が互いに作用/反作用しあい、これら成果の距離を以て「仕事」と称していること、誰もがお分かりのとおり。
仕事は’生産’でもある。
ところが経済学における用語では「仕事(生産)」の定義が分かり難く、どうも察するに何らかの'価値’の付加を以て「仕事(生産)」と見做しているようでもある。
だから経済学によれば、通貨のみをグルグルと回しているだけでも「仕事(生産)」の付加がどんどん増えていく(そしてGDPも増えていく)ように映る。

※ とくに女たちは、生活そのものがこれすべて「仕事(生産)」を為していると信じているようで、だから職場で遊んでいても寝ていてもとにかく通貨を寄越せと。


③ さらに、仕事(生産)とコストについて。
たとえば電気には、電位差克服のために電流に物理上のコストがかかる。
その電位差を克服すれば、物理上の仕事つまり電力を起こしたことになる(発電を為したこしたことになる)。
しかし経済学に則れば、なんぼ電力の仕事を為したところで、カネというコストばかりが発生し、リターンという名の仕事(生産物)はほとんど無いことになっちゃう場合もありうるわけで、そうなるとこの仕事(生産)行為は経済学上の価値はほとんどゼロだ、ナッシングだ。

むかっ腹が立つかもしれないが、これが物理学と経済学の差だ、そして理系と文系の違いといってもよさそうだ。


④ もうちょっと。
AIが、世界中のあらゆる物質と電力とさまざまエネルギーを統一的に制御しつつ、最適プログラムをとことん実行し続けていく ─ としよう。
すると、いずれは全世界のあらゆるハードやソフトやインフラまわりの物理上のコストが最低限まで下がる ─ かもしれない

では、この偉大なAIとさまざまリソースの経済コストも下がり続けるだろうか?
むしろ、さまざまなリソースとカネの独占的な運用権を主張する連中どもによって、経済コストはバカっ高くなっていくのではないか?

どうだ、なかなか巨視的でエキサイティングな論題だろう。
新卒社会人の諸君は、このくらい巨視的な着想を日頃から弄ぶくらいで丁度いいんだ。


④ 安全保障について。
物理上は、人間にとって危険な物質やエネルギーは確かに在る。
では、経済学に則りつつこれら物質やエネルギーの価値や権利をゆっさゆっさと揺さぶっていれば、わが国はずーっと安泰でいられるのだろうか?



なんだか面倒くさくなったので、このへんでやめておく。
ともあれ、宇宙万物の真理のみからなる物理学と、人間都合の方便で’価値’や’権利’を使いまわす経済学 ─ これらがあらゆる学術思考の二大陣営であり、さまざまな事業や政策の根本ともいえよう。


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(付記)

毎年書いていることだが、仕事における実践的なアドバイスも一つだけしおく。

新人諸君は、なにはさておき、まずはメモ用紙を準備しろ、そして常に携行しろ、見聞きするもの片っ端からメモしまくれ。
チマチマした付箋などはダメだ、大きめの紙を使うんだ、出来ればB5サイズ以上のものだ、広告の裏紙でもなんでもいい。
これくらいのサイズであれば、まとめていろいろ書き記すことが出来るし、いつでもまとめてノート帳として一瞥できよう。

とくに、新規の世界への了察は理科や社会科の新分野学習に等しく、右脳的(絵画的)に物事をズンズン描き続けること必須、だから大きな紙面が望まいのだ。
また、電話番などで取り次いだメッセージもつらつらと書き残し、ビッと引きちぎって上長などに手渡すことが出来る。
一方で、書き損じをしてしまったメモは引きちぎってとっとと捨てるんだ、いちいち名残惜しんでいてはいけない。

以上の機能を同時に果たすべく、B5サイズ以上の紙を常時20枚くらい束ね、これを左上リング綴じの構造にしておけばいい。
これで重要なメモはノートとしてずっと保持し続けつつ、不要な紙はどんどんちぎり捨てることが出来る。
ホントに重宝するから。


もうひとつ付記。

技術仕様から契約書にいたる文書類について、職制を問わずほとんど誰もが実務上拘束されることとなろう。
これらの意義について精緻に了解しておきたい。
口頭による提示や合意ならまだしも、文書によるそれらは諸君らの想像を超えた恐ろしい失態を導きうるものだ。
例えば、同一の商材についての見積書が複数存在する場合、購入希望者はどちらかおのれに有利な方を正当な文書と見做し、それ以外の文書は黙殺すること、当然である。
契約書もしかり。
くれぐれも慎重に、ワンアンドオンリーの原則だぞ、ナンバリングと更新日時の明記を絶対に忘れるなよ。

※ 塾業界や風俗関係などであれば、うっかりミスでも土下座くらいで済まされる、かもしれない。
しかし、まともな産業のまともな産品や製品においてはちょっとしたミスのみでも復元不能なほどの大損をもたらす場合も多い。
そんなこと続けていたら多大な賠償を負うのみならず、さらには市場からバカアホ呼ばわりされて信用失墜してしまいかねないぞ。


以上

2024/03/22

会うは別れの


高校3年時のこと。
僕は或る女性英語教師を猛烈に恋していた。

彼女は日本人ではあったが、大メディア向けに英文記事を執筆するなどなかなかの英語通。
しかも、ご本人は明言されなかったが彼女の英語はスコットランド訛りで、これは彼女の発話を聴いていて僕なりに気づいたことであった。
僕自身は幼少期にロンドンで過ごしたことがあり、近所に住んでいた日本人女性がスコットランド訛りで喋っていたのを覚えており、だからこの女教師のアクセントにもピンときたのである。

この女教師についてもうひとつ特徴的だったのは、テニス部の顧問を務めており、しかも左腕でラケットを振るって凄まじいボールを打ち放ったこと。
僕自身、戯れ半分に彼女とコートで相対したことがあったが、彼女が打ち込んでくる超特急のサーブはこちらのラケットを弾き飛ばさんほどに強烈で、だからとてもラリーなど続けられようはずもなかった…

彼女こそが僕の初恋であった。
そしてこの初恋は失恋に終わってしまった。
彼女は婚約していたのである。

恋とは不思議なもので、しかも意地悪なもの。
結ばれぬものと判れば分かるほど、いよいよ惹かれて漕がれてゆくのは人のさだめか本性か、ともあれ、我ながら馬鹿ではなかろうかとの自嘲と嫌悪に揺り動かされてやまぬのであった。


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進学が片付き、進路も定まり、僕の高校卒業はいよいよだ。
それでもこの女性教師への恋心は留まりもせず収まりもせず ─ いや、それでもどうにか、おのれなりのささやかな解決策に思い至った。
要するに彼女を忘れてしまうえばよいのである。
冷徹にいえば、記憶から消し去ってしまえばよいのである。

そこで閃いたことがあった。

そもそも、だ。
人間は特定の物事や人物のみを記憶に留め置くことはなく、必ず周辺の物事や人物の光や音と拮抗させつつ記憶しているはずだ。
よって、或る特定の人物を忘却しようとすれば、その人物「以外」のあらゆる光やあらゆる音についてはむしろ記憶が強化されるはずではないか。
端的に例示すれば ─
或る物質粒子 Xが (+)の電荷を有するならば、その周辺のさまざまな物質粒子 Y', Y'', Y''' ... はどれも (-)の電荷を有しているはず。
ここで「(+)電荷の X」を除去するならば、「さまざまな (-)電荷 のY', Y'', Y''' ... 」は増えるはずだ。
半導体素子の組み合わせ次第で、電子と正孔が分離してゆくに似ている。

そうだ、これだ。
初恋の女性教師を忘れ去るためには、むしろ「彼女以外の」あらゆるものを鮮烈に記憶に留めてゆけばよいのだ。
うむ。
校舎の威容、教室の静謐、級友たちの意気と意地、年輩教師たちの叱責、運動部の快哉と怒号、どれもこれもを記憶に刻め…

こうして卒業式の日を迎えた。
式次第が進行し、別れの刻がおとずれる。

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胸を聳やかしつつ真っすぐに校舎をあとにした僕は、隣接するテニスコートの前を横ぎったところで足を留めた。
コート内にて快活な声を挙げつつ、女子生徒たちを指導していたのは ─ 

おや?あれは初めて見かける女性教師だぞ。
女子生徒たちに請われるまま、彼女は日本語と英語を入り交ぜての指導を続けており、その英語アクセントは聞き紛えようのないスコットランド訛り…。

彼女の左腕から次々と放たれる超スピードスピンのボールがコート面上をあちらへこちらへと貫いてゆく。
その一撃一撃ごとに、僕はおのれの事態も局面も分からなくなってゆくのだった。
正/逆の電位と放電をおのれの脳内の思考素子に覚えつつ、あらためて分かりかけていたのは、僕はこの女性教師を見初めてしまい、「新たな初恋」のプログラムを起動させ始めていたということであった。


※ おわり ─ いや、これは有と無の論理反転を人間の脳神経に展開させたような、そういう一種の恐怖譚のつもり。
もともと物理学でいう運動量の保存則(数学でいう対称性)のアイデアをちょっと拝借しているんだ。
そんなわけで終わりは無いんだ。

2024/03/17

【読書メモ】 笑わない数学

一般に人間の思考においては、何らかの表象を「〇〇なるもの(名詞)」と「□□を為す(動詞)」とに予め次元峻別した上で、これらを組み合わせてさまざまな命題をつくる。
だから、例えば「みかんを食べる」などの命題を整然と作ることが出来る。
ところが数学においては、「〇〇なるもの」と「□□を為す」が混然一体であり、直観にまかせて記せば、「みかんを食べる」と「食べるのみかん」に区別が無いようなのである。
もっと職業人らしく論ずれば、「コンピュータ」と「プログラム」だ。
前者は電位差から成る実体機構に過ぎぬが、後者は信号ロジックを為し、だから両者は別次元のもの ─ それでいて、「コンピュータがプログラムを動かす」と言い、また「プログラムがコンピュータを動かす」とも言い、どちらの表現も数学上なりたつ。

このように数学は実体量と関数を転換可能、だから主体と客体も交換可能、なるほど数学思考そのものには善も悪もなかろうが、実体の物理量と経済価値をすり替えるやつらもわんさかといる。

…といったようなところが、僕なりに日夜ウヤムヤと浮かんだり消えたりの随想ではある。
それで、しばらくぶりにまた数学本を取り上げてみようと思い立ったのであった。
そのうちの一冊がこれだ。
笑わない数学 NHK笑わない数学制作班 KADOKAWA』
本書はいわば高校(以上)数学の超ダイジェスト本であろう。
総じて概括に留め置かれたコンテンツゆえ読み進めやすいが、しばしば概括的すぎるため却って不明瞭でもあり、数学ファンでもなんでもない僕にとってはところどころ難解でもある。
むしろ図説にこそ大注目すべきであり、文字通りカラフルなこれら描写が随所にて平易さ(そして難解さ)を直截に語り掛けてくる。
本書のひとつのお薦めは『テーマ4:フェルマー最終定理』であり、n=4 に限った場合の証明例が呈されているほか、女性数学者ソフィー・ジェルマン考案の素数なども数学冒険譚の一端として楽しめる箇所ではある。

なお、僕は『テーマ6:ガロア理論』にちょっと拘ってみた ─ 理由は、たまたま併読している或る物理本にてラグランジュの名および’対称性’の観念を見出し、それで本書に立ち換えてみようと思いついたため。
だから此度の【読書メモ】としても、この『テーマ6』を僕なりに掻い摘んで以下にざっとまとめおいた。




四則演算が自由に可能ななんらかの計算の系を、その「体」とする。
すべての有理数の集合Qは有理数の「体」である。

なんらかの代数方程式はさまざまな「体」から成り、代数方程式の全ての「解」が見つかるならば、その代数方程式を最小分解した「体」も見つかるはずである。
例えば;
有理数a. b. c から成る2次方程式 ax2 + by+ c = 0 (a≠0) における「解の公式」にて、
冪根√(b2-4ac)  の部分が有理数とならぬ可能性があっても、全ての有理数集合の「体]Q にこの √(b2-4ac) を付け加えて拡張すれば、最小分解「体」を得られるはず。

「解」の公式の導出をヨリ一般化すると;
(0).  代数方程式のすべての係数を含むような「体」K0 を設定する。
(1).  ある a1 ∈ K0 の冪根を付け加えて 拡張の「体」 k1 を作る。
(2).  ある a2 ∈ K1 の冪根を付け加えて 拡張の「体」 k2 を作る。
.....
(n).  ある an ∈ Kn-1の冪根を付け加えて 拡張の「体」 kn を作り、これによってすべての「解」を含ませる。

─ このテンプレートに則って  a1 から an を見出すフローである。

 =================


ラグランジュ・リゾルベンの基本発想。
3次方程式にはちょうど3つの解が、4次方程式にはちょうど4つの解が存在するが、これは解の公式のみに限定的に収まる特性ではないと。
それぞれの方程式にて、複素数を投入しつつ、解をバラして置き換えてまた足し合わせれば、原型よりも簡単な方程式に帰着すると。

確認例。
3次方程式 ax3 + bx2 + cx +d = 0 にて 3個の解を A, B, C  とし、さらに 複素数t3 =1 となるt (但し t≠1) を用意する。
ここでこの3次方程式を低次の X = At2 + Bt + C へと落としこむ ─ この手口がラグランジュ・リゾルベント式。

方程式の解を A→B, B→C, C→A と並べ替えると、Xの値は
 = Bt2 + Ct + A
=  At3 + Bt2+ Ct
= tX
と換えることが出来る。
もう1回並べ替えると t2X となる。
さらにもう1回並べ替えると X に戻る。
すると、 X x (tXx (t2X) =  t3X3 = X3   
X3 まで見つかるので X があらためて定義出来たことになる。
こうしてリゾルベント式によればもともとの3次方程式におけるよりも早く X 値を導くことが出来る。

ここでの「解の置換」こそは図案が着想上の大ヒントたりうる。
P.173~p.174.における正三角形および正四面体の「対称性」と併せて見ればじつに納得しやすい。


※ 因みに、ラグランジュは’力学作用の経路と積分’を起こした数学者であり、まさに近代の物理数学の嚆矢といえ、彼がオイラーともども最小経路の定式化を進めていった由はさまざまな物理読本にも引用されている。そして「対称性」の観念も物理学上のさまざま「保存則」と邂逅するに至っている。

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「群」の導入。
ラグランジュまでの代数方程式の「解」、および相応の図形の「対称性」、これらを繋ぐのがガロア以来の演算「群」。
※ ここのところとりわけ難しいが、さまざまな演算/変換コマンドの集まりとしての「群」の意であろうと僕なりに見受けつつ、記しおくこととする。

「群」は以下の条件を満たすものとする。
1. 複数の連続操作とそれら合成操作によって成る。
2. これら合成操作は順不同かつ結合可能。
3. 何も変換せぬ(原点保持の)操作も一つと数える。
4. すべての操作に逆元がある。

代数方程式と図形それぞれ、さまざまな「群」によって表現し直してみれば、「対称性」とともに「’複雑さ’」をも表現出来る。

解の公式における「体」の拡大系列を k0 ⊂ k1⊂ k2 ⊂ ... kn-1 ⊂ kn とすると
複雑に成っているはずのこの「体」 k0 ⊂ kn は、個々レベルでの巡回の「群」に分解が出来る。
k0 ⊂ k1 を表す巡回群
k1⊂ k2 を表す巡回群
 ... 
kn-1 ⊂ kn を表す巡回群
こうして「体」を単純きわまる巡回「群」にまで分解しきれば、最小分解「体」を表現しきったことになり、ゆえに複雑さが判然とする。


あらためて、3次方程式と対称性の三角形にて、解の公式を確定できるかどうかが分かる。
同様に、4次方程式と対称性の四面体にても分かる。

ところが、5次以上のほとんどの(?)方程式では「巡回群」をいかに組み上げても最小分解「体」を表現出来ず、つまり複雑すぎることになり、だから「解」を特定出来ない。
(冪根を投入してもやはり出来ない。)


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以上 『テーマ6』がかなり難度高い数学論である由をおそるおそる察しつつの、あくまでも僕なりのメモである。
若手社会人~学生諸君、とくにガロアと『群論』まわりににちょっと挑んでみてはどうだろうか。