2024/12/18

ちょっとした自分史を (4)

(前回の続き)


ゼミにおいて僕が拘ったのは、国家における人種民族の人口比と立法議会の議席比率(たとえばクオータ制)、その妥当性について。
それも、特定民族が圧倒的な人口比を占める日本のような国々についてではない。
共和国や連邦国家のようにさまざま人種民族が拮抗し対立続けている国地域 ─ たとえばカナダ、南ア、レバノンそして旧ソ連などにて、「人種民族や宗派の人口比に準じて立法議会の議席数を配分すべきか否か。」

もちろん、この最適な議席数の論題にては、考察対象国の量的スケールそのものを定義した上で、その国の人口と人種民族の数を充てなければならぬ。
たとえば;
国家の領域面積、水の使用量、エネルギー源の使用量、産業別の生産量、産業別の売上と利益、国民の総人口、人種民族ごとの人口、信仰宗派、業態ごとの従事者数、流動通貨、証券や債権の案分、そして納税額…うんぬん、かんぬん。
しかもだ。
たとえ業種業態と水/エネルギー量と人種民族と宗派を呼応させたとしても、さらに議会における多数決の正当性が絡んでくるし、議員内閣制か大統領制かによって権力分立の度合いも異なってくる。

こうなると、かなり多元的な連立方程式となってしまうだろう。
もちろん当時の僕に精密な論旨など構築しようがなかったし、今も出来ないし、そもそも多数決自体が刹那的で浅薄な気がして、だから議会がらみの論題には執着心が無くなってしまったのである。

なお、’多元性’の観念に妙な知的高揚を覚え始めたのも、このころではあった。


==============


そういえば。
このゼミにはびっくりするような名家の子弟もおり、彼らはなるほど俗世間離れした所業がやや目立ったりはしたが、それでいて、一介の平民にすぎない僕にオイだのよぉ元気かなどと気さくに話しかけてくるのには初めのうちはちょっと面食らった。
なぜ僕ごときに気さくに語り掛けてくるのかと挑発的に問いかけてみれば、それはおまえが気さくだからだよアハハハハと返された。
うーむこいつらはさすが人物だなあ、慶應の正統な内部進学者とはこういうものだ、世が世なら名君たりえたかもしれぬ、などと僕は感心したものである。

とともに、或る人間の’格’と’知性'は僕に対する接し方で知れるのかなあと、人生のヒントも得たような気がしている。


====================


ゼミ生とのかかわりについて、さらに書き足しておきたいことがある。
やはり名家の娘で、石原慎太郎だか裕次郎だかの筋ともやや親交がある由で、主要メディアにもちょくちょく出入りしているという ─ そんな同級生女子との話についてである。

或る旅行の帰路の特急電車の車中にて、彼女がノートに迷路を描きつつ、こんな話をしてくれた。
「どんな迷路でも、特定の入り口があり特定の出口も有る以上は、必ずなんらかの袋構造を成しているでしょう。だから、ひとたびその迷路に入口から進入した者は、ひたすら右の壁面あるいは左の壁面をずっとずっと辿っていけば必ず出口に至るのよ」
もちろん、これはパズル通にはよく知られた数学上のテクニックではある。
「それって、非ユークリッド幾何学ではどうなるのかな?」
鼻に引っ掛けるような口調で僕がそう問いかけると、彼女はクスクスと笑いながらもっと気取った口調になり、「あなたはどうなるのかしらね~」とこちらに向き直りつつ、ノートにぐーるぐると曲がった空間のイメージを…

それがどうしたと笑われるかもしれないが、要するにだ、理数系専攻ではなかった我々でもこんな程度の論考は幾つもいくつも嗜んだ次第であり、つまりそういうゼミ生活だったわけよ。
遠まわしではあるが、これらとて就職後に有益な’教養’とはなったのである。


 ======================


さてさて。
3年生の終り、春休みに差し掛かった頃。
僕は初めて海外への一人旅に出かけた。
旅行先はスコットランドとイングランド、それからフランス。
スコットランドは初めての国、そして新たなミステリーゾーンでもあり、さらに付言すれば高校時代の憧れの音楽教師が嫁いだ先でもあった。
一方で、イングランドは僕自身の出生地であるロンドンおよびマンチャスターである。


(つづく)

2024/12/15

ちょっとした自分史を (3)

(前回のつづき)

さて、甲賀流の秘術のうち僕なりに習い覚えた術は予知能力である。
もともと幼少期からそうなのだが、僕は対峙する相手の仕草をしばらく注視していると、一瞬先の挙動をなんとなく予知出来た。
このセンスが、ヨリ鋭敏に磨かれることになったのだった。

たとえばだ。
ケンカになりそうな時に相手がどんなふうに攻めてくるのかが分かり、まっすぐ突っ込んでくるパンチやタックルは(おっかないが)すんでに予知してかわすことが出来るようになった。
掴みにくるやつには掴ませてやりつつ、同時にそいつの胴に巧みに絡みつき、身体のほんのちょっとした挙動変化から次の動きを予知し、これを逆用してだだーんと浴びせ倒すのである。
でかいやつが相手でも、ひとたびそいつの胴に絡みつけば、だだーん。
尤も、背筋力もかなり強かったためこんな真似も出来たのであって、これは相撲でいうところの…いや、きりが無いのでもう書かない。

ことは体術には留まらない。
尖鋭化された我が予知能力は、さまざまな人間の発話をも予知できるようになっていた。
さまざまな人間の挙動のわずかな変化から、その人物が直後に何を話すのかが(概ね)分かるようになったのだ。
読心術とはまでは称せぬにせよ、これはちょっとした’千里眼’能力ではある。
男子はむろん、無秩序なはずの女子の言さえも予知できるようになっており、それどころか外国人のそれも概ね分かってしまうほどとなり、もしかしたら古今東西の’スパイ’たちはこの能力の卓越者ばかりだったのかななどと想像しては、そっと慄くのであった。

或いは、いわゆる’既視感(デジャヴ)が研ぎ澄まされただけかもしれぬ。
しかしこの既視感というセンスにせよ、一瞬ごとの時系列に応じて起こるのだから、予知能力であり千里眼もどきであることに変わりは無かろう。

こういった思案のうちに、僕はこの甲賀流の特殊能力の修練を止めたのであった。
なお、この能力は自衛官に向いているのか、警官に適したものなのか、あるいは、教師として活かせるものだろうか、などなど考えを巡らせたのもこの時節ではある。


==========================


さて。
日吉キャンパス時代には心身ともにさまざまな刺激や驚きを覚えること一方ならずではあったものの、いかんせん一般教養授業は退屈で溜まらなかった。
とくに、いわゆる経済学がらみのタームである。
「価値」とは何かについてザーッと講釈があり、一方では「権利」とは何かについてもザザーーっとと講釈がなされる。
しかしズガーンと一貫し完結した哲理が無い。
この分では三田キャンパスに進級後もたかが知れていよう、とたかを括っていたら、さらに「富」とは何かという高次元の謎かけが加わった。
かくて、「価値」と「権利」を「富」が通約しつつ或いは希釈しつつ、補完と互換の三つ巴、グルグル飛び回っての日本政治論や世界経済論…。
それで、どれもこれもをカネの多寡にすり替えて、やれ不平等だの不条理だのと空疎な批評ばっかし吐いてんの。
思い返せば、さまざま経済論に対してどうしても斜に構えてしまう我が心性はこの頃すでに起こっていたのであって、現在までずっと変わらない。


=======================


ゼミはいわゆる地域研究系に入った。
理論系は退屈そうだなあと見当をつけていたためである。
このゼミで、あらためて褒められたこと ─ 僕は輻輳した知識と命題のアブストラクト図式化がじつに巧いと
この僕なりのアブストラクトは、全体像の系であり、系におけるさまざまな階層エンティティであり、エンティティにおける集合であり、そこに収められた部分要素である。
日吉の英語強化クラスにて習い覚えたアブストラクト作成技法ではあるが、これが初めて創造的に活かされたのであった。
なんだそんなもの、ちっぽけな資料作成技法に過ぎないじゃないか、と笑われるかもしれぬ。
しかし僕自身にとってはこれはただの技法に留まることなく、我が思考センスそのものとしていよいよ定着してくる重大な素養であった。
とりわけ就職後にさまざまなエンジニアやプログラマーなどと交わるに至り、じつに有益な思考センスとなったのは、今思い返しても不思議なことではある。


(つづく)

2024/12/11

ちょっとした自分史を (2)

(前回の続き)

ところで。
慶雄は軽薄な連中が多いとの言質がいまも根強いようだが、これはどちらかといえば地方出身者に多い性向ではないかと察している。
たとえば、ぼくは〇〇製の自動車をお父さんに買ってもらった、とか、あたしは〇〇のカクテルについてはうるさいのよ、といった類の自慢話をそこいら中で吹いている連中がいる。
こういうのは真の塾生ではない。
なんぼ都会風を気取っていても、気取った眼鏡かけていても、偽物はニセモノだ。

真の塾生というものは、常日頃はこざっぱりとした体であり、食事は質素なおかずばかり、そして静謐な部屋で謙虚に勉強している連中なのである。
自動車ならばその内燃機関や電気制御などについて見識があり、カクテルやワインにしても成分から製法まで熟知しており、それでも自慢気に吹聴したりすることはなく、欲はあまり無くほとんど怒らず、ああ世界は深淵なのだなあといつも静かに笑っている、そういう清風のごとき青年紳士こそが真の塾生なのである。
そしてこういう塾生は内部進学者が多い
(内部進学者がこういう青年ばかりとは言ってませんよ。)

卒業してからあらためて気づいたが、慶應人こそはじつは日本の物質と精神のよいところだけを組み上げた(あるいは遺し続けた)、真の日本人の姿ではないかと察する。
むしろ早稲田の方が派手好きで、我欲が強く、いつもイラついて怒っており、ケンカになると群れやがって、まあ全国区としての発信力と集客力だけは認めたるが、どうもブレが大きく外れも多いんじゃないかな。

=======================


話は前後するが、慶應に入学後、英語の強化クラスに入ることになった。

もともと僕は入学試験では英語の出来が芳しくなかったし、自身の幼少期の育ちにもかかわらず言語勘が高い方はなかったのだが、まあ何らか奇縁のごときが働いたのであろう。
この英語強化クラスは、さまざまなイギリス人講師(アメリカ人もいたかな)による英語での授業が週に2回だか3回だか組まれていた。
さほど学術レベルの高い授業コンテンツは無かったものの、英語という言語の本質というか本性をあらためて知らされ、これは東芝就職後の思考センスの一助とはなった。

それつまり ─ 英語という言語は文法構造そのものが物理式や化学式にそっくりであるというところ(数学そのものには必ずしも似ていないものの)。
たとえば、全体があってこそ部分があり、それら部分の集積が全体を成し、これらがほぼ過不足なく完結しあっているというところであり、じっさい講師たちは雑ではあるがアブストラクトとマトリクスを略地図のごとく総括的にそしてシステマティックに描くことがじつに上手い。
だからこそ英語コミュニケーションにては理系センスと理系ヴォキャブラリが必須であるってことだ。
この由、他の記事にても何度も念押ししてきたことではある。


だが併せて認識出来たことがある。
英語世界は「実体」と「論理」のすり替えが上手い、というより、狡い。
或る自然物についての話題がいつの間にか産品や製品の論題にすり替わっており、さらにそれらが価値の論理にすり替わり、だからカネの論理にすり替わり、これらどこをとっても市場経済システムでございといったところである。
思いつきならまだ楽しめる思考操作ではあるが、上述したように英語の思念はあらゆる全体像と部分要素が強固に完結しあっているためか、彼らイギリス人やアメリカ人はこれら’次元’のすり替えについてほとんど疑念を抱かぬようである。
これまた、東芝入社後に思い知らされたことである(それも、いやっていうほどだ)。


ついでに記しておく。
この英語強化クラスにてあらためて気づかされたのだが、どうも女子はコミュニケーションそのものを楽しんでいるようなのである。
幼馴染のN子からしてそうだったが、だまーーーって考えることが女子にはどうにも耐えきれぬようである。
それでも授業中は一応は慎み深くふるまってはいるが、自身のプレゼンタイムになるとよく喋るわ喋るわ、もともとエピソード記憶型なのかなんだか知らんが、とにかく話が蜘蛛の巣のようにどんどん横展開してゆく。
こうなると、何が論点であり何が論旨であり結論なのか、もうアブストラクトもシステム思考もない。
しかも女子はなまじっか言語勘は高いためか、発音は綺麗だし単語表現は澱みないしで、だから英米人講師たちもどことなく楽しそうであり…

===================


さりとて。
僕自身、大学在学中にこれといって大きく飛躍させた才覚は無かった。
若干は乱暴な真似もしでかしたが、大した怪我をすることもなく、どちらかといえば漫然と日吉時代を過ごしていたことは否めない。

それでも、ちょっとした技量を習得することは出来た。
ひとつは、上に挙げた英語クラスをきっかけとした英米式のアブストラクト要約力であり、もうひとつは甲賀忍術の流れをくむ特殊能力である。


(つづく)

2024/12/08

ちょっとした自分史を (1)

※ なぜ自分が今のおのれ自身として出来上がったのか、あるいは捻じれてしまったのか、時おり分からなくなることがある。
だから、自分史をさらっと記してみたくなった。

=================================

僕は英国ロンドン郊外で生まれ、やがて小学校に上がる時分に家族ともども東京都立川市に越してきた。
以降ずっと日本で生活している。
中学生の時分までは引っ込み思案の性格であり、だから僕の出来上がりの基本もきっと引っ込み思案なのであろう、そして今も慎みやかな性格は変わらねぇんだ、おらっ。

===============================


尤も、高校部に進学後は、若干ながら頭を働かせることを覚えた。
我が高校ときたら、説明しがたいほど ─ つまり信じがたいほど見目麗しき美人教師たちの混成部隊、それも天才肌から超人タイプまでさまざま美人が目白押し…さらに教育実習生も舞台女優のように颯爽とした若年美人が入れ替わり立ち替わりであり、こんなだから都内どころか近隣県にまで美名を轟かすほど。
そんな彼女たちが慄然と進めていく毎週毎日の授業の数々、そのどれもこれもが、僕たち子ども頭から察してみてもかなり知的水準の高いもの。
よって、彼女たちに好いてもらおうと、あわよくば心に留め置いて頂こうと、少なくとも嫌われまいと、僕ら生徒たちはそこそこ頑張ったのであった。


美人といえば、忘れられずまた避けて通ることも出来なかった一人の女子がいる。
本ブログにても再三再四ふれてきたとおり、幼少期から高校時代まで通しての女友達、実名は隠すがN子である。
N子と僕とは母親の代からの旧知の知人であり、しかも彼女の家はなかなかの名家でもあったので、N子自身の学識もなかなかのもの。
そしてこれも何度も記してきたとおり、N子は大抵のスポーツからピアノ演奏までさまざま記録を刻むほどの卓絶したスーパーガールであり、褒め言葉ついでに付言しておけばバンビやピーターパンの絵本から跳び出でてきたかのようなスマートな長身美少女でもあった。

「下手な文芸小説を読むよりも、くだらない予備校に紛れ込むよりも、あたしと話す方がずっと賢くなれるのよ ─ 聞いているの?おバカさん」
ほとんど毎日の学校生活から登下校まで通じて、N子にはこんなふうにしばしばあしらわれたもの。
周囲からはいろいろ冷やかされつつも、なるほど僕自身たしかに知力が向上し、知識量から文脈理解力まで数段にわたって進歩したことは否めないし、それどころか今でも感謝している。
おまけに体格も大きくなり、さまざまスポーツも得意になったが、これらは我ながら意外なほど。

===============================

こうして美人教師やN子についてさらりと述べ記したのには、僕なりにこだわりが有る。

実は僕は高校生くらいから、あらゆるものにおける『実体』と『論理』の整合と不整合についてぼやーっと考えに耽ることが多くなっていた。
そして僕自身は、『実体』と『論理』はしばしば不整合が多く、だから宇宙や地球の物質の多寡は比例しうるものの、それらと物価変動は直結しないのであり、だからこそカネと多数決とインチキとデタラメが横行してやがるんだ…などと考えてしまうのだった。

ところがである。
どうも女性たちは本能的に『実体』と『論理』を一体の整合として呼応させているようであり、だから(物理で言うところの)仕事と運動は同じ、(経済に言うところの)モノとカネも同じ、そして正義と多数決も同じであろうと、こんなふうに信じているようなのである。
大人の女性教師たちでさえこうなのだから、ましてや同年齢のN子ともなるとなおさらであった。

============================

ともあれ、僕は大学入試にてもさほどの苦難を覚えることはなく、慶應や早稲田の一般選抜入試にあっさり合格してしまった。
慶應は正直なところ英語の出来が悪かった気がするのだが、もともと論説課題は得意であり、某大手予備校の全国模試ですっごい上位成績を叩き出したほどで ─ まぁそのくらいの知的活力は有った、もちろん今はもっともっと有るんだ、おらおらっ。

もしも数学と相性が良ければ一橋あたりに…
そもそも集合や証明問題や確率関係ならば、僕だってそこらの理系よりは出来が良かったのだが、整数論などなどのように思考上のディレクトリ構造も入口と出口も判然としない範疇となると、どうにもこうにも出来が悪かった。
要するに、数学の縦横無尽な思考操作についていけなかったのであり、だからって数学を憎むほどではないものの、総じて相性が悪いのは否めまい。
もしも、今現在いうところの情報分野を大学入試にて選択していたら、僕はどのくらい得点出来ただろう…?

=========================


慶應に入学後、しばらく思案したこと。
いったい僕自身は、「実体」と「論理」を峻別しきっているのだろうか?
この論題は「俗世間に言われる’仕事’とはなにか」に突き当たるだろう。
’仕事’とは、物理であろうか、それともカネまわし(価値操作)であろうか?
こんなこと大学で学べるのかなと訝ってはいたし、だいいち吉キャンパスのいわゆる一般教養科目では学ぶべくもない。

それでも、何か’仕事らしきこと’をしてみよう、真似事でいいから体験してみようと思い立ったのだった。
それで(我ながら意外なことに)平日の早朝5時~8時まで、某大手乳製品企業の集荷工場にて倉庫内作業のアルバイトに就いたのである。
朧気ながら覚えているかぎりでは、夏休み直前までほぼ毎日、この早朝アルバイトを続けていた。
それから自転車で立川駅まで出て、日吉キャンパスの授業へと。

この集荷工場の作業は、けして身体負荷がキツかったわけではないし、僕自身も実は身体労働は嫌いでもない。
しかし、あのヨーグルトのケースをまとめてこっちへ持って来いだの、このテトラポットをとっととそっちへ片づけろだのと、一方的に指示を受け続けているうちに僕はとうとう爆発したのである。
なんだこんな仕事、自分自身の意思決定はなーんにもないじゃないか、ロボットにやらせりゃいいじゃないか、ロボットがロボットを監視し命令し、ロボットがロボットとケンカしてりゃいいんだ、ロボットが作ったヨーグルトをロボットが飲んで食って寝てりゃいいんだ、俺はロボットじゃねぇぞ、たとえ時給を倍に上げられたって言いなりにはならないぞ…などと積もり積もった挙句の爆発であった。
なんのことはない ─ 僕自身は’仕事’の「実体」と「論理」を強引に峻別図っていたのだった。

ああ、そうだ ─ あの朝のことだ、ほんのちょっとだけ遅刻してしまい、事務所の課長と怒鳴り合ったのだった。
それで僕はロッカーをブン殴ると、ふてくされたまま現場に出て、器材を足で転がしまた放り投げ、それで年長社員たちを巻き込んでのケンカ騒動へ。
石油臭の入り混じったような強烈な空冷世界、キキーッと停まったフォークリフト、残酷に照らしつける蒼色の蛍光灯、もっと残酷にギラつく灰色のヘルメット、それらの合間からギッと睨みつけてくる真っ黒な視線の数々、テメェだのオンダリャァだのの怒号飛び交う哀しい現場。

このとき諍いを収めてくれたのが年長の男性社員である。
「おい学生くんよ、あんたはバイトだから適当な心づもりだろうっけども、ここの社員はみんな生活かけて朝から晩まで仕事してんだぁ、そしてよ、あんたも俺らもよ、同じ現場で同じ商品扱ってんだぁ、これらの商品を待っててくれるお客様もたーっくさんいるんだぁ、だっからよぉ、もっと仕事に敬意払ってくれや」
この言はいわば女性的な真理であった、「実体」」も「論理」も混然した世界のエッセンスそのものだった、そう僕には聞こえたのだった。
とっさに僕は、この集荷現場からトラックに積み込まれてゆく牛乳やヨーグルトが近郊の高校や中学校の子供たちの元へ届けられてゆくさまを想像していた。
そして、言いようの無いほどのぶざまな自己嫌悪に苛まれたのである。

この朝を最後に、僕はこの工場バイトをクビになったのだった。

一方で、初夏の日吉キャンパスは青空に映え、奇妙なほど真っ白に輝いて見えた。


(つづく)

2024/11/30

目覚め



「先生こんにちは。あたしですよ。今日はどのようなお話ですか?楽しいお話でしょうか、それとも…」
「ふふん。楽しい話ではないよ。いいかね。つい先ごろのこと、僕が執務室を空けている合間に何者かが室内に侵入して、或る本を読んだおそれがあるんだ」
「へーーー?どんなご本ですか?」
「これだ、いまここにある、この本だよ。これは恐ろしい本なのだ」
「どういうことですか?」
「この本はね、にわかには信じがたいかもしれないが、宇宙のあらゆる物質と存在量が誰にも確定できないと、そう語っている本なのだ」
「へーーー。それがどうして恐ろしい本なのですか?」
「いいかね。宇宙のあらゆる物質存在量が確定できない一方で、人間はさまざまなモノの価値を好き勝手に設定し続けている。つまり、宇宙の物質量と人間世界の価値は比例も呼応もしていない。ざーっと言えばそういうことになる」
「ははーーん?」
「したがって、人間世界の市場取引も所有権も物質上の根拠は無く、あくまでも人間オンリーの便宜とスリルにすぎないってことが、この本によって分かってしまうことになる。だから恐ろしい本だと言っている」
「ふーーーーん。それで、その恐るべき本と、このあたしと、どう関係があると仰るのですか?」
「うむ、そこを質したかったんだ。ねえ君、この本をこっそり読まなかったか?」
「いいえ。読みません」
「なあ、本当のことを言ってくれよ。僕が不在の合間に執務室に忍び込んで、この本を読まなかったか?もしも読んでいたとすると一大事なんだよ。この本は未成年には読ませてはならぬものだからね」
「へぇ?どうして未成年は読んではいけないのですか?」
「どうしてって…あのね、事の重大さは経済や法律どころではないんだ。もっと遥かに巨大なものについての解釈もガラガラっと崩れてしまうんだよ」
「へえーーーっ、例えばどんなものが…」
「地球や太陽系のサイズ、銀河の本当のスケールなどなどだ。我々人類はほとんど何も知らなかったんだよ」
「ほほぅーーーー。なーるほど。でも先生、あたしはそんな本読んでいませんよ」
「本当に読んでないんだな?」
「読んでませんってばぁ……ねえ先生、お話はそれだけですか?」
「うむ、まあな。読んでないのならそれでいい。ともかくこの恐るべき本はもっと厳重に管理することにしよう。さあ、君はもう帰っていいぞ」
「はい、それじゃあ失礼します …… あっ、ところで先生、ほら、窓の外をちょっと覗いて見て下さいよ。星がすっごくたくさん!」
「…なんだと…?」
「まだ夕暮れ時なのに、あんなにたくさんの星が、うわぁ、昨日まで気づかなかったのですが、あらためて見やれば、うわぁーーー、すっごくたくさん瞬いています!これが本当の星空だったんですね!」
「……」
「あたし、なんだか心の目が開かれた思いです!あっちにも、こっちにも、色とりどりのお星さまがいっぱい。だからさまざまな星座群も!ああ、これらがさまざまな神話を生み出してきたんですね!そしてこれからもっともっと多くの……」



(おわり)

2024/11/17

【読書メモ】組み合わせゲーム理論の世界

もともと僕は数学が苦手であり、その業際的な転用性(ずるさ)が本性的に嫌いでもあるが、だからって憎むほどではなく、それで時おりふふふんと数学本にも手が伸びるもの。
数学ってったってもちろん色々あって、たとえば物理量の数学、精度の数学、情報と確度の数学、会計勘定の数学や金貸しの数学などなど、功もあれば罪もある。
そして今回紹介する一冊は、数学の純然たる論理性について新たなセンスを触発させてくれるもの。
『組合せゲーム理論の世界 安福智明・坂井公・末續鴻輝 共立出版

とりあえず本書の導入箇所に目を通してみれば ─
本書でいう「ゲーム」は、例えば石取り合戦のように、お互いに’着手’を成しつつ一定量の整数個のモノを奪い合い(消し去り合い)、双方攻防の過程で'局面'を転々と変えてゆきつつ、どちらかのプレーヤーが’着手’不能となるまで続ける競技。
この「ゲーム」にて起こりうる膨大な'局面'変化と勝敗確定、それらの数学命題化と証明、そして端的な実証例…これらが(おそらくは)本書の主題であり、さまざまな論題のヴァリエーションと複合化を通じた基本構成でもあろう。
じっさい、サブタイトルには「数学で解き明かす必勝法」と冠されている。

さらに、数学素人の僕なりにちらっと想像膨らませてみれば、このゲーム必勝数学の応用ルールセットは石取りやオセロなどに留まることなく、もっと複雑な局面コンビネーションのコンュータゲームなども大いに含むのではないかと察する。

ともあれ、本書導入箇所のほんの一端のみを僕なりに了察した上で、此度の読書メモとして以下に略記する。




本書導入箇所からおこる「組み合わせゲーム」とは、以下の前提を最低要件とするルールセット(競技)の中核的モデルである;
・サイコロなどの偶然の要素を含まず、確定性に則って競い合うルールセット
・各プレーヤーの’着手’がお互いに開示され、完全情報性が保証されているルールセット

この「ゲーム」の導入的なとっかかり定義づけとして;
(G1) とりあえずプレーヤーを2人として、交互に'着手’するか、あるいは放棄(パス)する
(G2) '着手'の機会を永遠に失ったプレーヤーが負けの、正規形ゲームである
(G3) ’着手’による’手数’の総計は有限回数である
(G4) 各'局面ごとの'着手'は有限個である

なお、'手数’は有限回数とはいえ、各’局面’ごとの’着手’も有限個に留まるとは限らない(超限ゲームたりうる)。
或る’局面’から有限の’手数'を辿って到達可能な新’局面’を、もとの局面の’後続局面’とみなす。
トータルの’手数’をそれらの集合とみなし、その集合の要嘘数は終了局面で1とし、そこに至らぬ局面での要素数は1より小さいとする。

これで、必ず勝敗が片付くショートゲームたりうる。
しかし、延々とループする千日手ゲームもありうるとする。

以上の基本定理が成り立つならば、任意の局面にて「一方のプレーヤーのみが必勝戦略」を有しうる。
しかしながら、どちらのプレーヤーが「必勝戦略」に在るのかをひとつひとつの’着手ごとに検証してゆくことはおそろしく困難。
’着手’が少ない(あっという間に片付く)単純ゲームならばまだしも、じっさいのルールセットにおける「ゲーム」はおのおのプレーヤーの’着手’の数がどんどん増えてゆきうるので、それら組み合わせによる’局面’の数も爆発的に増えてゆくことになる。

そこで発揮されうる超協力な数学が、『組合せゲーム理論』である。
さまざまなゲーム’局面’のうちに統一的つまり数学的な構造を見出し、代数の数学に則って「必勝戦略」とそのプレーヤ―を特定可能。


=================================


「必勝戦略」検証の上での単純で端的なゲームとして、「不偏ゲーム」がある。
そもそも不偏ゲームの基本前提として;

或る局面の直前まで’手番’を有していた’後手’プレーヤー’が「必勝戦略」を有する局面をP局面とする。
一方で、これから’手番’を為す’先手’プレーヤーが「必勝戦略」を有する局面をN局面とする。
だから、不偏ゲームにては終了局面は必ずP局面となる(後手が勝ったことになる)。
しかし、或る局面がたった1手でP局面に遷移するならば、この局面はN局面である(だから先手が勝ったことになる。

さらに ─
この不偏ゲームにてありうる全’局面’の全体集合をLとする。
うち、ありうる終了’局面’の集合をTとする。
(上の定義に則った)さまざまなP局面の集合を集合Pとしし、またさまざまなN局面の集合を集合Nとする。
全体集合Lを 集合N集合P に分割、L=N∪P とする。


以上から成り立つ、不偏ゲームの命題:
① 集合T ⊂ 集合P である。
或る局面Gがあり、そこから1手で遷移しうる局面をG´として ─、
② G∈NならばG´∈PとなるG´は存在する
③ G∈PならばG´∈PとなるG´は存在しない。


この命題の証明。
まず、与えられた或る局面が終了局面のとき、この局面は①から集合Pに属しており、かつ正規形ゲームなので、この局面は必ずP局面となる。
一方、与えられた或る局面が集合Nに属しているとき、この局面は②から1手でP局面に移動できるので、数学的帰納法からこの局面は必ずN局面である。
また、与えられた或る局面が集合Pに属しつつも、終了局面ではないとき、③から1手先の局面はすべてN局面となり、だからこの局面は必ずP局面となる。


===================================


かかる不偏ゲームのうち最も分かりやすいもののひとつが、ニム(NIM)である。
端的な例が「石取りゲーム」など。

原型は以下。
幾つかの有限個の石を集めて’、幾つかの山’を作る。
とりあえずプレーヤーを2人とし、交互に1つの’山’から好きなだけ石を取る(’着手’する)。
石が1つも無くなった局面を終了局面とし、(上で記したように)これはP局面である。
’山’が1つだけになった局面は、ここに残った石をすべて先手が取り去ってゲーム終了局面と出来、だから(上で記したように)これはN局面


これを数学命題にすると ─
'山'が1つのニムの局面 (m1)  では  m1=0 のときP局面、そうでなければN局面
'山'が2つのニムの局面 (m1, m2) では、m1=m2 のときP局面、そうでなければN局面


これらの命題を証明(前者命題は後者命題に含まれるので、後者のみ証明)。
2つの’山'における石の’偶数和’について数学的帰納法で証明する。

まず m1+m2=0 のとき(すなわち m1=m2-0 のとき)明らかに終了局面、よってP局面である。

さらに、
m1+m2 = k >0 のときにこれら命題の主張が成立すると仮定。

ここで m1+m2 = k+1 の場合。
局面(m1, m2) は着手によって (m´1, m2) あるいは (m1, m´2) に変わり、ここでは(m´1, m2)に変わるとする。
(なお m´1<m1 また m´2<m2

m1=m2 の場合。
1< m2 でありまた m´1+ m2 ≦ k であるので、数学的帰納法によって一手先の局面はすべてN局面といえる。
したがい、(m1, m2) はP局面である。

m1≠m2 かつ m1<m2 の場合。
(m1, m2) からは着手によって (m1, m1) に変わる。
m1+m1 < m1+m2 = k+1 であるから  (m1, m1) はP局面であり、一手先がP局面となるのだから数学的帰納法から (m1, m2)はN局面である。


ここまでが’山’2つの場合に限ったニムの命題と証明。
だが、’山’が3つ以上あると石の数もまた着手もヴァリエーションがぐっと増え、だから局面変化の数も増えてしまう。
そこで今度は、石のあらゆる数を2進数に置き換えた上で排他的論理和として表現する「ニム和」を導入し、さまざまなニム和が0となれば必要かつ十分にP局面であることを示し…

====================================


以上、あくまでもほんの導入箇所のみをざっと掻い摘んでみた。
プレーヤーの’着手’ごとにもたらされる’局面’変化と勝敗判定について、ほんの導入編の一端に過ぎぬが、それでもこれだけの数学技法がある
本書のコンテンツはさらに整数集合論の活用なども併せ含め、ヴァリエーション図案も数式も高次に複雑になり、さまざまパズルやコラムも交えつつ200頁以上にわたって展開してゆく。
数学に(数学思考に)自信のある社会人さらに大学生や高校生に是非チャレンジ薦めたい’新しさ’がここにある ─ とはいえ僕にはすべての捕捉は出来そうにもないので、また気が向いたらちょっとずつ読み進めてゆくつもりだ。

おわりだ

2024/11/09

【読書メモ】化学と歴史のネタ帳

 化学と歴史のネタ帳  Ⅰ. 酸とアルカリ  遠藤瑞己 文彩堂出版』

本書は巻頭箇所にも案内のとおり概ね高校化学の範疇に則りつつ、化学イノベーションと協調あるいは拮抗してきた政治/軍事の諸事情をも併せ綴ったもの
化学選択の高校生~大学生などなどがヨリ学際的な着眼を鍛えてゆく上で、恰好のガイダンスたりえよう。

そもそも自然科学は文字通り’自然物’の状態や運動の探究が本性ではあり、中でも物理学は’人工性’(つまり数学上の再現性)との同期に絞り込んだ科学といえよう。
一方で、もっと’人工的’な操作性に準じつつも、もっと’拡張的’な創意から実践までもたらしてきた物質科学こそが「化学」である。
化学のスリリングな創造性と拡張性はズバぬけている ─ 或るインプットが或るアウトプットを生み出しつつ、そこでのデリバティヴを別の反応系にインプットすれば新たなプロセスが進行し…と、さまざまマテリアルがパズルのごとく入りつ解れつである。
よって、化学の活かし方によっては次々と産業を興し、市場を拡大しうるだろう、となれえば、デフレだろうがスタグフレーションだろうがなんぼでも克服可能ではないか。

…僕なりの所感をひっくるめて言えばざっと上述のとおりとなる。

なお予め注記しおくが、本書にては実践上の環境要件や物理量にかかる描写は控え目に留められてはいる。
よって、今回の【読書メモ】にても、あくまで総論的な化学反応式まわりを僕なりに引っ括って、以下にさらっと要約するに留め置いた。
範囲は「第1部(アルカリ)」である。





18世紀以来、石鹸やガラスの製造原料として炭酸ナトリウム(Na2CO3)が大量に求められた。
海草類や樹木灰など植物性アルカリも器用されてはいたが、これでは需要に間に合わず、そこで'人工的'にアルカリを合成するため、硫酸ナトリウム(Na2SO4)から炭酸ナトリウム(Na2CO3)が得られるようになる。
Na2SO4 + 2C → Na2S + 2CO2
Na2S+ 2CH3COOH → 2CH3COONa + H2S
2CH3COONa → Na2CO3 + (CH3)2CO

また、硫酸ナトリウムと石灰(Ca(OH)2) から、水酸化ナトリウム(NaOH)を作る方法も確立された。
Ns2SO4 + Ca(OH)2 → CaSO4 + 2NaOH


なお、火薬の原料としては、炭酸カリウム(K2CO3)を使って硝石(KNO3)を製造し、これをもとに硫酸(H2SO4)が合成されてきた
しかしアメリカ独立戦争~フランス対外戦争の時期になると、炭酸カリウムがヨーロッパに入ってこなくなった。


硫酸ナトリウムを活かしつつ、炭酸ナトリウムの品質安定と大量生産のためヨーロッパ側で開発されたのが「ルブラン法」。
2NaCl + H2SO4Na2SO4 + 2HCl
このNa2SO4 と炭から 硫化ナトリウム(Na2S)ができる
Na2SO4 + 2C → Na2S + 2CO2
さらに石灰石CaCO3を反応させて
Na2S + CaCO3Na2CO3 + CaS

尤も、こうして大量生産用に開発された炭酸ナトリウムも、ナポレオンによる「塩税」政策によりしばらくはローkカルビジネスに過ぎなかったが、1825年以降にはヨーロッパで拡大生産と販売へ。
炭酸ナトリウムによるソーダ産業の勃興は、ヨーロッパの基本的な産業技術を革新させ、、反射炉から回転炉への転換、耐火材の開発などは製鉄業にも応用されていった。


炭酸ナトリウムと石灰水を反応させると水酸化ナトリウム(NaOH)に変化する。
Na2CO3 + Ca(OH)2 → 2NaOH + CaCO3
さらに未反応の硫化ナトリウム(Na2S)に硝酸ナトリウム(NaNO3)を加え、これを加熱すると、硫酸ナトリウムなどに変わりつつこのNa2Sが分離される。
ここに亜鉛ZnOを加えればNa2Sをもっと分離出来、かくて水酸化ナトリウム(NaOH)の純度が高まる。

=======================


炭酸ナトリウムの製造方法としては「アンモニアソーダ」法もある。
NH3と水と二酸化炭素を反応させて、炭酸水素アンモニウム(NH4HCO3)を作り、これを食塩水(NaCl)と反応させてNaHCO3を生成させ、これを加熱すれば炭酸ナトリウムとなる。

さらにここで、炭酸ナトリウムと炭酸水素アンモニウム(NH4HCO3)を反応させれば、炭酸水素ナトリウム(NaHCO3)が生成される。
これに、純度高い塩化ナトリウム(NaCl)とアンモニア(NH3)と二酸化炭素を投入すれば、塩化アンモニウム(NH4Cl)も出来る。 
この生成方式が「ソルベー法」。
塩化アンモニウムは肥料として活かされるようになった。
NaCl + H2O + NH3 + CO2  →  NH4Cl + NaHCO3
2NaHCO3 → Na2CO3 + H2O + CO2

一方では、炭酸ナトリウムと鉄(Fe2O3)を組み合わせて水酸化ナトリウム(NaOH)を生成する方法も確立された。

ソルベー法は20世紀初めにはアメリカ含め全世界に普及していった。

================================


19世紀末の発電機の発明や人工炭素電極の実用化によって、大スケールの電気分解の工業化が始まった。
その端的な例が塩素ガス(Cl2)の製造であり、ここで開発された製造方法が「電解ソーダ法」。
陽極のCl2と陰極のH2およびNaOHによる反応。
2NaOH + CO2  → NasCO3 + H2O
この電気分解では水素ガス(H2)も同時に大量生成が出来、こちらは気球や飛行船に投入された。

ここで次亜塩素酸ナトリウム(NaClO)などを生じないよう、隔膜を以て分離させる。

「電解ソーダ法」として普及したのが「水銀法」。
塩素(Cl)とナトリウムの電気分解にて、NaOHとCl2を反応させないように、陰極側ではナトリウムと水銀のアマルガム(Na-Hg)を生成する。
全反応としては、2NaCl + 2Hg  →  2(Na-Hg) + Cl2
さらにこのアマルガムに水を加えると、
2(Na-Hg) + 2H2O  →  2NOH + H2 + 2Hg
こうして水酸化ナトリウム(NaOH)をきれいに分離抽出が出来る。

※ 尤も、この「水銀法」は有機水銀による公害ももたらしたため、電界ソーダ法としては「イオン交換膜法」に切り替えられていった。

=============================


そもそも窒素は植物の重要な栄養源かつ肥料であり、ヨーロッパ農業では南米チリからの硝石(NaNO3)に多く拠っていた。
またこれに塩化カリウム(KCL)を反応させ、黒色火薬の硝酸カリウム(KNO3)も合成されていた。
NaNO3 + KCL → KNO3 + NaCl
さらに、硝酸(HNO3)も製造でき、これがTNTやニトログリセリンへ。
2NaNO3 + H2SO4  → 2HNO3 + Na2SO4
電気化学の発展によりアーク放電(電弧法)が活かされると、この硝酸製造が大規模化可能となった。

この硝酸と石灰石を反応させれば硝酸カルシウムが出来る。
2HNO3 + CaCO3 →  Ca(NO3) + CO2 + H2O


19世紀末、アンモニア生成の「石灰窒素法」。
電気炉内で合成されたカルシウムカーバイド(CaC2)と窒素ガスからアンモニア(NH3)を合成する。
CaO + 3C → CaC2 + CO
CaC2 + N2 → CaCO3 + 2NH3
なお、この途中で生産される石灰窒素(CaCN)は肥料としても大いに使われるようになる。

1902年、アンモニア(NH3)から硝酸(HNO3)を製造する「オストワルト」法。
4NH3 + 5O2 → 4NO + 6H2O
2NO + O2  → 2NO2
3NO2 + H2O → 2HNO3 + NO

1913年、窒素ガス(N2)と水素ガス(H2)の直接的な合成によってアンモニア(NH3)製造する「ハーバー・ボッシュ」法。
N2 + 3H2  → 2NH3


========================


1914年、第一次大戦。
ドイツによるフランス侵攻作戦'シュリーフェンプラン'は'マルヌ会戦'で頓挫し、ここからドイツは消耗戦へ。
弾丸や魚雷や砲弾のため大量の窒素化合物が必要となるが、ここまで頼りにしてきたチリの硝石が輸入不可能となった。
そこでドイツは「石灰窒素法」に大注目したが、ここまでは低品質の褐炭が大量に投入されていたため加熱効率が悪く、だから石灰窒素法による窒素化合物の大量生産も困難であった。

しかし「ハーバー・ボッシュ」法によるアンモニア製造ならば、プロセスが省力的であり、このアンモニア(NH3)が硝酸(HNO3)と硝酸アンモニウム(NH4NO3)になった。
NH3 + 2O2  → HNO3 + H2O
NH3 + HNO3 → NH4NO3

一方で、「オストワルト法」は鉄をベースとした触媒の発見後に硝酸製造の効率が高まった。

こうしてドイツの硝酸アンモニウム製造能力は大きく増大し、軍事力も農業も支えることが可能となったはずだが、しかしドイツは戦局挽回することなく第一次大戦は終わってしまった。

========================


ここまでの「ハーバー・ボッシュ」法は約20MPaの低圧下におけるアンモニア生成であったため、高温でアンモニアが分解しやすく、これを防ぐためにわざわざアンモニアを液化しなおしてから抽出せざるをえなかった。

フランスのクロードは第一次大戦の終戦直前に約100MPaの高圧化にて500℃でのアンモニア合成に成功しており、これはほとんどの窒素と水素を反応させる高効率の方式である。
また、農地を確保しづらいイタリアでも合成窒素が大いに求められ、このため第一次大戦終了に前後して高効率のアンモニア合成が模索されており、カザレーが鉄くず触媒を用いつつ80MPaの高圧下でのアンモニア合成に成功。


1920年代以降、世界的な化学工業の成長に伴い、ヨリ効率的になった「ハーバー・ボッシュ」法によるアンモニア合成が進んだが、このため水素ガスの需要も増大した。
そこで、たとえばイタリアでは地形の高低差による水力発電とその設備が、アンモニア合成および水素ガスの大量生産に大いに活かされることになり、これが「ファウザー」方式。

KOH水溶液の電気分解による水素ガス製造
2H2O + 2e- → H2 + 2OH+
アンモニアガスへの硝酸噴霧による硝酸アンモニウム製造
2NH3 + H2SO4 →  (NH4)2SO4

高圧下では…
4NH3 + 5O2  →  4NO + 6H2O
2NO + O2  →  2NO2
2NO2  → N2O4
2N2O4 + O2 + 2H2O  →  4HNO3


=====================================

以上が、「第1章(アルカリ)」についての僕なりの超大雑把な要約である。
本章はさらに、カリウムや塩素ほか1940年代以降のプラスティック需要増大などにもふれつつ、学際的な論説が続く。

化学選択の高校生や化学分野専攻の大学生諸君にとって、本書は化学の本性的なダイナミズムはむろん、学際的な着想をも大いに拡大し得る一冊であろう。
同じ理由から、とくに「第3章(酸と塩基)」におけるアレニウスの定義などなども是非一読をチャレンジして欲しい。


おわり

2024/10/13

【読書メモ】活かすゲーム理論

経済学や政治学を’量的に’理論立てて表現するための数理として、ゲーム理論がしばしば用いられるようだ。
しかしながら、僕自身はゲーム理論についてどうも疑義を払拭しきれずにいる。


そもそもだ。
人間のさまざまな意思はあくまでもアナログ量の連続変化にあり、それら連続変化の過程においてこそ意思決定も変遷してゆくはずであろう。
一方で、ゲーム理論はその理論フォーマットにて ─ たとえば最も基本的な囚人のジレンマ~ナッシュ均衡などにても ─ さまざまプレイヤーの’利得/価値’を局面局面ごとにデジタルに整数表現している。
そして、これらによって意思決定の確率も最適化も均衡や収束も(一応は)公正かつ定量的に表現しきっているようではある。
なるほどこうして捉えてみれば、ゲーム理論はデジタルな数学手法としてはよく出来た思考系ではあり、しかもソリッドにまとまってはいるようには映る。


だからこそ、僕は却って疑念を覚えてしまう

・数学は確かにあらゆる概念の定量化における最強ツールとはいえよう、しかしだ、思考対象の客観性も公正性も保証してはいないのでは?

・互いの戦略について意思疎通をせぬままに進行してゆくさまざまな「同時手番ゲーム」において、互いの’利得’の整数値をいったい誰が設定し誰が付与しうるのか?

・あるいは、おのおのプレーヤーがお互いの戦略を開示しあった上での「逐次手番ゲーム」ならば、'利得’もしぜんに共通の整数表現に単純合意されてゆくものだろうか?

・ここに公正中立の第三者が神のごとくおわしますならば、彼こそがおのおのプレイヤーに利得を差配することでプレイヤー同士は丸く収まる ─ かもしれぬが、そうであるならばゲーム理論そのものが無用ではないか??

・神とまでは言わぬにせよ、それぞれゲームにおける’利得’≒価値の整数化の発想は、もともとバランスシートやROEなどの公正かつ定量的な記載方式から導かれ、ここからプレーヤー間の戦略意思を公正かつ定量的に単純化させてきたのではないか?

・あるいはもっと純朴に、チェスのようなテーブルゲームにおける盤目と駒の配置、それら攻守の’利得上の有利不利’の裁定などが、公正な定量化のヒント足りえたのでは…?


…以上につき、なんとか理知的なけじめをつけてみたいものだと考え、そこでこの一冊を見出したので此度ここに紹介しおく。
『活かすゲーム理論 浅古泰史・図斎大・森谷分利 著 有斐閣y-knot

本書の第1章~第3章および第5章前段あたりまでにて、段階的に解き明かされるゲーム理論の本質は、ざっと総括すれば以下のとおりとなろう:

<a>「同時手番のゲーム」ではあっても、例えばサッカーゲームなどのスポーツ競技にては統一ルール化での得点がデジタルに整数表現されており、これら得点をゲーム理論における’利得’と同一視可能。

<b> やはり「同時手番ゲーム」ではあっても、同一市場での公開的な商取引にては商材やサービスの通貨換算上の価格がやはりデジタルな整数表現にあり、これらをおのおのの’利得’と同一視可能である。

<c> 国家間における要求~制裁の意思決定プロセス、さらにはさまざま事業上のアウトソーシングのプロセスなどなどにおいては、おのおの利害当事者が調整局面ごとに’利得’を開示した上での「逐次手番」型の駆け引きとなるので、おのおのの’利得’を共通の通貨換算上の整数としてデジタルに表現されるのがあたりまえ。
さらにこれらを時系列ごとの意思決定の変遷として分析も数学的帰納法分析も可能。

<d>  とりわけ’実践的’なアプリケーションと考察は、本書の第4章『進化動学』およびから始まる。
ここいらでは、さまざまな’戦略上の選択肢’に応じる意思決定選択者たちの人数分布度合いが戦略ごとに動的に均衡し収束してゆくさまを、「最適反応動学」によって分析していく。
この最適反応動学により、意思決定者たちおのおのが定常状態から最大’利得’の獲得状態にいたる(あるいは獲得しえない)までの、クリティカルマスとプロセスを分析可能
ここには経済学でいう’外部性’やピグー税も鑑みた考察が含まれうる。

<e>  第5章『信じられる脅し』にては、逐次手番ゲームにおけるおのおのプレーヤーたちの、さまざまな意思決定段階における’利得’判断の整数値を、根と枝のツリー構造にて「ゲームの木」として数学表現する技法を紹介。
ここで、おのおのプレーヤーによるひとつひとつの意思決定段階の’利得’判断を「部分ゲーム」と称し、これら「部分ゲーム」が’時系列’によって「完全均衡」に収束してゆくさまを確認可能。
さらにこの「完全均衡」の状態をもとに、いわゆる数学的帰納法によって’時系列’と真逆にゲームの木を遡っていけば、それぞれ「部分ゲーム」ごとのおのおのプレーヤーの’利得’判断も分析しうる。



…如何であろうか?
あくまで僕なりに本書前半あたりまでをざーーっと了解の上で要諦をまとめ、僕自身の所感も大いに交えつつ書きおきたつもり。
これでも、社会人の皆さまや学生諸君には本書コンテンツや思考難度への大雑把な案内とはなったのではなかろうか。
もちろん僕自身としては最初に掲げた根本的な疑念がクリアに払拭されたわけではないが、ともかくこのゲーム理論分野のゲーム性(そして数学性)についてはあらかた見当がついてきた。

本書はさらに、’利得’分析と意思決定と戦略についてわんさかと論旨が進んでゆくが、とりわけ最終章『活かすゲーム理論のススメ』は文系の皆さんには是非とも挑んで欲しいところ。
ではこのへんで。


==================


なお、本書に挑む社会人や学生諸君にはあらかじめ注意喚起しおきたい。

まず、本書はさまざまなゲーム理論を数学的かつ段階的に解き明かしてはいるが、それぞれのゲーム事例におけるプレイヤーの戦略や意思決定がしばしば実況中継的に描写されているため、総じて文面が長めである。
かつまた、章立てによっては文面にて否定文の挿入が目立ち、これは文章の論理上のストレスを和らげる効果を狙ったものかもしれぬが、読者としては却って全体否定か部分否定かをいちいち斟酌してゆくことにもなる。

数学勘のはたらく読者ならば文面に拘らずに大意を捕捉し得ようが、しかし経済学や政治学の理解一助として文面を追うのであれば相応以上の忍耐は必要。



以上

2024/09/18

ご飯と米粒


豪華な弁当の’ご飯’を粒子にバラしてしまえば、一つひとつの’米粒’に還元される。
それらの’米粒’をあらためて束ねてくっつけ直せば、元通りの’ご飯’に戻るだろうか?
おそろしく困難ではなかろうか。

僕が此度ここで書き留めたいのは、こういうことだ。


この宇宙・世界のあらゆるものは、さまざまな力と粒子による奇跡のような巡り合わせから成り、さまざまな「仕事(エネルギー)」を成している。
どんなに単純な物質でも、たとえば物理で最初に学ぶ放物線のごとく、数次の関数を以て動いている。
それら「仕事(エネルギー)」をもうちょっと統合的かつ簡潔に記せば
運動エネルギー としてW = Fx = mgh = 1/2 mv2 [J]
(さらに水力発電ダムのような位置エネルギー表現なら、 U = mgh [J] ともいえよう)
さて、この運動エネルギーを時間で微分してバラせば、あるいは計測明瞭なように特定距離で微分してバラせば、運動量 p=mv [kg・m/s] 
この運動量をさらに時間で微分しつつ特定方位ごとにバラせば、
ひとつひとつが 運動方程式 F =ma [N] による力(と質量)にまでバラすことは出来る。

ところがだ。
これらの力(と質量)をあらためて'何らかの距離と時間で積分したからとして、元通りの「仕事(エネルギー)をそっくり再現することは、途方も無く難しかろう。
少なくとも我々の眼前にては、二度とくっつかない ─ かもしれないぞ。

これなら何を語っているか分かるだろう。
こういうことなんだよ!


===========================


掛け算と、割り算。
実体「量」と、論理「数」。
未来と、いま。
エネルギーと、エントロピー。
アナログ連続量と、デジタル微分ビット。
連続の因果と、一瞬の関わり。

宇宙と、素粒子。
恒星と、電磁波。
原子と、量子。
生命と、炭化水素。
地震・火山と、シリカ(半導体)。
電力と、電荷。

ハードウェアと、ソフトウェア。
コンピュータと、プログラム。
ハンドルと、スイッチ。
生命と、遺伝子。
免疫と、ワクチン。
ホモサピエンスと、LGBTQ。


意義と、データ。
文化と、情報。
絵画と、画素。
音楽と、音符
会話と、信号。

知能と、知識。
知見と、多数決。
意志と、弁証法。
学術と、メディア。
学力と、偏差値。
連続の因果と、一瞬の関数。
偶然と、必然。
自然選択と、適者生存。
人生と、スナップ写真。
放送文化と、広告視聴率。


シェークスピアと、ピューリタン。
トムソーヤーと、南北戦争。
ジャンバルジャンと、ジャベール警部。
バイブルと、マルクス。
ロシアと、ソ連。
シナと、中国共産党
フカヒレと、コオロギ。
役満と、吸い殻。


経済と、税。
市場拡大と、均衡財政。
自由経済と、統一通貨。
信用取引と、即時決済
価値と、価格
資産と、株価。
売上と、利益。
技能と、画一労働。
開発と、リサイクル。
経験則と、マニュアル。


人生と、マイナンバー。
住民と、移民。
姓名と、匿名。
民主政治と、アパルトヘイト。
大資本と、サラ金。
社会科と、金融教育。
プロフェッショナルと、ライドシェア。
満塁ホームランと、送りバント。

====================


我々まともな人類をブツ切りにしバラさんとする脅威は、いまや明らかだ。
それら脅威に身を委ねれば、単一通貨のカネ貸しだけが潤うんだ、あとは野と成れ山と成れ、砂漠とゴミと無数の死体だけになってしまう。


大学生や高校生の諸君はきけ。
「ブツ切り細断の思考」で進歩しうるのは物理学だけだ。
化学や生物学はむしろさまざまな掛け合わせで成っている。
じゃあ数学はどうなるんだと気色ばむ向きもあろうが、数学くんにはもとより実体そのものが無く、だから経過時間も因果も無いので、ブツ切りだろうが組み合わせだろうが縦横無尽にやってりゃいいんだ。


以上だ。
あくまで僕個人の思いつきでざっくり綴ってはいるが、本当に重大なことはざっくりと記した方がいいのではないかと、まあそんなふうに最近は考えているのだ。

2024/09/14

【読書メモ】 Mine !

『Mine ! 私たちを支配する「所有」のルール
マイケル・ヘラー /  ジェームズ・ザルツマン  早川書房

久しぶりに社会科分野についての本を紹介してみたくなった。

社会科はもとより理科と同様、有限性を前提とした思考体系であり、しかも人間マターゆえに競合に則っており、それら競合の根元要素として価値と権利をおいている。
ここで、価値なるものは各構成員の主観と集団間での多数決に帰着せざるをえない暫定抽象にすぎぬが、その価値にしばしば立脚しうるさまざまな権利は強制力と支配力を継続的に有するがゆえ、社会科の考察は権利の考察といえよう。
それでは、我々人類が与えられている権利のうちでも最も根元的な行使形態はとなれば、それはさまざま物質や財貨や知性そのものの「所有」ではなかろうか。

…といったところから、「所有」権そのものについて論じているであろう本書にすっと手が伸びだ次第。

もとより僕自身としては、社会あまねく財貨の「所有」における最適な分配方式などは期待していないし、おそらくそんな方式は誰にも設定しえまい。
それどころか、さまざまな財貨「所有」にはさまざまな次元があり側面があり、さまざまな方便も詭弁もまかり通り、だからさまざまな正当性が主張されえよう、そうだ、ここのところだ、ここが本書のエッセンスだ。
じっさい、本書の英文サブタイトルは 'How the Hidden Rules of Ownership Control Our World'  とある。
この'Hidden Rules'という表現からして、財貨における所有権には万民公開/共通の確立ルールは無いが、実勢上は清濁合わせてまかり通っている ─  と仄めかしているようである。
 ※ なお、この’ownership'なる語は総じて『所有権』と解釈されるが、ヨリ広義には主体的な支配権とも了察しえようし、一方で僕自身の英文ビジネス経験にてはこの語が排他的支配状態までをも含みうるのか否かしばしば揉めたこともある。


それではと本書の前半部分の数か所をさらりと読みぬいてみれば、うむ、有るぞ有るぞ、「所有権の正当性」についてのさまざまな論拠。
所有権は基本的には早いもの勝ちルールとも見做せるが、暫定的な占有であっても正当性はあり、不法占有の時効さえも正当と見なされ、一方で知的財産(著作権)となると市場普及度合いが高いために正当性判定は難しく、まして各人のゲノムデータともなると医療福祉の公共性の名目ゆえに所有権所在そのものがウヤムヤに…
ざっと総括すれば、たぶんこんなところだ。
社会科系のメディアに多く見られる散逸的な綴り事と比べても、本書は理知的な文脈展開を段階的に成しており、丁寧に読めば教訓性は高かろう。

※ 但し、本書には独特の読み難さもある。
まず、(アメリカ人好みの編集なのか)実例エピソードがさまざま散りばめられているため文面が多大であり、それぞれの思考段階のアブストラクトが却って掴み難い。
さらに、(英→日の論理構造の差異からか)文面上の順接/逆接がしばしば不明瞭に映り、このためビジネス利害についての記述をやや捕捉し難い。


ともあれ、此度の【読書メモ】としては本書の第2章と第3章につき、僕なりになんとか解釈しつつ、以下にざーーっとまとめてみた




<所有権と占有

動物レベルでの先天的本能によれば、或る経済主体によるさまざまなモノの所有意識はそれらの「物理的な占有」状態から起っているようではある。
そして現行の(アメリカなどの)法律も根本的にはこの解釈に拠っている。

ただし、一時的な寄託によって「物理的占有」が他者に移ったとしても、これだけでは所有権そのものが移転したことにはならない。

それでも、所有権そのものには’時効’が有る。
例えば、或る公有地/私有地を何者かが不法に占拠≒占有し、これが何らかの生産活動のための継続的な占有であると公けに宣言し続けるとする。
一方で、この土地の元々の所有権はいつか時効を迎えてしまうはずである。
そうなると、この占有者こそが新たにこの土地の所有権を主張出来てしまう。

アメリカ合衆国の土地の大半は1800年代の何らかの不法占拠≒占有状態によって起こったとも言え、これらの所有権はホームステッド法によって正当化されていった。

東欧の国々が市場経済に’回帰’した1990年代、それまでの共産主義政権によって'一時的に’所有されていたはずの土地財産の帰属が問題となった。
共産政権当局による占有物ならまだしも、実際にはそれら政権の保護や指示のもとに土地財産を占有し事業を展開してきた産業人も多かった。
それらを、数十年前の’元々の’所有者に今さら返還すべきかどうか。
むしろ、いまや市場経済に回帰したのだから、市場経済のためにこそこのまま所有権を認め活用していこう ─ ということになった。


所有権に時効が有るのはやむなしとしても、それによる新たな所有権取得の正当性は確定困難である。
例えば、エルサエムの地の所有権はいつ時効を迎えたのか、それまでの所有者はどこの誰だったのか、そしてそれからの所有者は誰になるのか。
これらの判断にどう正当性を置くことが出来るのか?

物理的占有の正当性の論拠として、その占有によって占有者が’新たな価値’を創出したか否かを挙げることもある。
アメリカインディアンは彼らの所有する土地から何ら’新たな価値’をもたらさなかったが、一方で白人はこれらを物理的に占有することによって’新たな価値’を生み出すことが出来た、だから白人によるアメリカの土地所有権は認められる ─ という方便も成立してしまった。


現代のさまざまな国際法は、国家や個人によるさまざまな財貨の物理的占有(つまり侵略や戦争など)を回避させるように出来ている ─ はずであるが、実際の世界はさまざまな物理的占有が横行し続けており、それら所有権の時効取得を図っている。


===================


<知的財産と所有権>

アメリカ合衆国憲法の起草時点から、知的財産における所有権が認められるべきか否かが早くも論争の対象となっていた。
知的財産のうち、’創造的な表現’としての「著作物」と、’有用な発明’の体現である「工業製品」について、所有権を認めるか否か、各州ではなく連邦議会で法的枠組みを議決することになった。
そこで、これらに限り例外的に時効付きの(20年などの)所有権を認めることとなった。
「著作権」と「特許」である。


以来、「著作権」としての所有権も、「特許」としての所有権も、多くの産業界によってさまざまな時効解釈や時効延長などが為され、事業利益に供され続けている。
もちろんこれらは、一般社会の消費者の利益に供するか或いは反するかが問われ続けてもいる。

例えばアメリカのディズニー社は、ディズニーによる著作物の「著作権」を永年にわたって堅持し続けており、これらミッキーマウスのキャラクターなどがどれだけ一般社会に普及しようとも著作権を放棄することはない。
これは消費者にとっての重大な機会損失である ─ というのが反トラスト団体の主張。

なお、著作物における事業継続のため「著作権」の延長措置が続けられると、この創作者自身の没後もその著作権が有効であり続けるかとの疑義もおこる。
この著作権の’相続人’が一時的に不明瞭となってしまった場合、この著作物が発行不可能となる場合もありうる。
Google社はこれら’孤児’著作物を独自に有料公開図りつつ、’相続人’の出現にも備えてはきたが、このビジネスさえも反トラスト当局によって打ち切られてしまった。


===================

<ゲノムデータの所有権はどこに?>

或る個人の身体における「ゲノムデータ」が、他者に供された場合、そのゲノムデータは誰がどのように所有していることになるか?
この供給者の親族のデータは?

現下の(アメリカの)法律にては、「ゲノムデータ」の所有権所在の画定的定義は無い。
あくまでも解釈上は ─ 誰も法的所有権を有さないため活用フリーである、或いは、ゲノムデータ供給者当人が所有権を有する、或いは、データベース構築/活用者が所有権を有するはずである。


「ゲノムデータ」活用企業としては、むしろ所有権所在がウヤムヤであればこそ事業展開のヴァリエーションが増える
例えば、所有権所在を確定せねばこそ秘密保持契約ベースでデータ開示ライセンス料を稼げる。
或いは、この所有権を’分配’する発想に則り、ゲノムデータ活用企業が株式などの対価を以て、データ提供者個々人とさまざまなオプトイン/オプトアウト契約可能になる。

なお、「ゲノムデータ」活用企業のみの判断による自社保存データ削除は認められていない。
あくまでも’医療検査施設'と見做されているため、データ保存が義務付けられている。


さすがに、「ゲノムデータ」活用事業には制限も課されてはいる。
「2008年遺伝子情報差別禁止法」では、医療保険会社や大企業による独占的なゲノムデータ活用が制限されている。
しかし、介護保険、身体障害保険、生命保険などはこの規制対象外であり、それぞれ保険事業においてはデータ活用可能である。

なお、「2018年EU一般データ保護規則」にては、データ提供者がおのれの意思でサンプルデータ削除可能としており、アメリカでもカリフォルニアなど一部の州ではこの動きを見せてはいる。


ごく近い将来、「ゲノムデータ」の活用企業はアメリカ人ほぼ全員の身体データを特定出来るようになる。
関連データベースビジネスの商業価値は飛躍的に高まっている。
医療データとしてのライセンスビジネスはすでに数十億ドル規模。


================================


以上、あくまでも本書コンテンツのほんの一端にすぎぬが、僕なりにまとめてみた。


本書は所有権についての論考がさらに段階的に続いてゆく。
ともかくも、利害損得の所在からしてそもそも不明瞭であるため、読者としては却って論理上の洞察が大いに試されよう。
一般読者はむろん、法学部の大学生、あるいは志望の高校生などにもチャレンジ薦めたい一冊だ。


おわり

2024/07/31

【読書メモ】 さぁ、化学に目覚めよう

IT'S ELEMENTAL  さぁ、化学に目覚めよう ケイト・ビバードーフ 山と渓谷社』

此度の読書メモにて本書をとりあげた理由は、一般向けの化学本ではありつつも記載コンテンツ豊富で分量が多いこと、かつ、原文が女性化学者の執筆によるものであること、この2点である。

まず本書の「第I部 - ひと味違う科学の授業」は、あくまでも高校までの化学の総復習(あるいは総予習)水準の平易なコンテンツに抑えられており、一方ではたとえば物質と(熱)エネルギーにかかる物理学などには踏み込んでいない。
だから、この「第I部」はひと味違うどころか確実に咀嚼したいところである。

本書の真骨頂はむしろ「第II部 - 化学はそこにも、ここにも、どこにでも」であろう。
本書の大半を占めるこの「第II部」は、化学技術のさまざまな学術案内から実用商材アプリケーションに至るまで、じつに300頁近くにもわたって綴られており、対象分野は人体や衛生、美容と料理、化粧品や医薬品、インテリア、洗剤、プラスティック、家電製品、次から次へと。
かつ、、女性著者ならではの(?)いわば思考の’サーフィン’のような奔放自在な論旨展開高低もあれば深浅もあり、さぁ次はどんな主題が、どんな商品事例が…と、読者の読書意欲を心地よく揺すってやまない。

さて、此度の【読書メモ】にてはこの「第II部」のうち「第8章」と「第10章」のほんの一端を選び、僕なりに略記要約し、以下にざっと記す。




<ポリマー
ポリマーは分子の重合構造の意。
綿のような天然物さらに生物の細胞DNAなどもポリマー構造の分子と言えるが、とくに人工的な合成樹脂類/プラスティックがポリマーと呼称される。

===========================

炭化水素であるエチレンの分子構造は <H2C = CH2>で、無極性分子。
これを極度の高圧のもとにおくと、分子同士が重合反応を起こす。
一方ではもとの炭素原子同士における二重結合が崩れ、バラけた炭素原子おのおのが別個に共有結合。
この過程を経て巨大なエチレン環を形成、こうして「ポリ」エチレンが出来る。

「ポリ」エチレンはやはり無極性で、繊維を成しつつ分散力も働き、成形自在である。
かつ分子量は1万~10万g/molと多く、だから水に溶けない。
よって、クーラーボックスなどに積極採用されている。

「ポリ」エチレンのうち、低密度の構造をとくにLDPEと称し、一方で高密度のものはHDPEと称す。
LDPEは生成過程にて低密度(0.917~0.930g/cm3)の分岐炭化水素鎖を成し、これは構造上の伸縮性は高いが分散力は弱い。
一方で、HDPEは高密度(0.930~0.970g/cm3)の長い直線形の分子結合を成し、LDPEよりも分散力が高い。
HDPEの生成は、チタンを活かした’ツィーグラー・ナッタ(助)触媒の採用がきっかけとなった。
HDPEの生成によってこそ、「ポリ」エチレン製品の一般化が著しく進み、現在我々はいたるところでこの製品を活用している。

================

炭化水素であるスチレンの分子構造は <H2C = CHC6H5> で、6員環がそれぞれ炭素原子から突き出た巨大な構造を成し、分子間力も強い。
これが重合結合して、巨大なポリ」スチレンが出来る。

「ポリ」スチレンのうち、全てのベンゼン環が同じ側に並んでいるポリマーを成している構造をアイソタクチック構造と称し、これが最も強い。
なお、ベンゼン環が左右交互につながっている構造はシンジオタクチック構造と称し、またベンゼン環の並び方に規則性の無い構造はアタクチック構造と称す。

「ポリ」スチレンの形態には、「結晶性」「ポリ」スチレンと、「発泡」「ポリ」スチレンがある。
「結晶性」のものは食品ラップ(サランラップ)やプラスティック製フォークなど。
「発泡」のものは構造上ほとんど空気が詰まったごく軽量の材料(発泡スチロール)。

=====================

エチレン系の分子を元に生成されるポリマーのうち、とりわけ安価に大量に生成されるもののひとつが、「ポリ」エチレンレレブタレートで、略称がPET、紛らわしいが通称は「ポリ」エステル

炭素と窒素によるアミド結合から成るポリマーとしては、「ポリ」アミドがあり、このアミド結合はとてつもなく強力なので光ファイバーケーブルや防弾チョッキなどに起用されている。

「ポリ」エステル、「ポリ」アミド、スパンデックスはいずれも無極性のポリマーである。
だから極性分子である水分子を弾きやすい。
よって水着類にひろく採用されている。

一方で、ポリマーのうちでもセルロース(綿)は極性が高いため、水分子とすぐに水素結合してしまう。
だから水着類には採用されない。

なお、ポリマーは環境行政上、紫外線によって(自然に晒された状態で)分子結合が'壊れなければならない'ことになっている。

=================================


<酸 - 塩基、洗剤など>

キッチンのシンクにおけるなんらかの汚れ分子に酢酸をかけると、酢酸がこの汚れ分子に陽子H+1個を供し、ここで酸-塩基反応を起こすので、この汚れ分子はシンクから分離する(汚れが取れる)。
なお、三塩基酸であるクエン酸はもっと強力で、クエン酸から供される陽子H+3個がミネラルなどの汚れ分子と酸-塩基反応を起こし、これによって汚れ分子を分離する。

漂白剤には、塩基である次亜塩素酸ナトリウムとともに、やはり塩基である水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)も混じっている。
この水酸化ナトリウムは塩素ガスとすぐに反応し、これをただちに次亜塩素酸ナトリウムに戻す。
だから、この反応の連続にて次亜塩素酸ナトリウムが果てることはない。

ひとつの塩基分子が対象物を乖離する能力を、水素イオン指数で表現出来、これがpH指数。
或る溶液中の、ヒドロニウムイオン <H3O+> と水酸化物イオン <OH-> の濃度比を、pHプローブにて測定、ここで水酸化物イオン <OH->の比率が高い場合に pH指数が7より大きいとし、この傾向をアルカリ性と称す。
例えば、炭酸水素ナトリウム(重曹)のpH指数は9、アンモニアのpH指数は11くらい、そして水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)は13以上にもなる。


炭酸水素ナトリウム <NaHCO3> +  酢酸 <CH3COOH> 
→ 酢酸ナトリウム <CH3COONa> + CO2 + H2O
この変化前と変化後の分子式では陽子 <H+>1個の移動のみが起こっているが、酢酸 <CH3COOH> が酸として働き、また酢酸ナトリウム <CH3COONa> は’共役'塩基として働いている。
この酸-塩基の機能関係が '共役’酸塩基対の典型例。

弱塩基とその’共役’酸の混合、または、弱酸と'共役'塩基の混合によって、’共役'酸塩基対の分子構造を成す「緩衝液」を人工的に生成可能。

この「緩衝液」は生物の体内にももともと存在している。
呼吸のさいの'共役’酸塩基対をみると、
CO2 + H2O  ⇔  炭酸 <H2CO3>
炭酸 <H2CO3> から 陽子 <H+>1個が放出され、
炭酸 <H2CO3> ⇔  陽子 <H+> + 重炭酸イオン <HCO3->
この酸-塩基反応にて血液のpHを7.4に保っている。

一方、我々が運動中に血液中のヒドロニウムイオン <H3O+> の濃度を高めてしまうと、
炭酸 <H2CO3> ⇔  CO2 + H2O
ここで血液のpH指数が下がるが、
重炭酸イオン <HCO3-> を分解して体外に排出すると、あらためて血液のpHが7.4に戻る。


=========================================


以上、「第8章」「第10章」について、ほんの一端ながら掻い摘んで要約略記してみた。

あらためてまとめおくが、本書は化学の学術的な淵源よりも実用性につき、大ぐくりながらも自由な発想を膨らませつつ描かれた(であろう)化学ガイダンス本であろう。
だから読者の見識や学識によってはごく基礎的な教養範囲もありえようが、一方では新鮮な発見も随所に楽しめよう。


おわり





2024/07/22

アリスとボブと


「先生こんにちは。あたしですよ」

「やあ、こんにちは」
「じつは、ちょっとお伺いしたいことが有りまして…」
「ほぅ?どんな?」
「それがですね ─ どうもヘンな話に聞こえるかもしれないんですけど、この世界は何もかもが『夢』で出来ているような気がしてならないんです」
「ほほぅ」
「つまり、現実感覚が無いんですよ。もっと言えば、あたしの人生そのものも『夢』なのではないかって。これっておかしいでしょうか?」
「いやいや、とくにおかしいことはないよ」
「……」
「なんだか不安気だな。それじゃあ、ちょっと確かめてみようか」
「確かめるって、何をですか?」
「俺たちの住むこの世界が、君の案ずるように『夢』にすぎないのか、それとも確固たる『現実』から成っているのかをだ」
「へえ?どうやって、ですか?」
「ここに数学の問題がある。ちょっとした暗号数学だ。さあ、解を出してみろ」
「……はあ、それはまあ、やれと言われればやりますけど……」
「出来たか?」
「はい、出来ました」
「よしよし正解だ ─ さて、それではもう一遍あらためて、さぁやってみろ」
「はぁ?」
「やるんだ」
「…はあ、それじゃあ……出来ましたよ」
「うむ。さっきと同じ解の組だ。さぁいいかね、数学とはそもそも『現実』の’再現性’を保証する技術だ。その数学がちゃんと成立しているじゃないか。だからね、いまこの俺たちの世界はホンモノの『現実』に他ならないってことだ。ゆえに君もまた『現実』の実在ってわけだ」
「………」
「分かったか?分かったな」
「……なーんか、おっかしいなあ……。ねえ先生?そもそも数学は『現実の再現性』なんか保証していないでしょう?あくまでも『思考の再現性』に過ぎないでしょう?」
「うぐっ…、な、なにが言いたいんだ君は?」
「つまりですね、いまこの世界がやっぱり『夢』であるとすれば、あたしたちの思考もまたことごとく夢であって、もしそうならば、夢の中でたまたま成立しているだけの数学だの再現性だのもやっぱり夢に過ぎないってことに」
「まっ、まっ、待てっ、も、も、もう考えるな、もう黙れっ!」
「いーえ黙りません。ねえ先生、いまの暗号数学ですけどね、ほら、こうしてキーを換えると、さっきと違う解の組が ─ 」



とつぜん、大音響の雷鳴が響いた。
とてつもない大雨が激烈に降り注ぎ始め、いたる大地をあまねく打ち鳴らした。
木陰でうたた寝を続けていた彼女は、ハッと目覚めた。
それから地響きを立てつつ身を起こし、樹々をばりばりと斬り倒しながらどすーんどすーんと歩みを続けた。
そして、巨大な洞窟の中にだだーんと転がり込むと、あらためてぐぉーぐぉーと寝入ってしまった。
あまりにも寝心地が良かったため、彼女があらためて『夢』の問題に目覚めるまでには数百万年もかかってしまうのだった。


(おわり)

※ 量子暗号の本を読んでいて閃いた、SF風の落語のつもり。

2024/06/01

【読書メモ】 あっぱれ!日本の新発明

あっぱれ!日本の新発明 ブルーバックス探検隊 講談社Blue Backs』
本書は産業技術総合研究所の協力のもと、コンパクトにまとめられた最先端技術の案内本である。
光格子時計や自動運転技術など巷間聞きなれたテクノロジーをはじめ、まだ具現化には至っていない物理/化学上のイノヴェーションまで、それぞれハードエッジな研究開発の内訳を概括しており、大きく10の章立てにまとめられている。
但し、これらコンテンツは理論面はほぼ概要に留められており、一方では研究開発の進展が必ずしも時系列に沿って段階記述されてはおらず、むしろ未編集な取材ノートのダイナミックな貼り合わせに映る。
ゆえに読者としては相応以上の常識力と想像力を以て挑みたい。

なお本書にてはしばしば温暖化が重要課題として呈されてもおり、あるいはこれが本書の主だった発行動機かもしれぬが、僕は一切触れぬ。

さて、此度の【読書メモ】にては僕なりの常識勘を若干捕捉しつつ、本書概要を記す。
対象は、<磁気冷凍方式>、<地中熱と地下水>、<接着メカニズムの謎>




<磁気冷凍方式の冷蔵庫>

冷蔵庫の熱循環における熱力学原則。
吸熱の量Qー放熱の量Q´ = 外部から為される仕事W-外部に為す仕事W´

現行の冷蔵庫はいわゆる「蒸気圧縮」方式に拠っている
常温気体(イソブタンなど)が冷媒ガスとして気体⇔液体に相転移し、これが連続的に循環している

① コンプレッサ板が、この冷媒ガスを高温高圧とする
② この高温高圧ガスが、コンデンサ板において周辺に放熱しつつ液化
③ この液体が、毛細管から冷却器に至ると圧力が急降下し、周囲から吸熱しつつ気化
④ さらにこのガスはまたコンプレッサ板にて高温高圧となり…

しかしこの現行の蒸気圧縮方式では、冷媒が気体の状態と液体の状態が混在してしまい、熱循環の効率はけして最良とはいえない。
またコンプレッサ板が必須であるため、この振動音をどうしても克服出来ない。


さて、現在開発中の新たな熱循環システムが、『磁気冷凍』方式である。
これは上述の冷媒ガスの代わりに、磁性体の対温度変化と熱運動エネルギーの出し入れを活かす ─ いわゆる磁気熱量効果を活かすもの。

<1> 磁性体は、温度が低い状態では構成電子のN極とS極の方向が揃った強磁性体となっている。
強磁性体は熱運動エネルギーの仕事がまだまだ残っており(エントロピーが低い状態にあり)、だから周囲に熱運動エネルギーを放出しやすい。

<2> 一方で、磁性体はキュリー温度以上に高くなると構成電子のN極とS極の向きがバラついた常磁性体となる。
常磁性体はすでに熱運動エネルギーの仕事が片付いてしまっており(エントロピーが高くなっており)、だから周囲から新たな熱運動エネルギーを吸収しやすい。

こうして、磁性体が温度に応じて <1>強磁性体 ⇔ <2> 常磁性体 に交互に成り代わる過程にて、熱運動エネルギーを放出したり吸収したりを連続的に繰り返す。
この磁気冷凍方式にては媒体が磁性体つまり個体であるため、現行の蒸気循環方式よりも熱循環の効率が良い。
さらに、磁気冷凍方式はコンプレッサ板が不要であるため振動音も小さく抑えられる。

但し、磁気冷凍方式の実用化にさいしてはまだまだ課題も残されている。
そもそも、室内環境にて温度変化に極めて敏感に反応可能な磁性体を採用しなければならず、とりあえずはランタン・鉄・シリコンを組み合わせた磁性体が有力視されてはいる。
また、冷蔵庫の形状そのものが大きく変わると想定されており、最適な形状が模索され続けている。

※ なお冷媒と圧縮コンプレッサを無用とするアイデアとしては、本書記載外ではあるが、半導体素子間の通電にともなう吸熱/放熱構造(ペルティエ効果)を活かしたものも追求され続けている。

======================


<地中熱と地下水を活かした熱交換>

総じて、日本の平野や盆地などは第四紀層の地質で覆われており、これが日本の「地中」層にあたる。
この地質そのものは空隙が多いため、熱伝導効率が良いとはいえない。
しかしこの地質の空隙に’地下水’が大量に満たされている - そういう地点もある。
この地下水が熱を移送すれば、地中の熱伝導率はむしろ大きくなる
一方で、地表と比べて地中は年間とおして温度変化が小さい。

以上から、地中の熱と地下水を活用した熱交換システムは年間とおしてエネルギー収支効率がよいことになる。

実践的には、地下水のなんらかの熱交換機を地中に埋めつつ、この移送経路を地表まで引っ張り、この地中⇔地表の熱循環を連続させうる(クローズドループ方式)。
或いは、地下水をそのまま地表まで汲み上げた上で、なんらかの熱交換器で熱循環を連続させうる(オープンドループ方式)。
熱交換器のヨリ具体的な応用例として、エアコン室外機が想定可能。

地下100mなどにおけるこの地中熱の活用は、日本の土壌が第四紀層において地下水に恵まれておればこそ。
この地質上の特性は諸外国の地盤には見られない。
よって、日本国土における地中熱活用の有力拠点がこれから探索続けられていく。

======================


<透過型電子顕微鏡 - 接着メカニズムの謎>

従来までの電子顕微鏡は、観察対象に電子をぶっつけてその跳ね返りを精査するもの。
いわば’走査型’方式である。
そもそも電子の波長は0.1~0.01 nm なので、たとえば原子にぶっつければ原子の「姿
を精査することが出来る。

一方で、現在は透過型電子顕微鏡の起用も進められている。
これは高出力で電子を放出し、この電子が観察対象の内部まで透過、よって内部構造を精査すること可能である。
尤も、観察対象は厚さ100nmのオーダーで超薄くスライスされていなければならない。
それほどの超ミクロ世界の透過観察技術である。


ところで。
接着剤がものとものを接着させるメカニズムとして、これまで推定されてきた主要な効果説は;
・アンカー効果: ものの微細な凹凸への接着剤の絡み付きによるとするもの
・分子間力効果: ものと接着剤の静電的相互作用によるとするもの
・化学結合効果: ものと接着剤の共有結合や水素結合によるとするもの
しかしながら、どの効果によって接着が起こっているのかはいまだ未確定なままである。

とはいえ、これら接着済のものとものを逆に引き剥がすことによって、界面部における接着剤の強度をあらためて精査することは出来よう。
こうすることで接着の真のメカニズムを見極めることは出来る ─ と考えられる。
この引き剥がし実験にて、どちらかのものの表面に接着剤が残留していなければ、この接着剤は接着力が弱く、これらのものは界面剥離したことになる。
一方で、どちらかのものの表面に接着剤が残留しているならば、この接着剤自体が接着力が強いために凝集破壊してしまったことになる。

ここで2021年、透過型電子顕微鏡を起用することによって、アルミニウム試料の剥離プロセスの動画撮影には成功している。
ここまでの精密なアプローチは世界最高水準ではある。
それでも、この試料に起こったことが界面剥離なのか、それとも接着剤の凝集破壊であったのか、やはり断定には至っていない。

よって、透過型電子顕微鏡を以てしても、接着剤の接着メカニズムがアンカー効果によるものか、分子間力効果によるものか、いまだ精密には解明されていない。
(但し化学結合効果によるものではないとは明らかになってきた。)


====================

以上、あくまでほんの一端ではあるが、僕なりに興味ひかれるまま3テーマについて要約し略記してみた。
他テーマも含め合わせ、研究開発と産業化における更なるイノヴェーションを期待したいところである。
おわり

2024/05/11

【読書メモ】 数学の世界史

数学の世界史 加藤文元 角川書店』
けして皮肉でもなんでもなく、本書は’数学のみの世界’の変節譚と解釈しうる一方で、’人類史そのもの’を数学が紡ぎ上げてきたようにも拝察可能である。
いったいどちらの前提に立って本書に挑むべきか、読者はしばし迷い続けるのではなかろうか。
たとえ数式や図案を略式に留めおいているとはいえ、本書全体の論旨の了察はけして容易ではなかろう。

=======================

さて、僕なりに予め幾らかの所感を記す。

歴史
とはなんだろう?
有意なる文脈の’連続体’であろうか、はたまた無文脈な諸々の’断片記録’に過ぎぬのか?
あくまでも前者であろう ─ と人間自身が認識し続けているならば、さて数学はこの連続体を何時でも何処でも構成し続けてきたと言えるだろうか?

一方で、そもそも数学とはなんだろう?
数学はもともと何らかの有形な実体を表象した記号群であったかもしれぬ、だがそういう表象記号が人類史のどこかで数と量に分かれ、とくに古代ギリシアでは自己の定理化と論証を進め、さらに直感を超えた量化観念や理性(ロゴス)を導いてゆき…

こうして乱暴に併記してみる限りでは、人類の連綿とした歴史を数学が隙間なく織り成してきたとは考えにくい。
むしろ、古代ギリシア以降のヨーロッパ流の数学は悪魔の気まぐれのごとく時や処に不定期に出没し、しばし科学と連携しまた誘導すらしつつ、近代ヨーロッパ以降の’世界史’を先行的に舗装してきたのでは?
なるほど、近現代のパートだけを俯瞰すれば’数学が世界史を学際的に作ってきた’と解釈可能ではある

======================


数学の形式作法として本書をおそらくは一貫しているであろうものは、「直観」と「論証」と「計算」であろう。
しかしながら何分にも数学論ゆえ、特定方位への発展や成熟が段階的に確定されているとは考えにくく、むしろ諸々の着想や技法が時間空間を超えて堆積的に混交してこその数学であろう。
だから、これら形式の精密な峻別理解は生易しくはなかろう。
寧ろ各箇所にては拘り過ぎぬ方が却って大いなる全貌に行き渡るのではないか - 少なくとも僕はそんなふうに意識留めつつ本書を読み進めた。

===================


さらに僕なりに注記しおきたい論題。
本著者によれば、’割り算’こそは人類の数学思考の萌芽であると。
なるほど本書にては、高校生ならば誰もが知るユークリッド互除法を取り上げつつ、この技法が古代ギリシア数学の最たる特性である「図形量表現」と「形式的論証」の典型であると論じられてはいる。
しかしながら、文系上がりの僕としては、’割り算'のかかる特性はともかくも実社会における効用面にて疑義を抱いてしまう。
なんらかの有限の資源や資産においては、’割り算’はあくまでもこれら上限を「数的に」額配分(再配分)してゆく額面操作のヴァリエーションに如かず、これでは化学のような新規ブレークスルーを誘導し難く、だから原始共産主義から近現代資本主義まであらゆる経済思考を矮小化や狡猾性の内に留め置いているのではないか…。


======================

なにはさて、本書前半部における古代ギリシアの論証数学まわりまで、僕なりに掻い摘んで、ほんの雑記ながら以下に記す。




古代バビロニアやエジプトやインドやシナの数学において、さらにゼロ表記の考案や位取り記数法において、個々の表現技法や命題化にはさまざま変化や進歩がみられる。
しかしこれらにては、自身の数学命題の正しさを語る思考は無かった。

自身の正しさを自身が語る数学は古代ギリシアから始まり、これはなんらかの数学命題を定理化(対象化)した上でその正しさを証明、さらにそれを定理化しまた証明…と多重化してゆく構造。
これが「論証数学」の始まり。

タレスによる幾何学命題。
・正円は直径で二等分される。
・二等辺三角形の両低角は等しい。
・対頂角は等しい。
・三角形は底辺と低角から決まる。
・正円の直径の円周角は直角である(これはユークリッドの平行線公理が必要)
これら命題の証明は、図形の回転や折り返しや平行移動などの’運動’さらに'重ね合わせ'による。
尤も、どれも’直観的’方法ではある。

ピタゴラス学派は、協和音の整数比が此岸と彼岸を交信させるといった独特の直観に則りつつ、数論と量論を静/動で分類した。
算術は静的数論であり、音楽は動的数論。
また幾何学は静的な量理論で、天文学は動的な量理論であると。
かかる分類に則りつつ、それぞれがおのれ自身の正しさを論証するとした。


紀元前5世紀ごろ、古代ギリシア数学にては、それまでの’運動’や’重ね合わせ’による直観には留まらない「形式的な論証」が始まった。
あわせて、数を強引に「図形量」と化した上での論証も進んでいった。
この二重の大転換によってギリシアの論証数学は変わってしまった。
この端緒となったのがパルメニデス以来のエレア学派である。

エレア学派によれば、論証数学においては人間自身の直観的感覚よりも論理(ロゴス)が優先されるべきである。
自然界の事物の’運動’や’生成’や’消滅’などはあくまでも人間の感覚過程であり、完全に在るとも完全に在らないとも断定出来ない。
こんなものを理性(ロゴス)で論証してはいけないのだと。

パルメニデスの弟子であったゼノンは4つの「逆理」で知られる。
論理(ロゴス)に忠実に則るならば、時間は無限小に分割出来るはずであり、物体の運動もそれら無限小の時間幅ごと成分に分割出来るはずである。
よって、連続時間を飛行し続けている矢は無限小の一瞬一瞬ごとに停止していることにもなる。

逆に、物体の運動と時間の無限分割が不可能であるならば、運動する物体にはそれぞれ最小の運動単位が在るはず。
しかしその最小の運動単位と経過時間とのタイミング次第では、例えば互いにすれ違う隊列の重なり合う瞬間が無くなってしまう─といった事態も在りうることになる。

さらに、アキレスと亀の競争は…

ともあれ、エレア派の観念優位の論法はとくに'運動'を否定することによって幾何における現実と理論(ロゴス)の不一致さを導くもの、そしてこれへの危惧も自覚していた。
そこで、一応の歯止めを設けるべく公理と公準を従前に設定した上で、彼らなりの論証数学が成った。

数ではなく「図形量」こそを数学思考の対象と据えた論証数学、その最たる例がユークリッド互除法と背理法。
これによって、正方形の対角線と辺の比を自然数単位では通約表現が出来ず、図形量表現するしかない由が、直観ではなくあくまでも論証によって明らかにされてしまった。


アルキメデスによる数学の’逆数版'の原理にては、或る「量」の有限個(回)の分割と近似が可能である由を説いており、これはエレア派ゼノンによる無限分割のパラドックスを回避出来る。
これは正円と内接/外接する正多角形を用いるもので、それぞれの面積が有限「量」としては同じになることを背理法(’取り尽くし法’)によって論証する。
なおこの’取り尽くし法'はプラトンの弟子であった数学者エウドクソスによる無理数の比例論にも描かれている。

========================


さて、本書の各論が最初に邂逅するのは p.263から始まる『解析と統合』の項であろう。
ここから、近代以降の西洋数学(さらには世界数学?)の論を基幹的に成す2大アプローチについての紹介が為されていく。
ひとつは古代ギリシア以来の馴染みのもので、予め既知である定理をあらためて定義や公理によって論証するもの、これを「総合」アプローチとする。
もうひとつは、方程式と解の関係のように、未知のものを既知と仮定した上で全貌から暴いてゆき、最終的にその未知を発見するもの、これを「解析」のアプローチとする。

とりわけ、「解析」のアプローチは16世紀以降の西洋のみに起こり、これが古来の「総合」アプローチともども、真に普遍的な数学を目指すようになり…

以降、ガリレオ、カヴァリエリ、デカルトらを経て、17世紀後半の科学革命の時節に登場したニュートンやライプニッツ、無限小を前提とした微分積分学へと、本書の数学論は更にさらに続いていく。

なお、傍流的なエピソードの数々もなかなか興味を惹かれるものが多い。
例えば、微分積分数学の端緒は意外にも早く、14世紀のマートン学派による物理運動の幾何的表現に原型を見ることが出来ると(平均速度の定理など)。

本書はともかくもスケール大きな数学論である。
理系文系問わず、また職能も問わず、一読を薦めておきたい。

以上