2013/12/28

魔法の風船


ふとしたはずみのことだった。
魔法の風船が、ほわん、と僕の手許を離れてしまった。
「あっ、いかん、戻れ、こら!降りてこい!」と僕は飛びついてみたが、そうするとなおのこと、魔法の風船はどんどん高く高く舞い上がっていった。

やがて、冬晴れの青空、高く小さく紅一点、遠く向こうへ見えなくなった。



「ねえ先生、魔法の風船について教えて!」 
「ああ、それはね……いや、教えない、君に教えてみたところで、分かるような話じゃないからな」
「分かるよ、あたしだって!」
「分からないよ、無理むり……こら、そんなにムクれた顔するな。よし!じゃあ君にも教えてやろう!あくまで教育の一環として、だ」
「うん!教育の一環」
「茶化すんじゃない。いいか、よーく聞けよ。魔法の風船の秘密は…」
「秘密は?」
「…つまり!恋を求めている者のもとへふわりと降りてくる性質があるということなんだ」
「ふぅーん」
「驚いたか?」
「別に~」
「つまりだな、あの秘密の風船の飛んでいく先には、恋を求めている誰かさんが居るってこと」
「ふぅーん」
「分かったか!?分かっても分からなくても、この話はもうおしまい。だから君には難しいって言ったろ、はい、おしまい」


「……ねえ先生?」
「なんだ?」
「どうして先生がそんな魔法の風船を持ってたの?ねえ~」
「ほらな、どうしたってそういう質問になっちゃうだろ。だからこの話はしたくなかったんだよ、俺ァ」
「要するに、先生が恋を求めていて、だからその風船が舞い降りてきたの?」
「さぁね」
「…ねえ、せんせー~~」
「まだ何か有るのか?!」
「もしも、もしもね、その魔法の風船が、持ち主のところを去って、別の人のところへ飛んでいったら、その場合にはどういうことになるの?」
「なになに?持ち主を去って、別の人のところ?…ねえ、君、つまらないこと考えるんじゃないぞ」
「その場合、二人は結ばれるの?」
「分からん。なあ、もうやめようよ、この話は」


突然、その娘は脱兎のごとく駆け出した。
おい、待て!と僕は咄嗟に呼び止めたが、その娘は何かケラケラと笑ったり歌ったりしながら一層軽やかに疾走してゆくのであった。
待てよ、おいっ!
ふぅふぅと彼女を追いかけながら、僕は心中でおかしいな、おかしいな、と反芻していた。
そうだ、確かに俺は、魔法の風船によって恋の精神を取り戻したんだ…しかし、しかし、そうして俺の内に再び宿った恋心が、こんなつるっつるの顔の小娘に対するものであったはずがない。
それならば…どうして俺は今こんなふうに、この小娘を追いかけているんだろう?
もしかしたら ─ 
それは、それは。
あの魔法の風船が舞い降りた先の誰かが、この小娘の行き着く処で俺を待っていてくれるのだ、と。
そんな馬鹿げた小娘の空想を、当の俺自身が信じ込んでいるが為なのではないか。
だって、ほら!
今や、もうすぐ先の曲がり角から、彼女が息せき切ってこんなふうに叫んでいるのが聞こえるじゃないか。

「お母さん!お母さん!
その風船の秘密が分かったよ!
大切な人が、もうすぐそこまで来ているよ!
よかったね!よかったね!
お母さんも幸せになれるんだよ!なっていいんだよ!」



おわり

2013/12/17

【読書メモ】 憲法とは何か

(本ブログ記事はもともと前半部と後半部に分けたものでしたが、トータルな啓発力が極めて強い書籍の紹介となったがゆえ、一括投稿とします。)

本書は2006年に岩波書店から発刊(僕が読んだものは2012年6月の第6刷版)著者は我が国を代表する憲法学者の一人、東京大学大学院の長谷部恭男教授で、ひろく一般読者層向けに憲法ほか法律論にかかる著作を数多く発表されています。
(確か昨年度の駿台予備学校のHPでも法/政治学への誘いのメッセージを受験生向けに発せられており、僕としても以前から親近感を抱いておりました。)

今回この本を取り上げたのは、これからの憲法改正議論にさいし、問題の再定義をしておかねばとの念もあってのこと、そんな折にたまたま本書を書店で見かけたので購入した次第。

さて、これまで僕は本ブログにおいて、経済学と法学について概して懐疑的な捉え方を一貫してきました ─  それは、経済学や法学(まして政治学など何をか言わんや)における用語便法の暫定性に便乗し、「自由競争vs民主主義」などなどズボラな枠組み設定を以て、個別の特性(spec)ではなく全体における約数(rate)を争っている風潮がどうにも嫌いであったため。
事実、此度成立の特定秘密保護法において、長谷部氏が同法の基本的な必要性に賛意を示したところ、氏がリベラルな市民派から強圧的な国政派に転向した云々と中傷する声も少なからず上がったようで…
そのように非学術的で蒙昧な扇動を続けるくだらない自称:政治通や自称:経済通の人たちが全く我慢がならない。

しかしながら、本書において長谷部氏が判然と展開される憲法解釈論はむしろ、法体系というものの暫定性を踏まえつつも、表層の諒解から必然解釈へと帰納的に濾過させ純化させていればこそ、実に理知的です。
思想文化論も虚飾も利害得失論も取り去った冷徹な分析に終始されているがゆえ、実に読み易い!判りやすい!特に「多元的」などなど語彙の用法において僕と妙に相性がよく(失礼)、よってこれほど一気に読み抜いた本はほとんどありません。
或いは、高校教育における政治経済科および現代社会科、とくに政治分野の参考書としても素晴らしい一冊たりうるかもしれぬ、と察します。

そこで。
今回の僕なりの【読書メモ】として、とりあえず以下、自分なりに概括しおきました。



・ある領域における特定の人々が、自らの資産(土地)を積極的に運営しその価値を効率的に維持するためには、共同管理を超えた積極性が求められ、そのため、人々が政治的に組織されていなければならない。
また、政府は本来は全地球人の権利をあまねく保障すべきともいえるが、そこまでの実効力は無いため、特定の人々の人権保障を特定の政府が為すことになる。

…という特定の組織状態が国家であるといえ、ゆえに国家はどこまでも功利主義的に成立しており、また普遍的な人権に対して相対的な存在でしかない。
が、それでもあらゆる領域の人々がこの状態を守るからこそ、地球全体も国家群として維持されている。

・ホッブスの社会契約論にどこまでも則れば、人間の私的権利の争奪を抑制するために人為的に国家が必要、だからそれら国家同士の「敵対的な分立」もやむなしということになる。
が、ルソーはこれを批判 し、そもそも国家を人為的に造ったからこそ戦争が大規模化する、と説いた。
そしてルソーは、国家が人為的な存在であればこそ、人知によって戦争を終結させることも可能と説き
─ 実際に1980~90年代の冷戦終結は東側陣営諸国の国家の在りよう(つまり憲法)を変えさせることによって、大戦争の回避に成功したといえる。

・ちなみに、ホッブスの国家存立論を継いだとされるカント『永遠平和のために』によれば、あらゆる国家間の敵対的な分立はそもそも人間世界の宿命ではない。
各国における常備軍の廃止や共和制の採用と人民武装化によって、国家間の勢力均衡を維持しうるとし、よって戦争は避けることが出来るとしていた。
(なお近代ヨーロッパが共和制に拘っていたのは、古代ローマ以来ヨーロッパ各国で公益実現のための理想政体が共和制であるとされていたため。
アメリカ合衆国成立時も、またフランス革命も共和制が理念の基本線であった。)

・さて現実の世界はいまや、国境を超えたテロ戦争、環境問題や疾病とそれらへの予防自衛の局面にあるともいえ、国際機関や国際的な協調が求められる。
そうなると、国家が行使する正当化=権威が、国境を超えて効力を持たざるを得ない。
英哲学者バーナード=ウィリアムズによれば、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は無い」とされる、が、だからといって既存の国境(論)そのものが自己目的とされてはならない。 



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・憲法とは、それが機能している限りにおいて、国家の政治秩序の基本的な構成原理である。

・憲法の必要性を説く有力な見解としては、憲法を公権力自身のプレコミットメントと捉える見方がある。
これつまり、能力行使において非理性的な行為で自己の不利益をもたらさないよう、権力自身の能力を拘束的に制限する設定、とするものである。

・国家の憲法を平和的に成立させ運用させるなら、たとえ人間の本性に反してでも、多元的な(相互に比較不能な)価値観や理念を許容し、理性的な審議と決定プロセスを経た公正な合意にとりあえずは依らざるを得ない
…という発想を「立憲主義=リベラル・デモクラシー」、あるいはヨリ包括的にリベラリズムと呼ぶ。
現代の世界における民主主義の実現形態として、立憲主義による憲法制定と存続が多勢である。
なお、これは価値の相対論(価値の永遠のバラつきの容認)を指すわけではない。

・立憲主義を貫く以上、各主体の「権利」を私的な領域と公的な領域に分けて規定しつつ、後者において全構成員共通の利害とコストを公正に配分することになる。
この切り分けによってこそ、私人である各主体の権利も、また公共利害の意思決定も明確になる。
それを補完すべく、マスメディアの存在、知る権利も保証されている。

・アメリカ合衆国憲法の成立推進者として知られるマディソン(のちに第4代大統領)は、この憲法の正当性を各州に推す理由として、州の小規模な直接民主制のみでは派閥政治に左右されがちだが、大規模な代表制の共和国結成によって小さな利害対立を収斂出来、理想的な民主政治を実現できると唱えていた。
だが実際には、むしろ合衆国憲法によって、共和制の公益追求論を超えた大規模な民主政治の実現に向かったとも言え、そこから現行の世界主流の立憲主義が始まったと見ることが出来る。



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・戦前の日本型ファシズムは、公的領域と私的領域の切り分けに対する日本人の文化的嫌悪感と多元性放棄から興ったもので、天皇すらも伝統的価値秩序におかれており、日本において自由意思を持った主体が皆無となった ─ と丸山真男は説明した。
(但し本書では、これが日本人のみの特性であるなどとは全く書かれていない。) 

・ワイマール共和国時代のドイツ憲法学者シュミットによれば ─ 真の公益の追求を目的とした教養財産階級によるリベラルな議会制は、(彼の時代に)既に過去の理想に過ぎなかった。
現実の議会制は、戦争とともに大衆参政化が進み、政党による大衆組織化と競合を経つつ、暫定的な私益の調整に留まるものとなっている、とした。
そういう議会制の暫定性が、国内における全主権者における敵味方の「政治的」な拮抗を、国家同士の正統性の戦争へと発展させてしまうこと必然、そうなると理想的な議会制リベラリズムなどでは対処出来ず、全主権者による直接民主政、つまりファシズムか共産主義を以て戦争にあたるしかない ─ とシュミットは唱えた。

・しかし現実には、たとえリベラルな議会制民主主義の憲法に則った国家が、公益と私益を分けざるを得ないとしても、公益調整のため暫定的な偽善妥協に陥ろうとも…それでもリベラル陣営が第二次大戦においてファシズム選択国家を打倒し、今日に至る。
とりあえずドイツは、議会制民主主義国家と、共産主義国家に分断されることになった。

・ちなみにハーバーマスによれば、たとえ議会政治が組織政党に支配されるとしても、その政党間の討論が一般国民への語りかけの効果を有する。
ゆえに、このプロセスが延々と続けば、時間も空間も超えた長期的な利害調整に「公論を誘って」いることになり、つまりは民主主義の理想的な追求形態たりうる、と説く。
(著者の長谷部氏はここまで拡大解釈はせず、議会政治における討論の論題を限定させつつ、むしろ議会外でこそ自由な表現形態の討論がなされるべきであるとされている。)

・もちろん、体制論がすべての現実を正当化するわけではない。
戦略論の専門家バビット教授によれば ─ 戦争は国家の憲法の在りよう、つまり国家の正統性の争いである。
たとえば第二次大戦時に、ファシズム国家が核兵器を保有してリベラルな民主主義国家への脅威となることもありえた ─ かかる緊急事態を事前に排除するため、リベラル陣営による日本への原爆投下もやむを得なかった、という論法が成立する。
しかし、政治哲学者ウォルツァーによれば、たとえ一般市民への空爆が戦時の「究極の緊急事態」に即したやむなしの行為であったとしても、一方では日本はナチスドイツ同様の邪悪な拡張国家ではなかったとする。

・この両者の見解を勘案しつつ、更に実践的に考えを詰めれば ─ 
第二次大戦後に勝ち残った東西二極の核による相互抑止も、その破壊殲滅力を考慮すれば、やはり「究極の緊急事態」の継続である。
さらに、仮に日本が勝ち残り、三極による継続的な緊急事態となっていたとしても、現実的な脅威は本質的に変わるものではなかったろう、との見方も出来る。
よって日本への原爆投下は、リベラル陣営対ファシズム陣営間の戦争における緊急事態抑止論のみでは説明出来ないということになる。



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・憲法が守ろうとするものは、その憲法自身の定義によってその時点で成立している(と見做される)国体であり諸主体に過ぎない。
普遍的に存続してきた民族性や文化性のすべてではない。
ゆえに、一定の条件下における最善の国制は、多元的な価値観の合意としてではなく、常に最適な一つの秩序としてしか存在し得ない、として憲法を運用する場合もありえる(レオ・シュトラウス引用など)。

・だがそうなると、たとえばテロ国家への武力行使という形で、むしろリベラリズム自体の否定にすらつながり得る。
しかしながら、欧米諸国(の理想)と同様、日本も立憲主義=リベラル・デモクラシーを堅持するならば、日本は経済力や軍事力において「欧米以上に」寛容な(非攻撃的な)社会のモデルを構築する、という選択肢も有効である。
そのさいに、日本はやはりリベラル立憲主義の原理に則った国家と長期的に提携していくことが国際関係の基本たるべきで、これは軍事戦略論以上に、広範な日本人の活動範囲にかかる課題。
ここに、今後の日本国憲法の在り方が懸かってくる。



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・立憲民主政(リベラル=デモクラシー)は権力分立に則っている。
たとえば、古典的な権力分立論として、モンテスキューが当時の英国議会政治を参考に説いたとされる三権分立論がよく知られる。
尤も、これは「三権の分離による均衡と抑制」を説いたものではあっても、それらを別々に「特定機関に独占させる」旨を説いたものではない。
司法権を随時の陪審制として立法・行政から分離せよとは説いたが、これを完全に独立した権力機関にしろとは記さなかった。
また立法機関の権力独占を抑えるべく、行政機関は自身の立法阻止権を行使し、むしろ積極的に立法に参加すべきと説いた。
フランス革命においても、またアメリカ合衆国憲法(大統領による立法拒否権)においても、モンテスキューが多大な影響を与えた。


・さて、権力分立の状況に則りながら、世界のリベラル・デモクラシーを「再分類」すると (アッカーマン教授の引用例) ─

まず、アメリカをはじめとする大統領制では、議会と大統領が別々に選出され、さらに実際の業務においても両者の交渉や調整の機会がほとんど無い。
まさにそれゆえに、立法と行政の両者ともに特定の党派のみで占められる場合もある。
或いは、もし両者が異なる党派で占められると、利害の一致に到達しにくく、国政が閉塞する例が(途上国などで)散見される。

この国政閉塞のリスク回避策として、立法と行政の相互の「交渉・調整機会の確保」があげられ、それを機能させ続けてきたのが、イギリス型の議院内閣制で、議会を占拠する最大多数与党が政府との利害も一致させやすい。
が、反面では、議会と政府において同じ党派が同時に権力独占に陥るリスクは、やはり残る。

さらに。
この権力独占リスクまでも回避しうる政治システムが、違憲審査権などを通じて立法府と行政府の権限を相互に制限しうる、ドイツや日本の議院内閣制である。

・以上から、今後の世界におけるリベラル・デモクラシーの権力分立形態としては、このドイツ・日本型の立法/行政の相互制限関係における議院内閣制こそが最も望ましい。
さらに、特定の党派勢力が権力の独占を図り易い新興途上国においても、ドイツ・日本の議院内閣制に倣うことこそ最も望ましい。

逆に、最良の制限力を機能させている日本の議院内閣制に、首相公選制を導入すると、むしろ首相と議会党派を選抜段階から分断させ、相互の制限力を奪う方向に機能してしまうので、勧められない。



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・さらに。
アッカーマン教授の引用によれば、国の根本原理を変革する政治過程を「憲法政治」と呼び、一方で日常の利害調整における政治過程を「通常政治」と呼ぶ。

イギリスは憲法典が無く、イギリス議会が多数決によってほぼ万能な権限を行使するため、そもそも「憲法政治」と「通常政治」の区別が無い。
これを「一元的民主政」と称すべきである。 

一方で、硬性憲法を有するアメリカ・ドイツ・日本などでは「憲法政治」と「通常政治」の過程がはっきり区分されており、これを「二元的民主政」と称す。
二元的民主政の方が、立法・行政は現実的な通常政治に集中出来る。

・なお、アメリカ合衆国の歴史において、「憲法政治」のレベルの調整が挑まれた時期は ─ 独立戦争から合衆国憲法の制定に至る時期、南北戦争と復興期、ニューディール政策期の三度だけである。
つまり、「憲法政治」に直面することは稀であり、また、そのさいに硬性憲法の文面を書き換えるとも限らず、また書き換えからといって国の在り方が大きく変わるとも限らない。

以上から。
二元的な民主政に則りつつ、かつ、立法府と行政府の権限を相互に制限しうるシステム、つまりドイツ・日本の議院内閣制こそ、権力分立システムとして最も望ましいといえる。 




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・さて。
憲法の改正にはどんな意義がありうるのか。
シカゴ大学のストラウス教授によれば、政治体制が成熟した国家において、ほとんどの問題は通常の法律に則って解決しうるため、憲法典そのものの改編には意味がなくなっている、という。
憲法改正にエネルギーを奪われることなく、通常の政治司法のレベルでの解決に注力することが望ましいと。

アメリカ合衆国憲法の改正実績として、南北戦争後に人種差別の是正を目的として改正された第13~15修正が挙げられる、が、これらが事実上の効力を有するのは約100年後の公民権法によってであった。

逆に、実際の状況を追認したかたちでの憲法改正としては、女性の選挙権を定めた第19修正や、上院議員を各州の直接選挙で選ぶこと定めた第17修正が挙げられる。

なお1971年のフランスでは、憲法を改正することなく、1789年革命当初の人権宣言を再解釈することによって、憲法保障の結社の自由を国民の権利として制度的に再設定した経緯がある。


・現在の日本国憲法を鑑みても、憲法そのものの文面がそのまま法的な効力を発するわけでもなく(環境権など)、逆に憲法に文面無くとも個別の制定法や具体的判例に依って効力を有する権利もある(プライバシーの権利など)。
「国を守る権利」も同様で、個別の制定法で定めない限り憲法条文をいじっても実効力は無い。

・憲法九条の狙いは、軍と政治が権力を共有しないよう、権利行使の幅に制限を設けていること。
この憲法九条の改正自体が、それ自体が軍と政治それぞれの権限を具体的に改編しうるわけではない。
現行の政府解釈に依る自衛のための実力保持にせよ、こんごの集団的自衛権の行使容認議論にせよ、政府と軍の権能の制限を別段定義が必須である。
(軍の実力を永遠絶対に排除しろ、などとは言っていない。)



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・オクスフォード大学の法哲学のハート教授は、法と道徳の違いに着目し、法は意図的に変更されうるが道徳はそうではないと説いた。
もともと、人々には権利や義務を定める社会的慣行が法として存在していたのだが、近代化が進み社会生活が可変的となると、あらためて人為的な規範(ここでは憲法)が生成され、あわせて司法の専門家も求められるようになる。
つまり、憲法は全国民の真理ではなく、様々な慣行を再認定するための便宜的な中核機能と捉えるべきである。

したがい、憲法もその認定や改正も、国民のみならず専門家の力量に大きく依るしかないし、憲法のテキスト文言を変えたところで実社会の道徳規範が全て変わるわけでもない ─ と見るべきだろう。



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・ところで。
専門的な能力や運営力を行使すべき官僚機構や日銀などは、立法や行政と異なり、政治党派間の交渉や調整過程から離れた「中立性」が求められる。
とりわけ、現代社会の先進国においては、立法のみならず行政も社会の隅々の需要を反映しつつ、サービスを提供する能力が必須である。
これも現状の大統領制では困難であり、政権党を問わず中立に職務を遂行出来る議院内閣制の下でなればこそ、実現可能である。

・日本の最高裁裁判官の人事権は、憲法上は内閣が有するが、実際は最高裁長官の意見を徴するのが普通。
また、実際の日本の立法は多くが内閣提出法案によっており、それは起草段階で法律のプロ集団である内閣法制局の審査を経ている。
これらを鑑みても、最高裁が内閣に従属しているとはいえない。

むしろ、最高裁が内閣に従属せず自主的な司法判断力を有していればこそ、最高裁は議員提出立法や旧憲法下の規定に対する違憲審査に挑む余裕が有るといえる。 
(因みに、イギリスは2009年から、それまで上院=高等法院に担わせていた司法権を、新たに設置の最高裁に移した、がこの最高裁は依然として違憲審査権は有していない。)


以上

2013/11/24

【読書メモ】 生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門

『生命はどこから来たのか? ─ アストロバイオロジー入門』 松井孝典・著、文春新書版。

アストロバイオロジーとは聞き慣れない学術分野ではあるが、とりあえずは Astro-Biology (あるいは一続きに Astrobiologyと記すほど普遍的な分野か) つまり宇宙生命論の類だろう ─ だからきっと難度の高い本に違いない。
…と想定しつつ、今夏に出たばかりの本書を手にとって読んでみたところ、化学や物理学についてのやや専門的な記述もさることながら、なんといっても引用されまた展開される個々の論理そのものが実に理知的、これだけの「密度の濃い」コンテンツが廉価の新書版で出ているとは。

本書の著者の松井氏は、ひろく宇宙も生命も(人間の文明でさえも)システム系として探求を継続されている第一人者として知られる。
本書のベーシックスとしても一貫されているであろう、これらの「システム」について、その本源的な意味(つまり科学)まで理解しようとすれば、諸要素について相応の知識が不可欠だろう。 
それでも、一定以上の素養さえ有れば、どの年代職業の読者がどこから読んでも存分に「思考の冒険」を楽しめるのではないか。
(さらには、多くのSF仮想世界にみられる一見大胆なヒラメキにしても、それらの源泉を本書引用の宇宙生命論のうちに再確認出来ようか。)
但し、第4章の以下の項目あたりから、少し込み入った化学や物理学の素養を問う内容となってくる。
「生化学反応」「代謝経路」「同化反応」「異化反応」「高分子」「エントロピー」「エンタルピー」「自由エネルギー」「古細菌」「真正細菌」「真核生物」「塩基(コドン)」などなど。
これらはいずれも、著者によれば生命現象を理解するのための基本的な知識とのことだが、これらのタームを学術的に捕捉出来そうもない僕のような科学素人の皆さんには、第1章、第2章、第3章の読解をとりあえずはお勧めする。

さても、本ブログにおける読書メモとしては、これまで通り僕なりの要約に留まるところご容赦頂くとして、本書における第1章と第3章の内容のみを集約し、かつ、宇宙における生命存在の必然性を明かしていく仮説論証プロセス紹介がずば抜けて面白かったので、そこに力点をシフトしつつ以下僕なりに総括し措く次第



(1) 宇宙における(なんらかの)生命の誕生が偶然であったのか、それとも宇宙における必然であったと捉えるべきであるのか、深遠な問題である。

たとえば、生命の誕生はこの宇宙における寂しい偶然に過ぎなかった、という論拠。
これまでの生命の遺伝子における核酸分子の配列からみて、それにピッタリの分子生成の確率は限りなくゼロに近い、というもの。
たとえ宇宙の広さや137億年の時間を考慮したとしてもこの確率は限りなくゼロに近い、ゆえに生命の誕生は偶然といっていいと。

パンスヘルミアという学説があり、これは地球の生命が宇宙からもたらされた、とするもの。
生命が宇宙の「どこか」で極めて偶発的におこったものに過ぎない、との前提による。
なお、この学説を逆にとれば、たとえば地球からの宇宙船に付着した微生物が宇宙に運ばれても、それら微生物が火星や土星衛星タイタンなどで生き延びる可能性があるといえる。

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(2) 一方で、生命の誕生は宇宙の必然的な経緯であり、だからどこでも起こり得る、という論拠。
たとえば、地球生命の核酸の分子構造は、隕石における有機物質と立体的構造が異なっている。
またコレステロールは、同じ分子式でも立体構造は256通りが考えられるというが、地球の生命はそのうちたった1通りしか使っていない。
こうして生命素材の在り様を考慮するならば、その材料物質が(我々のまだ知らない)宇宙のどこかに在るということにもなる。

宇宙の進化の無機的な過程のどこかで、アミノ酸や核酸などの材料分子が頻繁につくられ(化学進化)、それがたまたま地球のような天体では特別な選択効果が機能して生命細胞の構造となる(生物進化) ─ という見方もある。
尤も、両方とも地球で起こるともいえるし、さらに、宇宙に地球のような天体がたくさん有ったなら両方ともたくさん起こりうるともいえる。

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(3) アストロバイオロジーは、地球を含めたあらゆる宇宙の環境や天体を「システム」として捉える。
むろん、システムとは、複数の要素の関係性によって動的な復元や平衡が維持できる系のこと。
システムとしての天体にこそ、システムとしての生命が在る。
地球上で確認出来る生物の代謝反応を確かめれば、我々生命というシステムが宇宙システムと切り離せないことは明らか。

光合成など(炭酸同化反応)を単純化すると、植物葉緑体が太陽の光エネルギーを吸収し、水や二酸化炭素と反応してADP(アデノシン二リン酸)とリン酸をもとにATP(アデノシン三リン酸)が合成され、そのATPに「蓄積される」エネルギーからグルコース化合物の合成が行われる。
一方、動物細胞の呼吸(異化反応)を単純化すると、この植物葉緑体が生成のグルコース化合物が酸素によって分解され、二酸化炭素と水を生成する、かつ、この過程で「取り出される」エネルギーによってやはりADPとリン酸からATPが作られ、取り出されたエネルギーがそのATPに「蓄積され」、それが少しづつ生命活動のエネルギーの源泉となっている。
呼吸など異化反応において細胞内の複雑さが増し=秩序が減り、これは熱力学第二法則に則ればエネルギーが減ることを意味しており、よってエネルギーが常に必要とされる。
また、一度に爆発的な燃焼が起こらないようにATPがエネルギー を徐々に蓄積している。
(…以上が本書に要約されている生命とエネルギーの初歩解説 ─ と思うが勉強不足の僕にはあんまり自信無し…とりわけ、エネルギーをATPから取り出すとか逆にATPに蓄積とかいうところがどうも分かりません。)

つまり、太陽光線エネルギーも同化反応や異化反応における物質も、宇宙システムから独立したものとはいえない、だから我々生命システムと宇宙システムは同一の系にあるといえる。

宇宙も地球もわれわれ生命も、全体が(或いは一部が)連環した「必然的な」システムである、との解釈からすれば、たとえば地球上の恐竜を絶滅させたとされる天体衝突にしても、地球の「応答システム」が機能したがゆえにこそ、地球は長期復元し…だからこそ現在の我々の存在に必然的に至る、と理解出来る。
(じっさいに天体衝突は宇宙ではいくらでも起こっている。)

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(4) 生命の存在は宇宙の必然である、とする論拠としては、いわゆる「人間原理」もある。
「人間こそが宇宙を認識し、観察、記述し、宇宙の形も大きさも年齢も進化の法則も定めてきた」、そして人間の計算(アインシュタインの宇宙係数など)に則ればこそ、人間が観測する宇宙が存在しているといえる
─ のだから、宇宙はわれわれ人間のような観測者(計算者)を生みだす「ように出来ている」はずである、という。

ただし、これらは「人間自身の尺度」に限定した上で、たまたま人間が知っている宇宙について論じているに過ぎず、仮に「思弁的に捉えて」他にも宇宙が存在するとするのなら、そこではわれわれ人間の現行の尺度は「普遍的な意味」をもたない。
と、すると、宇宙が我々人間に至る生命進化を必ずもたらすとは断定出来ない。
実際、精度の高い観察に依れば、現行のわれわれ人間の宇宙定数は厳密には完結しない ─ つまり他に宇宙があってもおかしくないということになる。

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(5) 微生物(細菌およびウィルス)の多くは、地球のどのような温度、圧力、乾燥度、水素イオン濃度、放射線環境においても生存する適応性を持つ。
地球どころか、どのような惑星環境においても生き延びうる、とされる。
ゆえに、生命がどこで本当に発生したのかを判別することは極めて難しい。
いや、それ以前に、我々人類は今のところ地球生命しか確認していない ─ だから宇宙レベルで生命を定義することは出来ていない。
(なお、ウィルスが生命か否か、生命進化との関わり合いは何か、まだ定義は終わっていない。)

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(6) アストロバイオロジーに則れば、地球とは水が地表を循環している「システム」の星、そこに生命が存在する。
ならば ─

火星にも生命が存在してもおかしくない。
火星で堆積岩が既に見つかっているが、堆積岩は水の循環や侵食が無ければ生成され得ない。
また、火星の堆積岩の構造も水の流れを示すものである。
さらに火星の地層からはヘマタイト鉱物の球粒も見つかっているが、この球粒は二価の鉄イオンが酸化した水に溶け込まないよう三価に変わって堆積したもの、よって間接的には火星に水が存在する(した)事実を示す。
火星にはバイオマーカー(生命と周辺環境の相互作用の痕跡)も見つかっている。
また、火星からの隕石には生物化石らしきものの付着が確認されており、地球上の最古の生物化石に似ている。

地球の何千メートルもの海底には、熱水噴出孔があり、その付近に地表とは異なる原始的な生物が棲んでいる。
これは太陽光すら利用しない特殊な生態系である。
ところで、木星の衛星エウロパは木星の周りを楕円形の軌道で周回するが、木星からの巨大な重力による変形圧力によってエウロパの「内部」に熱がおこり、表面の氷の下に「海」が出来ている、とされる。
この「海」が地球の海底と似ているのでないか。

土星の衛星タイタンは、メタンやエタンが零下200℃の環境下でも液体から気化して雲になる。
それが雨になり、川となり、湖となるという循環が既に確かめられている。
つまり衛星タイタンでは、いわばメタンによる循環システムが成立機能していることになり、そこでたとえばリンを素にした生命が存在するのでは、と問われ続けている。

金星の大気中の濃硫酸の雲の中でも、微生物は存在するかもしれない。

以上

2013/09/22

入試英語の学力を必ず伸ばす方法

なんだか、もう聞くに耐えないデタラメが英語教育に横行続けているようで。
しかも昔からずーっと改善されていないようで。
まったくもって安易であり、横着であり ─ つまりはぜーんぜん頭を使っていないようである。
以下にまとめてコンパクトに反論しつつ、僕なりに考えるまともな頭の使い方を記す。

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① SVOCで文章を類型化しても、英文解釈とはならない!
とにかくヴォキャブラリーを増やせ!

まずは、ちょっと飛躍するようだが、以下のような化学式について考えて欲しい。
(化学式そのものを理解出来ようができまいが、ここでの引用の意味について無理やりにでも理解して欲しい)。
NH3 + HCl NH4+ + Cl-
「ハーイ、これは配位結合式ですね、おわり」
…という具合に、これで1つの命題解釈は終わる、かもしれないが、実際の化学の論題はそんなものではない。
そもそも NH3 とは何か、HCl とは何か、そして NH4+ + Cl- とは何か、どういう電子対にどういうイオンが配位結合したといえるのか、といった科学的属性によってこそ、イオン反応が決まっている。
しかしながら、イオン反応の類型によってこれら化合物が決まるわけではない。
更に実際の論題は、これら化合物のイオン反応に則った引用や実証例が挙げられたり、展開論が転々と演繹されたり、疑義反論が挙がったりして、一応の総論に至る。
だから、NH3 やHCl の属性について知らなければ、「これは配位結合式」などと類型パターンを覚えたところでどうにもならない。

…と、ここまでふまえて。
さあ今の引用についての英文解釈を考えてみる(とはいえ、ここは僕なりの強引な英作文)。
Ammonium has its own redundant lone-paired electrons neutralised with outer positive-ionised hydrogen, which in turn form coordinate-bonded molecule composites as of NH4+ ... .

こうやって英文にしてみると、早速またまたSVOCを持ち込む先生が多いんだね。
「はい、いいですか~、Ammoniumが主語(S)で、hasが動詞(V)、neutralised はhasを受けて分詞になってますね~、positive-ionised はhydrogen を修飾してますよ~、formもまた動詞(V)で~、molecule compositesが目的語ですが、この場合はそれ自体がそうなるのですから目的補語(C)といってもいいかもしれませんね~」
いったい、こんなふうに文章の類型回帰をいくら続けたところで、それで英文の何が理解出来るというのか。
こんなもの英文解釈の講義でもなんでもない。

これらのneutralise, ionise, cordinate, composeという動詞、およびammmonium, electrons, molecule, hydrogenといった名詞、これらの限定的な意味の合算によってこそ、この文意が成立している。
それをいちいち動詞だ目的語だと類型回帰するのは、文意の無機的な分解でしかない。
まして、これらヴォキャブラリーの意味を知らなければ、現実的な英文読解の論説文についていけるわけがない。

では英文法には意義が無いというのか!と気色ばむ人もいるかもしれないが、そうは言ってない。
ここでは、英文法そのものがヴォキャブラリーによって決まるのだ、と念押しをしているに過ぎない。
とにかくヴォキャブラリーを増やしなさい、類型化で誤魔化して逃げるのはやめなさい。
学生たちへ、というより、これは英語教育に携わっている全ての人たちへのお願い、無意味なトークでカネを取るのはよせ。

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② 読解の速度を上げることを心がけよう。

化学式でも、経済学でも、簿記でも情報処理でも、そして外国語の理解においても、接する上での適度な速度というものがある。
入試英語の文章くらいになると、普通以上の思考速度の人が書いたものだと考えた方がよい。
だから、出来れば執筆者に近いスピードで読解出来れば素晴らしい。
それを、SVOCなどといちいち類型回帰ばかり熱心に、ゆ~っくりゆ~っくりと、常人の意識の数倍もの時間をかけて読んでいてはいけない。
相撲やボクシングやサッカー中継をとてつもなく減速再生するがごとしで、何やってるのかまともに理解出来るわけがない。
(敢えてゆっくり、ゆっくりと解析してメリットがあるのは、きっと学術論文や法律における「解釈論争」の時くらいだろう。) 

速く読解するポイントは、たった一つ、ヴォキャブラリーを増やし、文意ひいては文脈を確実に捕捉すること。
そしてこれには効用が十分にある。
①に記したとおり、ヴォキャブラリーの組み合わせによって文意は決定される ─ つまりは、「ヴォキャブラリーには用法の相場というものがある」。
文章を速読することで、その相場を実感することが出来るようになる。
ちょっとヴォキャブラリーを目にしただけで、「あぁこれは途上国の政策と利害損得についての論説だな」という具合に、読解の心構えも定まってくるもの。

もちろん、あらゆる英文読解がそうとは限らないが(一橋や東京外語大の出題のように主題を掴みにくくイライラさせる英文もあるが)、そこを我慢して読み進めるだけの忍耐力も、速読力によってこそ培われるものである。

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③ 英語は博学のツールである。
少なくとも英文解釈に理科系と文科系の分類などないので、一切意識せず、日頃から広範な学識に触れること。

英語はおもに科学技術と戦争とスポーツとビジネスと司法で発展してきた言語であり、したがいあらゆる実在を対象として、論説を進めるツールである。
あらゆる実在を対象とする以上は、その対象物は結局のところ、(日本人のいわゆる)理科系分野が対象とする素材や現象となる。
ゆえに、英語の動詞も理科系のコマンドがほとんど。

大学入試だけが英語学習の目的ではない
 ─ それはその通りだが、しかし博学的な見識を広めるツールとして、入試英語はけして無駄ではない。
その一方、英語教育において理科系とか文科系と分けたがる人たちには何ら論拠は無いように察せられる。

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④ 英作文は、おのれの最も使いやすい名詞と動詞をまず据えることで、論理的にまとまった英文が書きやすくなる。

採点者は英文法と語法の正確さを見るのですよ、という。
それはもちろんそうだが、しかしそれだけなら個々の箇条書きで済まされるものに如かず、着想力を見極めることにはならない。
特に女子に多いのが、バラバラな表現をほわんほわんとくっつけ合わせる技法。
個々のディテールは丁寧だが、全体としてパンチの効いたシンプルなメッセージとはなりにくい。
(床屋で女性の理髪師に切ってもらうと、実に細やかに、そしてやさしく丁寧にカットしてくれるが、髪型としてはあまりインパクトが無い ─ それに似ている。) 


ここで、ふと思いついた【例題】 ─ 以下の日本語を英訳しなさい。
『今日は休日で朝からプレステの野球ゲームにふけっていたら、いつの間にか日が暮れており、シャツを干すのを忘れていた。』

最初から一筆書きで文章をつくろうとすると、途中で時間の前後関係や事態の因果関係が循環してしまい、あるいはバラバラに乖離してしまい、どんどん書きにくくなる。
まず、誰が、どうする ─ この「どうする」を具体的に思いつくまま書いてみる。
そこで思いつく動詞が名詞とのコンビネーションを決め、時制も不定詞も態も決める。

(1)今日は休日「であった」…すぐ思いつくのはbe動詞、だがenjoyを使ってもよいし、spendを用いても悪くなさそうだ。

(2) ゲームに「ふける」…spend, be engaged in, forget, enjoy, drown などを思いつくか。
そうすると、たとえばこんなフレーズが出来る。
I spent hours in Playstation baseball games.
I have been engaged (caught) in baseball on Playstation gadgets.
I forgot hours passing by while I enjoyed Playstation baseball.

(3) 「日が暮れる」…こちらはあまり思いつかないが、set, end, go down などをひらめくか。
The sun already set.
The sunshine went down.
The daytime ended.
It was already late evening when ...など。

(4) 次に、シャツを「干す」…dryが妥当だが、exposeも使えそうだ、もっと大胆な動詞用法でairというのもある。
それを「忘れた」のだから、たとえば。
I forget to dry my shirts.
I missed chance to air my wet shirts.
I regret I didn't expose my wet shirts to sunshine.

以上のごとくパラパラとひらめいた(1)~(4)を、ササッと問題用紙にメモれればよし。 
いよいよここからが、自己流の着想力の見せ所。
ここで動詞同士の最適な連結を図る、と、たとえば(1)と(2)でともにenjoyやspendを起用していることに気づく。
それならば、Today I enjoyed my good holiday hours on Playstation baseball games.
(3)と(4)もくっつけると。
Today I enjoyed my good holiday hours on Playstation baseball games, "so" I forgot to dry my shirt "before" the sun set.
これが一番わかりやすい時系列。
ただ、 ここでは「干す」と「日」は因果関係そのものなので、それらをまとめてもっと洒落た表現だって出来うる。
Today I devoted myself to Playstation baseball game until the late evening, when I noticed I missed my holiday chance to have my shirts "dried in the sunshine hours".

ちなみに、Playstation と baseball と game という名詞をズラズラっとぶっ続けで一つの名詞としても構わない、いや、むしろその方がいい。
名詞を捻出するさいは、フランス語などのような"A of B"の型はあまり使わない方がよい。
その理由は、ofでズラズラと連結すると、何が何に含まれているのか或いは同等なのか、だんだん判然としなくなるからである。

以上

2013/08/25

【読書メモ】 集合知とは何か

『集合知とは何か』は本年2月に中公新書から発刊、西垣通・著。
著者の西垣氏は東大の計数工学科を卒業、日立製作所のソフトウェア研究開発、明大法学部の教授職を経て、東大大学院の情報学環工学博士まで歴任されたとの由。
コンピュータの学際的な普及解説の第一人者としても広く知られる。

およそ高水準の学術見識に基づいた大衆書というものは、以下大別した2つの要素を併せ持っているのではないか…と僕は近頃考えている。
(1) 或る観念/アブストラクトを、様々な意味論をもって(再)定義するもの
(2) 市場産業に実在する諸要素を、その属性や効用から分析するもの

この大分類からすれば、本書『集合知とは何か』は(1)の範疇にシフトした観念解説書、のようでいて、実は(2)の範疇における技術論ガイダンスとしての側面も多分に有るもの。
実際、本書を店頭で立ち読みしてみたところ、Intelligence Amplification やサイバネティクスといった用語を散見、ああこれは僕自身の会社員時代の技術知識を増強するに絶好の参考書かなあと購入した次第。

本書を概括的に評すれば、ネット集合知は「何か」というより、むしろ「どのように構築されるべきか」さらには「どうであってはならないのか」について慎重に論じられている。
その上で一貫している巨大な問題設定。
「我々人間は一人ひとりがITを便利な知識情報媒体として活用している、が、それではITは我々人間一人ひとりをどう活かし得るのだろうか?」

本書において引用・概説される生命、人間、社会組織、ITインフラといった多重な構造(系)、それらの主客相互の相対的な機能関係 ─ と、緻密で多元的な分析にはまこと感嘆の限り。
なるほど随所にみられるテクニカルな述語(「感受する」「創出する」「創発する」など)の読解にあたっては緻密な論理力を動員やむなしではあるものの、そこが本書を硬質でエッジの利いた論説たらしめている所以。
たかだか200ページの新書版に収めるにはあまりにも密度の濃い科学論(それ以上に哲学論か)といえようか。
とまれ、以下に僕なりに要約した読書メモを一応は纏めおく。



・或る特定解が存在する疑問にさいして。
不特定の回答者による部分的な解の集積は、この分野での専門エリートの見解よりも正解に近くなる。 
そもそも、不特定の回答者は各人が自己の体験から互いに独立した見解を呈する、か、或いは自信無き場合には全く当てずっぽうな回答を返す。
一方、特定の専門エリートは精度の高い推測モデルを有しているので、それに則って皆が似たような回答を呈示する。
ここで、不特定の回答者の推察の集合は正解に近似しようが、無知の当てずっぽうにかけ離れようが、どちらの場合にも集団としての誤差は小さくなり、つまりは正解に近くなる。
だが、特定専門エリートの回答は皆が一様に間違っている可能性もあり ─ そうなると不特定の回答者の回答の集合が正解に近くなる。
…と、これが情報寄せ集めモデル(推測統計学を含む)の基本的な着想のひとつ。

・なお、正解そのものが準備されていない問題に応じた場合、つまり回答者集団の多数決の解が総意とされる場合は、どうなるだろうか。
政治学者アローの定理でも遍く知られるとおり、各人がそれぞれ合理的と信じる意思決定をもって回答したとしても、その集積としての多数決は個々人の判断結果と一致するとは限らない。
よって、ネット環境によって自生的に新規の民主的な正解が導かれるなどと一概に喜ぶわけにはいかないのである。

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・そもそも、「客観的な知」など在りうるのだろうか。
たとえば市場原理は特定の評価基準、第三者専門委員会、数値目標、結果の明示などによって、特定の情報の透明な共有化が可能な社会をもたらす。
が、実はこれは謂わば権威と流動性に保証された所与の知(天下りの知)とでもいうべきもの。
所与の知の例として法律の条文解釈や、外国語文法などが挙げられるが、これらは権威有る誰かが一意に行った解釈に依っている知に過ぎず、そこに大きな間違いが起こっていても誰にも分からない。
一方で、市場での流通にそぐわない知識や情報は存在しないものとされやすい。

・所与の知は、欧米流の論理的な導出、つまり公理、原理、憲法、実証的事実の集積による普遍性(という信念)に多くを依っている。
13世紀のスペインの騎士ライムンドゥス・ルルスは、イスラム教徒をキリスト教化するため修道士となり、普遍的記号論に基づいた「円盤機械」を発明。
のちのルネサンスにも宗教改革にも、さらにはデカルト、ニュートン、ライプニッツにも連なる普遍的な近代の知の端緒である。

・とりわけ20世紀は「所与の知」の論理的整合性を大前提に据えつつ実証実現に挑んできた世紀ともいえる。
フレーゲの『述語論理』、ラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、ルドルフやカルナップらの『論理実証主義』などを経て、厳正な「はずの」論理記号表現によって数学から科学哲学まで表記の精密化をはかった。

ヒルベルトは 「無矛盾の公理系から導かれる真なる数学命題は、必ず形式的操作で証明出来る」 とし、いわゆる記号転置型形式主義を説き、量子力学者かつ数学者のフォン・ノイマンはこのテーゼに準じつつ現代型コンピュータを開発。
また、チューリングもプログラム内蔵理論を実現した計算機として「万能チューリングマシン」を開発。

ところが ─ 数学者のクルト・ゲーデルは、「記号による形式主義手法では自己言及矛盾の命題を証明出来ない」と説き、ヒルベルトの説が否定されるに至り、更に万能チューリングマシンによってもヒルベルト説の限界が却って示されてしまった。

・上記経緯にも関わらず、思考機械としてのコンピュータは「所与の知」の正確なシミュレーションとソリューションをもたらす、と更に見做され続け、1980年代にメインフレーム・コンピュータの最盛期と人工知能(Artificial Intelligence)の隆盛に至る。
いわば知識工学の推進であり、そのひとつの実現が『エキスパートシステム』で、これは個別のユーザのソリューション要求に応じ、特定の専門プロの知識(命題)を論理的に最適化して都度リターンするというシステムである。
但し、さすがにそれら専門知識も最適化も万能ソリューションとは見做されておらず、本システムは知識工学の主流たりえていない。

・かたや、いわゆる『第5世代コンピュータ』は、フレーゲ以来の述語論理を直接ハードウェアベースで並列処理する(コンパイル処理ナシ)というコンセプトもので、人間の脳内思考処理の最も直接的なシミュレーションとされた。
現在に至るまで、第5世代コンピュータは日本のIT関連プロジェクトとして最も大規模な産学投資がなされ、実現に至った。
しかし1990年代以降のIT技術はネット分散処理に大きくシフトし、よって第5世代コンピュータも知識工学の主流を占めていない。

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・以上、第5世代コンピュータあたりまでが、人間の「所与の知」の省力マシンとしての人工知能(AI)追求であったとすれば、現在のネット分散処理の進展はむしろ逆に、 コンピュータの便宜によって人間自身の知力を高めんとするもの ─ つまりIA(Intelligence Amplification) を強化する状況にある。

・ネット分散処理のインフラ環境増強(とりわけウェブ2.0以降)およびデータ検索エンジンの急速な向上が進み、国民の知識の拡大が起こってきた昨今である。
かつ原発事故の経緯もあり、20世紀まで産学両面にて幅を聞かせてきた「所与の知、天下りの知」の信頼がいまや大きく揺らいでいる。
そもそも、論理と実証による統一的な客観世界が本当に存在するのか、との疑義が現在までいよいよ問われ続けている。

・すでに20世紀半ばの科学哲学者マイケル・ポラニーは、客観知が論理と実証のみからは成立しえないと指摘していた。
ポラニーによれば、通常我々が完結的に認識している各人のそれぞれの知は、本当はそれらの潜在的な構成要素たる個別情報から成り立つ由。
この前者と後者の関係付けをポラニーは『暗黙知』というタームをもって説明、こうして人間同士が(論理と実証による統一解ではない)その時その場の客観知を構築出来る、とした。

・一方、1960~70年代にトマス・クーンの『パラダイム理論』が発展。
これによれば、専門家集団の学説といえども統一された論理と実証ではなく、おのおの既設のパラダイム内に留まっているに過ぎず、ゆえに唯一の客観世界など記述してはいない。

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・あらためて注目すべきは、我々一人ひとりの閉じた主観=体感としての知、流行りのタームで言えばクオリアであり、そこから導出される一人ひとり個別の反応行動であり、それらを通じてなされる人間の再帰的な創出活動である。

・ ヨリ多重構造として捉えれば、生命そのものにも統一された客観世界など無く、各個体も独自に閉じたクオリアによる感覚(センシング)と反応によって生きている。
1970~80年代に生物学者のマトゥラーナとヴァレラによって『オートポイエーシス理論』が発展、これは、生命が細胞レベルからどこまでも自己創出的であって、おのれの生成も出力も自己自身のために再帰的に機能するとしたもの。
現在まで生命の本質をもっとも掴んでいる学説といえ、かつ、これを人間に適用すれば、各人の閉じたクオリアや経験記憶や思考もオートポイエティック=自己創出型といえる。

・そうであれば、人間が成立させる社会組織そのものもまた、それなりに閉じたクオリアと経験記憶と思考を通した自己創出によって再帰的に機能しているはずである。
(ここが本書の最大の難所の一つなのだが) 社会組織の独自に閉じた自己創出機能は、個々の人間のそれよりも上位にあり、にも関わらずこの両者は包含関係にはなく、相互干渉破壊の危険もなく、いわばお互いがプロトコルレイヤのように機能は相互独立しつつインタフェースは共有している (という論旨だと僕は解釈した)。
この社会組織と個人の機能関係を、本書では 『階層的な自律コミュニケーションシステム』 と明示している。

・さてそれでは、「クオリアと反応において閉じられているはずの生命体」は、「入出力反応が外部に開放されている機械」 とどういう関係を構築しうるだろうか。
1948年に数学者ノーバート・ウィーナーが『サイバネティクス理論』を提唱、これは人間はじめ生命体の閉じられた自己安定性を外部機械が統計確率的に保全するという議論であった。

とはいえ、生命体がそれぞれ独自の閉じられたクオリアにおいて感受や反応を行う以上、それらを外部の機械が一様に保全することは出来ない、との再認識から、1970年代以降にフェルスターが唱えたのが『二次サイバネティクス論』である。
これはいわば「サイバネティクスのためのサイバネティクス」、つまり、個々の生命体おのおの独自の感受や反応プロセスそれ自体を、外部機械によって全く個別に保全する、(そうすることで個々の生命体の自己安定性を機械によって保全することになる)、という新たな踏み込みであった。
本論を提唱したフェルスターは、オートポイエーシス(生命の自己創出)論を説いた生物学者のヴァレラなどとも親交があったという。

・以上に記した、人間各個人の閉じたクオリア及びオートポイエーシス(自己創出)論を総括した学術アンソロジーが、2009年にメディア学者のマーク・ハンセンや文学者のブルース・クラークによって編纂され、『ネオ・サイバネティクス』と冠されて発表された。
ここで新たにまとめられているのが、『システム環境ハイブリッド』というコンセプト。
ここではクオリアやオートポイエーシスの前提をふまえつつも、こと人間はテクノロジーによって認知世界を意図的に拡大させる性質を有しており、よって「無意識の知性」を習得しうるものである、と論じている。
これをもって、人間は単なる閉鎖的な個体ではなく、その無意識の知性習得の最前線にある媒体がIT(ネット)であると説明。

※ とはいえ、本旨に対しては著者の西垣氏は懐疑的見解をとられており
─ 人間にとってあくまで外部的存在に過ぎないITエージェント(エンティティ)は、論理演算に留まるものにして、それが(閉じられているはずの)個々人の倫理までも形成するとは云えず、またITエージェントの論理的作動と人間個々人の無意識の作動の差異について明快な説明も無い、と記し措かれている。
まして、ITの演算能力への無邪気な万能信仰は、20世紀型の論理と実証の試みと限界を再度想起させるものである、との念押しもなされている。 

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・ところで、生命体を巡る科学理論としては、20世紀末からカオス理論やフラクタル図形など非線形数学をもって「自己組織化」を説明しようとする潮流も根強い。
いわば、ミクロな要素が非平衡な物理系で相互作用し、それでマクロな自己組織化のダイナミズムが発生するというもの、つまり生命体を反エントロピーの創発現象として解釈するというものである。
しかし、これらの物理現象は、相互に閉じられたクオリアにより感受と反応を繰り返す個々の生命体の在り様を完全に説明したことにはならない。

・いわゆる『ポスト・ヒューマン』論はもっと稚拙で、サイバネティクスを人間と機械の混交であると誤解し、人間はネットのエンティティ(いわばアバター)に堕して主体的な知性を失うなどという。
つまり、人間一人ひとりの閉じられたクオリアと自己創出性を全く無視した論調に留まっている。

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・以上が、本書の問題設定、いわば大前提。
第5章の中盤以降にて、いよいよ総論と展望論にうつる。
閉ざされた各人の「主観知」を社会組織という「客観知」、ひいては「集合知」へと導き出す手がかりを模索する ─ という旨、あらためて注記がなされている。

・たとえば流行の脳科学テクノロジーは概して物質的な脳機能分析、つまり外部で共有可能な「客観知」データの捕捉を目的としている以上、これだけでは個々人の非開放的な「主観知」を同様に外部に導き出すことは出来ない。

・この両者間をどこかで連結させるための、ひとつのヒントとして紹介されているのが、我々一人ひとりを絶対的に閉ざされた個人としてではなく、社会とのインタフェースを共有する「分人」のプロパティを有する者と捉える着想。
各個人の「分人」の部分が社会組織(ネット側)と継続的に問/答のコミュニケーションを図ることによってこそ、相互のインタフェースが構築増強されていく ─ ひいては「集合知」のボトムアップとなる、と考えてみてはどうか。
この発想は、「二人称的な『心身問題』」としてかなり数理的に検証され始めているという。

・この「二人称的な心身問題」の検証事項としては、個々人の「分人」の部分が社会組織(ネット側)の一体誰と連結インタフェースを図っているのかが端的なデータたりうる。
そこで好例として引用されるのが西川麻樹による『アサキモデルで』、これは個々のモナド(単一で閉じられた単子)が相互にコミュニケーションを行い、一定の相互信用度の閾値にも左右されつつ、中枢としてのモナド(いわば脳)を生み出すダイナミズムを説明している。

・このモデルに則りつつ ─ 仮に個々のモナドをクオリアによって閉じられた個々人の精神と読み替え、支配中枢としてのモナドを社会組織のリーダーシップと置き換えてみる。
すると、両者のネットを介したインタフェースや社会組織リーダーシップ生成のダイナミズムを少なくとも数理的には検証したことになる。
相互関係の閉ざされた個々のモナドが独自に閾値条件設定とインタフェース形成を続ける、そんなシステムこそが、常に安定した支配中枢モナドを生成する、という結果が顕在化している。

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・ネットによる「集合知」は、たとえばネオ・サイバネティクスの応用進化によりもたらされるモニタリングハード/ソフトの充足により、閉じられた個々人ユーザおのおのの経験と暗黙知と生命(つまり人生)を充足させる不定形の知性のこと。
そして、社会組織の問題解決に接しては、ネットの向こうの知識集積と、ネットのこっちの閉じられた個人、といった主従関係においてではなく、おのおの独自の出来る範囲にて互いに発揮しあう知性のこと。
そうである以上、ネット集合知はメインフレーム中枢処理系(第5世代コンピュータなど、いわゆるタイプI世代)による論理演算力の増強や、ネットインフラ分散処理(現在主流のいわゆるタイプII世代)によるアクセス効率化のみからはもたらされ得ない。

そこでこんご期待されつつ基礎技術の研究開発が進められているのが、タイプIII世代コンピュータ ─ つまり個々人ユーザの閉じられた知へのセンシング機能が充足してネット集合知を常時実現しうる、何らかの拡張型コンフィギュレーションである。

以上

2013/08/18

もしも僕が君だったなら(3)

さらに前回の続き。
論理はどこまで現実を説明しうるか、或いはし得ないかについて、現実をあまり分かっていない者として気軽に記しております。
※毎度のこと、本ブログでは問題設定が支離滅裂に見えましょうが、それはここでは特定の問題に対する特定のソリューションなど全く図っていないためです。
また、実社会の専業プロの方々を相手にテクニカルな議論を吹っかけている積もりもありませんよ、そうではなくて一般社会人や学生諸君向けに、思考のギアを敢えて外して楽しみましょうと、ギリギリでたらめ直前、それでも一応まともに見聞した内容の書き込みに留め措いている次第。

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① 嘘を吐いた人間にも、それが人間の観念や言葉である限りは、何らかの現実の裏付けがある。
そういう嘘つき人間たちの組み合わせ次第では、どんな嘘でさえもいつかは現実になりうるといえる。
どこか、おかしいですか?

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② 俗に、ブラック・ボックス、という。
たとえば、極めて解読困難な暗号関数キーをもって、データを暗復号化するモジュールを指す。
暗号関数キーの長さ、ないしは可変性などなどはその種類によっては解析に何億年(以上?)もかかるという。

しかし、そうであるのなら。
そのようなブラックボックスモジュールで「本当に」複雑な暗複号処理がなされているのか、或いはなされていないのか、誰にも検証出来ないではないか。
開発した業者自身、検証したのだろうか。
「本当はそこいらの陳腐な暗復号処理に留まっているに過ぎない」、ということはインプットデータとアウトプットデータから数学的に演繹は出来るかもしれない。
が、しかし、「解析数億年の暗復号キーによるデータ転換が必ずなされている」ということは、どうやって立証するのか。
敢えて例示を飛躍するが、たとえば超能力は存在しますかとの議論に近いと考える。

そのくらい、検証も立証も出来ますよ、当たり前じゃないですか ─ と専門家は言うだろうが、でもどうやってとは言わないし、言えない。

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③ 宇宙のなにもかもが、それぞれ独立し、相互に無作為に動いている。
ということは、逆に論じるならば、万物が作為所為において同期をとる瞬間もどこかに必ずありうる、と言えまいか。

本旨、表裏一体で正しいかどうかは、以前から時々ぼやっと考えて妙な気分になるところであるが、どうもこれは人間が考えるかぎり主語と動詞の定義によって変わるようである。
もし、主語が「この宇宙そのもの」であり、動詞が「とにかく動いている」とすると、これは常にたった一つの真理として正しい。

これを「論理遊戯」とするのなら、だ、人間の市場・経済も、法律も、こと財貨の価値の定義においては結局「遊び」でしかない。
自由競争経済においてもそうで、まして統制経済となると何をか言わんやである。
たとえば、主語を「全世界の原油」とし、動詞を「売れる」とすれば、この言質はいついかなる時でも何らかのかたちで正しいことになる。
ところが。
「昨日のサウジの日産1千万バレルの原油のうちで最も純度の高いポーション」が、「わずか5米ドルで採掘され、10米ドルでエージェントに売られた」と言語上定義すると。
これは極めて限定的なブラックマーケットにおける極めて一過的な取引ということになる。

昨日出来たんだから、今日ももう一篇まったく同一のディールを繰り返してみろ、と云われ、「さあ、そりゃあ実現可能性は非常に低いんじゃないかなあ」と現実に即して考えるのが理科的な着想。
一方で、「なんぼでも出来ますよ、先物契約で抑えちゃえばいいんだから、そうだ、政府から裏を回しましょう」と、論旨の表裏混同に便乗するのが社会科の着想。
理科センスの方が現実に即しており、表裏の論理遊戯に根負けしないようである。
知識や職業の問題ではなく、着想の問題。

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④ 世界的にミツバチのコロニー崩壊がおこり、ミツバチの個体数が減り続けているらしい。
アインシュタインはかつて、ミツバチが居なくなったら人間は数年で死に絶えるなどと予言?したそうで。
概況分析については数年前の慶應医学部の一般入試英語の読解でも取り上げられたとおり、受験界でさえも教科を超えて最も多く取り上げられる主題のひとつとなっている。
そんなだから高尚な話題なのだ、とまで言うつもりはなく、寧ろ普遍性の高い問題たりうると留め置きたい。

とにかく、ミツバチ減少についてはいろいろな解説がなされているようで。
いわく気温の変化が、いわく樹木の伐採が、いわく高速道路の建設が、いわく農薬が、遺伝子組み換え作物が、ウイルスが、電磁波が、太陽光線が ─ と諸説紛々、しかも複合要因として捉えるのが妥当なようである。
しかし、だ。
ミツバチの数がゼロになったら何が起こるのか(アインシュタインの予言通りとなるのか)、仔細の予測には至っていないようで。

なにより、減少し続けるミツバチに代わって、地球上で新たに「何か」他の生命/物質が増えたはず。
そして一方では同様に減っている「何か」があるはず。
だが、これらの増減について厳正に確認しようがあるのだろうか。
実際、ミツバチの死骸もあまり見つかっていないとのこと、それに人間のように自ら記録を残そうともしないミツバチのこと、その死を以ていったい何と入れ替わってしまったのか、現状分析はもとより因果確立となるとさぞや難しいことだろうなあ。

でも、どこの人間が困っているのか、どこの誰が得したのか、と人間の利害得失をつぶさに調べ上げることで、そこから何か…
…たぶんそんなこと無理だろうけど、だって人間の損得なんか常時変わっているんだからね。

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⑤ かなり強引なことを記す。
そもそも、生物の種は、生命組織の複合と収斂によってそれぞれの個体の巨大化が進むようになっているのか。
はたまた、生命組織の分岐と多様化によって、種のヴァリエーション拡大(生物多様性)が進むものなのか。
どっちかしか、ないでしょう?
ここで生物の存在要件を、「一斉絶滅からの回避」ととりあえずおいてみると、どういう理屈が成り立つだろうか?

仮に、生態系自体が変化し続けるのであれば、インプットがそれだけ多様となるわけだから、全生物の「一斉絶滅のリスク」はそれだけ小さくなると考える。
だから、それぞれの種の個体は世代とともに組織収斂と巨大化が進むはず。
そうなると、結果的に生態系そのものも単純化が進行し、どこかで均衡状態があらわれて、そのあたりでずっとそのままである。
あたかも財政のビルト=イン=スタビライザー機能が生命に備わっているがごとし。

だが一方で、仮に全ての生物の限界量が太陽などの外部エネルギー量インプットによって定まっているとする。
そうであれば、そのエネルギーインプットの減衰が起こったさいに、それぞれの生物種は「一斉絶滅を回避すべく」、世代を追って生命組織の分岐と種の多様化というアウトプットで応じ続けるだろう。
それで、生態系そのものにおいて、そういう具合にサバイバルのヴァリエーションが増大する。
なんだか、破綻寸前の金融機関がやたらめったらと金融商品を編み出しては売りまくるに似ている。

これで、とりあえずは、変化し続ける環境への適者生存~進化論も、一斉絶滅回避における随時調整の説明として成り立つ。
しかし、「生物の繁茂=巨大化」と「絶滅回避=多様性増大」が両立しなくなってしまう。
本当かな?
どこか、おかしいんだろうな。


以上


2013/08/11

もしも僕が君だったなら(2)

先のコラムの続きです。
どうも「論理」と「現実」の食い違いのあるケースには我々がしばしば辟易させられている昨今ではあります。
完結した「論理」などといっても、いったいどこまで「現実」を構成し得るものか ─ 本当は論理と現実はどこまでも食い違うんじゃないのか、などと諦観というかニヒリズムというか。
でもふてくされたりヒステリックになってみても、面白くもなんともありません。 
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① さて、今回もよく知られたパズルから。
大きな池に或る微生物が棲息しており、かつ、この微生物は「1日で個体量が倍になる」、とする。
さて、この微生物が最初の1匹から増え始め、ちょうどこの池の半分を満たすまでに50日かかったとしよう。
では、この池の残り半分が全て同じ微生物で満たされるのに、あと何日かかるか?

はい、あと50日ですなどという答えは理知的なセンスが低すぎますね。
1日で個体量が倍になるのですから、すなわちあと1日で池がこの微生物でいっぱいになります。

…というのが数学的な正解らしいのですが、本当ですか?!
この微生物はいったい何を食って増殖しているのでしょうかね?
もし個体量が倍、倍、倍と増えていったら、この池で食うものが無くなってしまうから、池いっぱいを占める前にかなりの個体が餓死し、どこかで均衡状態になり、もうずっとそのままなのではないですか?
いや…一方ではこの微生物がどんどん死んでいき、それが化学反応をして他の個体あるいは池全体の養分となり、それで生化学的なフィードバックとやらが働き、だからやっぱりあと1日で池の全てがこの微生物で満たされることになると?

ミクロコズム系とか生物多様性などという「閉ざされた系」の限界説とかで、こんな具合のことを説明された記憶があるが、どうも僕なりに理解していなかった、と再認識している。

さあ、こういうのは「とんち」の利いた常識問題に過ぎないのでしょうか?
いや、やはり科学パズルの一種といえるのではないでしょうか?
まさに現実と論理の一貫性が冷笑されつつある昨今の「ご時世」において、その一貫性の脆さや危うさを鋭く突くようなパズル本がどうして流行らないのか、不思議ではあります。

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② 或る大学入試問題にて出題された「英文解釈」の引用文、その結論箇所にて。
「地球上の生物種の過半は熱帯雨林地方に棲息しているという。とはいえ、熱帯雨林地方にどんな種が棲息しているか、具体的にはまだ分かっていない」

ここまで読んで反射的に大笑いしてしまった。
熱帯雨林に棲んでいる生物種の全貌を実際に捕捉していないのに、どうして全生物の過半がそこに居るなどと断定出来るのか。
ひどい英文テキストだなあ、たとえ理科の出題ではないとはいえ、こんな引用文を入試で出題してもよいものか…。

だが、ゆっくり考えてみれば、生物の全遺伝情報の組み合わせから逆算して、「全生物種の数をXと定義」出来るのかもしれない。
一方で、「既に熱帯雨林以外で判然としている生物種の数をY」とすれば…
「X-Y」が熱帯雨林の生物種数であると演繹出来る、かもしれない。
(本当かな?) 

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③ 今度は社会科の問題で。
と、いうことはつまり現実と論理が一致しにくい分野として。

昨今話題の集団的自衛権だが、これは「権」とはいっても当然義務もある。
権利だけ有って義務が無い制度など、ありえない。
ちょっと考えると、それは集団自衛当該国との共同防衛義務だということになろうし、その共同防衛義務の締結国に対し日本なりの防衛論をどこまでも突っぱねることなど出来まい ─ というのが集団的自衛権と憲法改正の主だった論拠であるようで。

さて、テロとの戦い、悪の枢軸との戦い、と、現代の戦争は少なくともその論理的な題目においては、「ヨリ大きな戦争を回避するため、小さな戦争行為もやむなし、それこそがリスクマネジメントだ」となっている。
リスクマネジメントであるから、大きなリスクを想定して大きな防護策を共有せよ、と主要国が迫ってくるのも当たり前。
そういう政策論理の先行に対し、現実(テクニカル)には日本こそがリスクマネジメントにおいて最も優れており、大戦争、小戦争どころか現実に全ての戦争を回避する能力が有る ─ と信じてみたいもの。
最も崇高な道ではある、と思う。

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④ さはさりとて、現行の憲法9条には反対である。
憲法9条は、あくまで平時の外国と日本の間に一線を引いたルールでしかない、と考えるため。
我々は(特に年配層は)一般通念として、「戦争に行く」という論理に拘りがちだが、現実としては「戦争が上陸して来る」ことをも十分に踏まえておかなければならない。
いや、本来そうであってこその憲法9条だが、だからこそ憲法9条は不完全と考えてしまう。

仮に日本が侵略攻撃を受けたとして、「憲法9条絶対論を主張する日本人のうち一定以上が手のひらを返したように侵略側に回る」、ということも十分に考えられる。
そういう「元・日本人」の連中にとってもはや日本国憲法など無意味、平然と武力行使を仕掛けてくるだろう。
が、それに対して、どこまでも日本国民を貫き通す僕らは積極的な武力行使による撃退が出来ず、どんどん後手に回り、いきなり殺されたり、主権領域を削り取られてしまう、となる。
こういう「元・日本人」つまり国内の敵と戦う羽目になる現実もふまえ、「生存権および自衛権の一環として」武力行使の自由を認めて欲しいわけで、だから軽機関銃かライフルあたりは持たせてくれよ。

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⑤ いわゆる「お金持ち」とは、年収が日本円相当で300億円以上の人々を指す。
年収300億円未満の人は、世の主要企業の経営を随意に操作するほどの能力が無い。
つまり、あくまで誰かのために働かされる貧乏人に過ぎないんだよ。
…と書くと、ほとんどの人は不愉快になる。
なんの根拠が有って、そんなことを書くのか??年収5億円ではどうして金持ちにならないのか、言ってみろ!
俺たちだって束になりゃ、大資本家をはるか凌駕する資産力があるんだ!
などなど。
もちろん、現実的な根拠なんか無いよ。
でもね、現実に束になる才覚も知性も無いから、おのおのがた、貧乏な小金持ちで終わっちまうのよ。
と、まあ、カネの話なんか、まさに論理だけではしゃいだり憤ったりしている例。

現実的には、世の中を随意に動かし得るのは何らかの具体的な力量で世界の上位100傑に入る人たちだろう。
こう言えば、不愉快になる人たちはあまり居ない。
バカバカしいこと、この上ない。

以上

2013/08/04

もしも僕が君だったなら

① 「もしも、僕が君だったら、僕ならこうするだろうなあ」
この論法は、現実としてはおかしい。
「もしも、僕が君だったら、君ならこうするだろうなあ」
これなら、正しい。
「その条件下では今の君に成り代って僕が君であり、その君ならこうするというわけで…」

論理とは、あくまでこういうもの。
現実と一致する場合もあるが、そうでない場合もある。

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② 有名な数学パズル問題をひとつ。
ひと組のトランプ52枚、それを全て並べる場合の数は、宇宙の誕生から現在までに経過した「秒数の総和」より大きいか小さいか。

とりあえず正解(らしき)を記しておくと、トランプ総並べの52!は驚くなかれ68ケタの数となる。
一方、宇宙誕生から現在まできっかり137億年とする。
その経過秒数は13,700,000,000 x 365 x 24 x 60 x 60 で、せいぜい18ケタの数に若かない。
だから、トランプ52枚の総並べ数の方が圧倒的に大きい。
(宇宙創世記の秒数は今の秒数とは違うよ、などと面倒くさい理屈は聞く耳は持たない。)

言わずもがなであるが、理科系の分野では論理と現実は同じ(そうでなければ理科とは言わない。)
放射性元素の半減期計算は論理、その算出論拠である元素の原子核や電子の放出は現実である。
だからウラン238の半減期が45億年!という話にしても、いつかは鉛になるんだよという説にしても、誰にも実際に確かめようがないものの、現実だということになっている。

しかしながら社会科の範疇においては、強引な論理がどうも現実とうまくフィットしていないケースを往々にして目にするもの。
その場合、人間の直感はどうしても現実優先、だから強引な論理の方がきっとどこか間違っている…という僕なりの懐疑的フォーマットで、近頃は社会科について考え続けている。

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② その社会科について、ちょっとした小テーマをひとつ。

つい昨日、最寄りの雑貨店で小ぶりの書棚を購入した。
簡素な木製合板もの、自家組立式で、書類置きとして使うだけの用途ではあるが、一応は3段式ラックである。
この値段がなんと!780円(7,800円ではないですよ)。
そこいらで適当な昼食一回分の価格とほぼ同じ。

そもそも「価値(あるいは効用)」でみれば、僕と一回の昼食の「価値関係」は、学生時代からほとんど変わっていない。
僕と木製ラックの「価値関係」もほとんど変わっていない。
ただ、「カネ換算の価格」でみれば、デフレや生産性の話となり、「カネ自体の価格」対「それぞれの財貨の価格」がバランスを著しく変動させ、だから昼食一回と木製ラックのカネ換算がたまたま一緒になった、としか考えられない。
このように経済には、「人間対財貨の価値関係」と、「カネ換算による価格」の二つの見方がある。
前者こそが、一人ひとりの現実だと言え、後者は暫定的な論理でしかない。

90年代半ばの生産技術と部品スペックで今のWindows8以上のパソコンを製造しようとしたら、おそらく50万円以上かかるらしい(もっとかかるかもしれない。)
ところが、現在の生産技術と部品スペックでなら2万円程度で製造出来る…ということは高校生でも知っている。
これは、人間に対するパソコンの価値が下がったわけではなく、パソコンのカネ換算が下がったに過ぎない。
そこのところ分かっているから、メーカは依然として新型パソコンを20万円で売っている(という論理も高校生は分かっている)。

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③ 先進国や途上国をいろいろ回った経緯があるが、貧乏人ほか、虐げられている人々はいつも、速く速く時間が過ぎることを祈っているようで、こんな時間は速く終わってしまえ、と念じている。
一方で、余裕のある人々は、出来るだけ今が永く続きますようにと願うもののようである。

…と、思いきや!
じつは興味深いことに、貧しい人々でもしばしば「今その時」を楽しんでいる。
つまり、貧しいかどうかということと、虐げられているかどうかということは、GDPや国民所得といった数値論理においては同一と見做せるとしても、現実には全く違うようである。

たぶん、これから豊かになるだろうと実感し得るか、もう絶望しかないと諦めるか、そこのところ。
つまり、数値化されていない本当の需要こそが、生きていく現実なのね。

だからこそ、今は一日あたり生産額が10ドルで生活している人間でも、現実に少しづつ収入が増えていけば需要が徐々に現実化し、本当に豊かになる ─ と考えられる。
だが。
一日10ドルの人間なんか、虐げられ続けているバカに決まっているから、どうせ何も出来やしない、と「論理的に見捨て」てしまえば、テロやマフィアやギャングの現実世界に逃げていくのではないか。

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④ 論理が先か、現実が先か…と我々はすぐにまた知識人ぶって逃げ道を探そうとするし、その行ったり来たりが出来ると知ればなんぼでも方便を使う。
でも、もちろん現実が先であり、しかも現実が現実そのものであり、さらに現実が結果であって、論理はいつも後付けじゃないか。

おそろしく巨大な楽譜があるとしよう。
そこに1世紀に一つずつ音符ないしは休符が書き込まれる、とする。
こうしていっぱしの音楽が完成するのに、1万年かかるとする。
さて。
これを音楽であるとすら気づかずに、ただ何かの音符を書き込んで終わるのが我々一人ひとりの人間の現実としよう。
一方では、これを1万年後に何らかの音楽として嗜んだり論評したりする者も居ることだろう。
皆さんは、どちらになりたいのか。
いや、何をどうしようとも前者にしかなれない。

以上

2013/07/05

なぞなぞピラミッド ④


さて、今回が4発目。


① 今から1万5千年以上前、最後の氷河期のころに陸上の氷河が多かった、その分だけ海水が少なかったとされる。
ユーラシア大陸と北米大陸を結ぶベーリング海峡は、じつは極端に浅いため、この頃にはほとんど陸続き状態となっていた。
かつ南方からの暖流しか入ってこなかったため、凍えることもなく歩いて渡ることが出来た ─ とされる。
そんな陸続きをたどって、モンゴロイド人種がユーラシア大陸から北米大陸へと渡り、インディオ、インディアン、エスキモーになった。

…という想定には、ひとつ大きななぞが残されている。
それは彼らが移動の過程でどうやって燃料を確保していたのか、いや、そもそも燃料の確保困難な氷河期の世界において、どうして人種ぐるみで未知の大陸へ移動したのか、ということ。
勝手な想像だが、じつは氷河期にもそれなりの木材がたくさん有って、ちゃんと暖をとれたのではないだろうか?

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② なお、この地続きの海峡を越えて移住していった(とされる)モンゴロイドのうち、エスキモーだけが犬を使いこなしていた。
犬は古代エジプト文明で人間との共存が始まったとされる ─ と、いうことは、犬を知らなかったインディオやインディアンはエジプト文明以前に北米大陸に移住したことになり、エスキモーだけがそれ以後に渡ったともいえるのでは。

ちなみにユーラシアからの移住者で一番古いとされるのが南米のインディオで、血液型はほとんどがO型であり、次が北米大陸のインディアンでA型が混じり、エスキモーにいたって初めてB型が混じる。
したがい、これらの移住期にはかなりの時間的なずれがあると想定される。

おもしろいことに、ラクダはもともと北米大陸に居たのが、なぜかユーラシア大陸に入り大型化した…と思えば南米へわたったラクダはリャマやアルパカになった。
北米大陸では、どういうわけかラクダが絶滅した。
こんなことを考えると、人類がユーラシアから北米へと一方通行で渡っていったという説すらも疑いたくなる。

関係ない、かもしれないが、ジプシーはインド北部から出てきた民族と想定され、なぜかヨーロッパ方面のみに向かって移住を続けていった。
自称・エジプト系ゆえにジプシー、こんなだから彼らのルーツを探るのは余計に困難となっている。

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② アイヌの霊世界が、日本文明の原形である、との説は根強い。
神(カムイ)も人間も動物もみな共通している(いた)という。
一神教の世界とは全く異質であり、なるほど日本的ではある。
日本語には「擬態語」が極めて多いが、アイヌ語にも擬態語は極めて多く、この傾向は他の周辺諸国ではみられない。

なお、アイヌには極めて鋭い感受性があり(あった?)、数日後に誰が訪問してくるかをあらかじめ察知出来るという。
その訪問者当人すら、予定を立てていないのに、である。

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③ タバコは、つくづく不思議な嗜好品である。
ニコチンは興奮作用を持つのに、飲用者の用途はリラクゼーションである。
この不思議な効用の研究者の名前を冠し、「ネズビットの逆説」とも言われるそうな。
どうも、タバコには外部刺激に対して体内に耐性をつくる効果があるらしい。
アイヌ人の世界では戦争が極端に少なかったが、それはタバコを吸うことでケンカを回避してきたため。

さあ、みんな、どんどん吸って平和にいこうぜ!
俺はマールボロ(赤)だ、吸って吸ってすいまくってやる。
どうせ、「タバコを吸っただけの理由で」肺がんになる確率はほとんどゼロなんだし。

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④ 歴史は必ずしも人智と並行して進展するわけではない。
コペルニクスやガリレオは地動説を唱えたが、教会から顰蹙を買った。
しかし、コロンブスやマゼランには何故かちゃんとスポンサーがついて、大航海を実現した。
それから1世紀が過ぎると、魔女狩りが本格化。

さらに17世紀に入ると、極端な寒冷期に入ったため多くの北方系ヨーロピアンが南下をはかり、カトリックおよびハプスブルグ勢力と30年におよぶ大宗教戦争を展開した。

満州民族が南下して中国大陸を征服したのも、17世紀前半であった。
気候寒冷化が原因で南下した民族は、ほかにも4~6世紀頃のゲルマン人やスラブ人など。

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⑤ 中世スコットランドの王、ジェームズ1世はよき君主として知られた。
約200年経って、その子孫は南下してイングランドの王位を奪い、新たなジェームズ1世と名乗って悪評を買い、その次に即位したチャールズ1世は議会をあやつるピューリタンの中産階級によって殺された。
17世紀前半の話である。

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⑥ 明治期の日本に逓信省(郵政省のもと)が出来た理由は、全ての男子に召集令状を速やかに配送するためだった。

主要な鉄道は、軍の所在地と港湾をつなぐために整備された。
軍事目的で鉄道を整備したのは、19世紀のアメリカやイタリアなど、例はいくらでもあるし、教科書をよく読めばこの程度のことはちゃんと書いてある。

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⑦ 1920年代後半から30年代、日本は「関東大震災」と「昭和恐慌」と「世界恐慌」の時期。
この期間に、2500行もあった日本の銀行が半分以下となった。
だが同じ期間、総預金量は変わっておらず、それどころか日本の工業出荷は倍増している。
ちなみに、当時の日本は治安が悪く、懲役囚人数は世界一、これが低賃金の一因ともなっていた。

経済とは得てしてこういうもので、人間が何を実現するかはやってみなければ分からない。

なお、この同じ期間に男子の大学進学率が1割から2割へ急増したのに、その多くが就職出来なかったため、世の中への憤怒と憎悪にかられた負け組のインテリが大量に産み出されることになった。
現在に至るまで、世代を超えつつまだ残存している。


以上

2013/07/04

なぞなぞピラミッド ③


調子に乗って、またまた書いてます。


(1) 宇宙で一番多い原子は水素であり、二番目がヘリウム、三番目が酸素である。
このうち、水素と酸素は化合物つまり水となり、これが宇宙で最も多い化合物となる。
だが面白いことに、ヘリウムは化合物とはならない。

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(2) いわゆる 「素数」 とは、それ自身および1以外の数字では割り切れないという数字。
2,3,5,7,11,13,17 ……と続き、みたところ極めて不規則にこの数字は続く。
何千ケタ以上もの、ものすごく大きな数になっても、やはり素数はありうるとされる。
とはいえ ─ これは10進法での表記だから不規則な羅列に見えるのであって、もし2進法や3進法で表記するのなら実は極めて規則性のあるものではないか?

…という話をある数学通の知人にしたことがある。
するとその人は、なにやら簡単な関数式を考え出しつつ、うーむこれなら如何なる素数でも一定パターンにおいて表現出来る、と仰った。
で、どうなったのか、そのごは分からないが、でも素数は最小の完全数つまり6で割ればあまりは決まっているような…?

素数というのは量としての実在なのか、それともそれ自体ただの論理でしかないのか?
もし量としての実在であれば、表現方法が10進法だろうが2進法だろうが同じ「もの」をさすことになるので、ならば表現方法は規則的でシンプルな方がよいだろう。
が、もしも素数がただの論理表現に過ぎないのであれば、10進法の素数と2進法の素数は全く違う論理とされ、仮に2進法バージョンで素数の表現を完結出来たとしても、皆が悩んでいる10進法バージョンの解決にはならない ─ と思う。

このあたりで、数学センスが問われるのかな。
というか、認識と解釈を個別に問われる、いわば哲学センスか。

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(3) 3つの数字を用いた最大の数字は、9の9乗の9乗。
…と書けば簡単だが、実際は3億6千万ケタを超えるらしい。


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(4)5世紀から10世紀くらいまで、ビザンツ帝国が地中海最強の海軍を擁していた。
ボスポラス海峡をビザンツ帝国の海軍が制圧しており、だからコンスタンチノープルは外敵から守られ続けた。
世界史における最大のミステリーのひとつ、有名なグリーク・ファイア(ギリシア火薬)は、「硫黄とナフサと石灰と水(!)の化学反応による強力な火炎放射器??」 とされる。
これを搭載した戦艦をもって8世紀初めのレオン3世はアラブ軍を撃退した、と言われている。

しかし、グリーク・ファイアの製法はビザンツ帝国が徹底的に秘匿したため、いまだに実態は謎のままである。

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(5) モンゴル帝国を爆発的に拡大させた軍事力は、地元の草原よりもむしろゴビなどの砂漠で鍛えられた。
数と機動力(速度)の差によって相手を倒す、ゆえに距離を克服踏破する耐久力が必須 ─ という戦略思想によるため。
実際に、パンジャブをすごい速度で越えて、インドに侵入したり。

ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国、もし本当に多くがモンゴロイド人種によるものだとしたら、優性遺伝形質が多いはずのモンゴロイドの末裔がどうして欧米の貴族階級やイスラーム諸国の上層部に見受けられないのか、不思議でならない。
(それとも、モンゴル帝国当時の連中は今のモンゴロイド人種と人種が違っていたのか。)

モンゴルの武将の多くは文字を読み書きが出来なかった(異民族の連携によるため?)ので、戦略は絵で示され、かつ個々の戦術展開時には号令や旗信号が用いられた。

現代のアメリカ海兵隊に至るまで、高度な情報処理系統と併せて、単純に図案化されたコマンドも活用されているが、それは咄嗟の行動能力を重視してのことである。

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(6) ナポレオンを撃退した英国海軍のネルソン提督は、船にひどく酔う性質だった。
死んでも大聖堂であるウェストミンスター寺院には埋葬されたくない、と言っていたが、その理由はウェストミンスター寺院がテムズ川に沈んでいくという噂があったため。
実際にはトラファルガー海戦で戦死した。

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(7) 若きアインシュタインが発表した有名な公式 E=mc2 について。
アインシュタインはこれにより、「エネルギー量(E)は 質量(m) x 光速(c) の2乗 である」 ことを意味したのだが、その時点で彼の関心はあくまで光速の証明であった。
さて、この式を見たある女性学者が、「逆に読めば 質量(m) はエネルギー量(E) に変わる」 と指摘。
それを聞いて、こんどは当のアインシュタインが驚いた。
アインシュタインはエネルギーには関心が無かったため。

以上