2012/12/20

まごころ

毛糸のマフラーを編みかけて、彼女はふと手をとめた。
どーれ、どんな感じかしら。
ああ…、やっぱり、よーく確かめてみると、ところどころ編み目にムラがある。
やっぱり。
これはダメね、と、彼女は少しだけ逡巡し、ふぅとため息をついた。
それから、別のマフラーを手に取り上げる。
こちらは既に以前から買っておいた、つまらない安物。
まあ、こんなところでいいわね、あの人にはこんな程度で十分、と彼女はひとりごちた。
それでも。
せっかくのクリスマスだし、このままではあまりに芸がないし、なんだか、かなしい。
だがその時、ああそうだと閃いたことがあって…そのまま約束のレストランに向かう。


レストランに着くと、彼女は入口からそっといつものテーブルを見やる。
居た ─ やっぱり来てくれたんだ、あの人。
俺なんかと話をしても、つまらんだろう、でも俺にとっては気晴らしになるから、まぁ付き合ってやってもいいぞ。
…などと突き放したような言い方ばっかり、でも一度だって私との約束をすっぽかしたことはないあの人が、真面目なだけのつまらないあの人が、いつものテーブルで待っている。
さぁ、そうなると。
彼女は隣接する喫茶店に素早く駆け込み、持ってきた安物マフラーを手際よく折りたたみ、それに結構な値札を巧みに取り付けて一流百貨店の包装紙で包み、丁寧に封じて、はい…これで一丁前の高級ブランド品が出来上がり。
ごめんなさい、ごめんなさい。
誰に、ごめんなさい?
私に、こんな卑怯な私に、と早口でつぶやきながらも、もう一度包装の具合を確かめる。
そして、注文した紅茶が来る前にさっと立ち上がって勘定だけ済ませ、それからあらためてレストランに入っていく。


こんばんは。
やあ、メリー・クリスマスだね。
お変わりなく?
全然。
ねえ、プレゼントがあるの、と彼女はバッグの中から包装を取り出す。
これ、上等な毛糸で編んでいるマフラーなのよ、ちょっと捲いてみてよ。
ふーん、どーれ。
彼がぱさぱさと包装紙を開き、値札をちらりと一瞥しつつそのマフラーを首に捲くさまを、彼女はじっと見届ける。
大丈夫だ、分かりはしない、バレやしない、この人がいちいち細かいこと詮索するはずがない。
わぁ、本当だ!と、首にふわっと捲きつけた彼が、高い声をあげた。
これは暖かいなぁ、それに、高級な肌触りだ。
…でしょう、そうでしょうね、そうよ、そうに決まっている。
彼の顔がすこし上気だっているのをみとめ、彼女は胸のうちで一瞬だけうわーんと泣き声をあげて、それでも平静をつとめながら、もうちょっと大人っぽいデザインの方がよかったかしら、とか、でも人気商品みたいであまり洒落たものは残っていなかったのよ、などと口ごもった。

す、と彼が制した。
なあ、俺の方もプレゼントがあるんだよ、と、今度は彼が少しだけ口ごもった。
そして。
あのね、毛糸の手袋なんだけどね、これ。
彼から差し出されたその包装の具合を見とめて、彼女は思わず吹き出しそうになった ─ ああ、これは…こんなデタラメな包装があるわけがないじゃないの!
なんという展開だろう。

彼が、次第にしどろもどろの早口になる。
あ、あのさ、店員曰く、だね、これはなかなか凝った編み方なんだってさ…ほらこれからもっと寒くなるかもしれないだろ、だからね、そりゃあまあ多少は高かったんだけど、でもせっかくのプレゼントだと思って、思いきって買ったんだよ…。
うん、そうね、うん、と彼女は上ずった声を押し隠そうともせず、半分ちぎれた値札が不器用にくっつけられたその手袋を取り出した。
指先から、奥までぐっと差し入れる。
あぁ、本当だ、本当に暖かい。 
彼女はしばしうつむいたまま、泣かないぞ、泣くもんかと心中懸命に叫び続けた。
自分のためじゃない、彼のために…だからこそ泣かない、泣いちゃいけないんだ!
それでも ─ やっと彼女は顔をあげて、彼をまっすぐに見つめた。
あっ!
彼もまっすぐに彼女を見つめていた。

ああ、もしかしたら。

もしかしたら、虚構のうちにこそ本当のことが込められているのかもしれない、そのことがお互いに今のいままで判らなかったのかもしれないし、いちいち確かめようともしなかったのかもしれない、ということは彼にも分かっていたのかもしれない
…だから、だから、もしかしたらこういうのが。

こういうのが無償のまごころのようなもの、かもしれないなぁ ─ と呟いたのは彼の方で、それからさらに、なんでもないよ今の言葉は無意味だ、なんでもないから忘れろよ、といつもの彼に戻った。 


突然、店長が現れて、びっくりするほどの大声で挨拶を始めた。
皆様!今宵は私ども特製メニューを数多く取り揃えております、どの品も通常の半額料金で結構でございます!
半額じゃぁ、おたくらも本気にはなれないだろう、と誰かが冷やかし声をあげた。
いいえ!と店長がいよいよ高らかに続けた ─ 今宵はとびきりの料理を皆様に食していただきます!私どもがそう決めたのです、これからただちにとりかかります!さあご期待あれ!

おわり

2012/12/12

おもしろゲーム


先に海を越えていく鷹についてちょっと載せてから、もやっと考えていることなんだけれども。
たとえば、『渡り鳥』というゲームはないものかな?
(たとえば)グーグルマップみたいなのを起用しながら渡り鳥の渡航ルートを探りつつ、うまく着陸地点に先回りして給餌出来れば1ステージクリア、というゲームを作る。
だんだん難度が上がっていき、幻の火の鳥かなにかの複雑な飛行ルートを計算させてみたりして。
まあ、こういうのが有ったら、生物科のファンのみならず多くの学生などが面白がってくらいついてくると思うんだけどねえ。

ゲームの本質は、プロセスにおける不確実性の高いスリル、試行錯誤の末の問題解決と、様々なパラメータの増加…といった要素を加味しているということでしょう。

似たようなものでは、女性客の行動パターンを先読みして品揃えと売り場配置を工夫する『ザ・バーゲン』とか、童心に帰って『凧揚げゲーム』とか。
もっと大胆に気圧配置から天候を当てる『予報でGO! 』とか『惑星探査ゲーム』とか。
ああ、そうか、こんな程度のものはもうとっくに出回っているんだろうなあ。

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ほのぼのとした家庭向け、仲間内向けのやつでは、『おにぎり』というゲームがあったら面白いかもしれないよ。
中に梅干とか昆布とか入れて、海苔やとろろで巻いて、相手に食わせる。
相手が「これはおかかが入っているね」と憶測し、いや実はタラコだったよ、ざーんねん、当たっていたらもうひとつ…
だったらサンドイッチというゲームだって出来るが、まあそんなことはともかく、もっと発展形で『回転寿司』というのはどうかな?
板前を雇い、新鮮なネタをしこんで、ベルトコンベアに並べていくゲーム。

『朝顔を植えよう』みたいなガーデニングゲームとか、『熱帯魚』とか『セキセイインコ』とか『餌やりさん』とか、思いつくまま挙げていけば、ゲームの題材などいくらでもありそうだ。
 
ちょっとドギツイやつでは、タバコの銘柄によるパチスロって無いのかな?
たとえばシガーは高得点、マールボロやラークは中得点、ゴールデンバットはスペシャルフィーバー、などなど。
パチスロやってると(たまにだよ)、どうしてもタバコ吸いたくなるでしょう? 
だからシチュエーションにぴったりフィット、実際にタバコ吸いまくるユーザーが増えるでしょう。
こういうのを営業センスっていうんだよ。
子供が遊ぶかもしれないから、ゲーム化は難しいかな?

それにしても、『年末ジャンボ』とか、『マルコ=ポーロ』『百人一首』『阿倍仲麻呂』などのゲームは実際に数学や歴史の学習効果があるから、もっと普及しても面白いと思うんだけどなあ。  
…と、ここまで発想が拡大すると、必ず出てくるのが著作権うんぬんの問題だろう。  

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著作権うんぬんについて考えると、もう面白くもなんともないので、さらにいろいろ思いつくまま。
じつは前々から、あったら面白いのになぁと思っているゲームがあって、実在するかどうか知らないが、ずばり『忠臣蔵』
松の廊下、復讐計画と藩士説得、吉良邸マップ入手、襲撃決行、諸藩の絶賛と歓待、武家体制と切腹処分といったステージがあって。

いや、これは実話に基づいているからゲーム化はちょっと…ということになるのなら、信長の野望も第二次大戦シミュレーションもゲーム化は出来ないということになろう。
だから『カミカゼ』という戦艦撃沈のゲームも、(特攻機の側であれ、戦艦守備側であれ)実現は難しいのか。
けして悪ふざけのつもりはなく、戦闘ものとしては普通の銃撃戦などをはるかに越えたスリリングなゲーム化が可能だと考えているんだけど。

復讐物としては、『モンテ=クリスト伯』というのも面白そうで、これは忠臣蔵やカミカゼとは異なって実話ではなさそうだから、ゲーム化も比較的簡単なのではなかろうか。
それでも著作権が、となるのだろうか。
ともあれ、言わずと知れた巌窟王、流刑の島で掴んだ財宝を元手にして、かつて自分を陥れた成り上がり連中を経済的にどんどん追い詰めていく…と、まあだいたいこんな感じの蓄財ゲーム。
フランスは音楽や徒党ムードがどうも気に入らないが、小説はとてつもなく豪放でダイナミックな展開のものが多いので、ゲームにしやすいと思っている。
 
同じくフランスもので、これも前々からぼやっと考えているのだが、『ルパン』 というゲームも有るのだろうか。 
虚勢ばかりの卑怯な金持ちからどんどん盗みまくり、貧しい女たちを救い、ルパン結社を拡大していくという大冒険ゲームだ。
警視庁ガニマル警部を騙しながらの大盗賊、数々のミステリーと冒険、外人部隊への志願、アメリカの黄金秘境探検からシャーロック=ホームズとの対決に至るまで、エピソードには事欠かない。
やっつけてステージ完了、じゃなくて逃げ延びてステージ完了というのが『ルパン』ならではの仕掛けで、面白そうだと思うんだけどね。 

しかし泥棒ものでも、『オレオレ』みたいなのはいただけない、弱い老人ばかりターゲットにしているのが全くけしからん。 
こんなものゲームにしてはいかん。
まだ『ラスコリニコフ』みたいなゲームの方が、哲学性が高いものになろうか。

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そういえば、『衆議院選挙』というゲームも面白そうだ、実名あげなければどこからも文句出ないだろう。
あなたは○○県の△△選挙区から、もしくは比例代表区から、国会議員を目指して得票活動に奔走します…マニフェストは減税、原発、TPP、米軍基地、高校無償化などから3つまで選択可、修正も可、無所属も可、期日前投票オプションあり…さあ現職を打倒して見事当選を果たしましょう!
こういうゲームって、「ふざけるな」と衆議院から叱られるのかな。
…というより、なんだかよく考えたら凄く不快なゲームだから却下。
『大統領になろう!』とか、似たようなもんか。

まだ『発電所をつくろう』とか『地下鉄の統廃合』などのゲーム方が理知的で面白いと思うけど、これまた「ゲームとは何事か」と叱られてしまうのだろうか? 
セキュリティ上もダメ、工業所有権でもダメ、著作権上もダメ、道義も無い、となると、ゲーム化はどうやっても無理なのだろうか。
密かに作っている奴らは、どうなるのだろうか?

いや、市販のゲーム化が出来ないということであれば、だよ、うちうちでそういう「すごろく」みたいなのを作って「ここに200,000 kWの火力発電所を設置します」などと「無償で」遊ぶのもダメなのか。
それどころか、軽々しく日常の冗談の俎上に上げることすら出来ないわけか?
ほーら。
このあたりから難しくなってまいりました。
僕はもうどうでもいいけど、 これは十分考えるに値する問題ではなかろうか。

以上

2012/12/09

女子は放っておけばよい? ②



(1) いや、もう、ともかく、こっちが何言ったって話半分しか聞いてないんだから。
女子というのは、なんだか一人でモゴモゴ言っているかと思えば、すぐに皆が同調してモゴモゴ言っているわけで、そういう共有力というか常識力というべきか、むしろ男子よりも優れているんじゃないかと思われるので、放っておいたほうがよいや、ということになる。

男子は成長するに従い、なんでも「人間以外のもの」に分解し、還元し、まあモナド単子とでもいうべきか、そういうレベルにまで落とし込んで、それから厳密に是非を判断したいんだけどね。
だからどうしても理屈だけになりがちなんだよ。
それで気位が高いとか口先だけだなどと、女子に批判されたりするんだけど、もちろん特段気取ったり威張ったりしているわけではない。
一方で、女子はつくづく逆だね、いつでも、全部、何もかも人間ありきで、人間単位で考えているようだから、人間の常識力が高くなるんじゃないかしら。

常識といえば。
女性は地図が読めない、とか、男性は外国語が苦手だ、とかいうが、これはたぶん正確ではない。
女性は地図が読めないのではなくて、たぶん自然環境や居住空間などが地図に記号化されているのが嫌なんじゃないかな、と察する。
その証拠に、地図がなくても皆でわさわさと群れて移動しながらちゃんと目的に到着してしまう。
いくら適当な嘘を教えても、どういうわけかちゃんと束になってやってきやがる。

(一方で男性は外国語が苦手なのではなくて、知識を詰め込むのはきっと女性よりも得意だが、自分の納得出来ないことや関心の無いことを読んだり語ったりするのが苦痛でたまらないから、出来るだけ黙っているのに過ぎない。)
    
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(2) しかし。
放っておけばよい、では済まされない時代がじきに到来するのではないか、と男性として心配もしている。
女性たちによる世界侵略が、徐々にではあるが確実に進行しているのではなかろうか。

既にその予兆が多く顕在化している。
たとえば、予備校や健康サークルや家電量販店や旅行代理店はじめ、サービス産業の多くは、女性のクチコミというものを極めて重視している。
それは、クチコミは必ず正しいと女たちが信じていて、だから本当にクチコミが正論になり、それでいよいよ女性客が増えるからなんだね。
そういう女たちの相乗効果を大いに期待して、広告が女性客向けのものになったり、○○ネットみたいに女性向けに耳障りの良いトーンで「これらぜんぶあわせて、なんと2万円ですよ!みなさん!」などと喋ってみたり。
それどころか、営業そのものも女性に任せるのがよい、ということになる。
いつかも書いた記憶があるが ─ (特定の技術製品や危険物は別として)、汎用品でかつ数の勝負が問われる製品やサービスは、絶対に女性が営業したほうが良い。
そういう量販型の製品やサービスは、女性が女性と価格交渉や納期交渉をした方が、早く一気にまとまるに決まっている。

じじつ、そういう産業が時代をおうごとに増えているんでしょう?
サービス産業が増えていき、消費がGDPを占めていくという現代の一連の経済ダイナミズムは、みんな女性向けのシフトなのではないか?

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(3) …という圧倒的な奔流について、大半の企業もとっくに気づいているから、女子採用はどんどん増えているだろうし、これからも女子の消費購買層の拡大とともに女性中心で運用されるサービス業が増える。
そりゃ確かに、雇用機会「均等」の見せかけ上、採用条件で「女性のみ可」などと記せないもんだから、しぶしぶ男子も募集しているが、男子の応募書類などは人事勤労部門が予算消化のために仕方なく右から左に転がしているんでしょうよ。
で、いやいやながら男子の応募者とも面接なんかしちゃって、終わったらとっととシュレッダー行きじゃないかな、と睨んでいる 。

もちろん、この傾向がずっと続けば、とりわけサービス業などはおそらく大半が女性従業員だらけになるし、そうなると企業の法務も総務も人事勤労も女たちに乗っ取られるから、労働協約も服務規程も女性向けにどかどかっと改編されるだろう。
そして…いずれは政府も裁判所も女たちにジャックされ、労働基準法そのものの大胆な改編にもつながろうか、と想像したりする。
そうなると生理休暇どころか数年に亘る育児休暇取得も当然のごとくで、かつ女性の方が高給取りになっていたりして。
そこで、男性がそーっと小声で非難でもしようものなら、女たちがガーガーと何十人も束になって、「何言ってんのよ!彼女が居ない間あんたが徹夜して頑張ればいいじゃないのッ!男だったらそのくらいしなさいよッ!」 などと吊るし上げのリンチ状態か。
これは考えるだけでもうんざりする情景だぞ。

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(4) どうしてほとんど議論されないのかしらないが、(おそらく男たちが必死になって隠しているのだろうが)、未来予測の最大のポイントは、女性たちが需要面も供給面も牛耳ってしまう恐怖の世界の実現にあろう。
文字通り、世界的に経済成長(=規模の増大と機会の拡大と対人品質の向上)に従い、こういう展開が予想される。
そうなると、「外国の女性はもっと男性に尽くしているよ、黙って低賃金労働に耐え忍んでいるよ」 などと言い返すことも出来なくなる。 
ああ ─ どうしてこんなことになったのだろうか。
やっぱり女に参政権を与えたり、大学に入れたり、雇用機会均等法などを通したりしたのが間違いだったのではないか。

それでも。
男性のように、「本当にこれで、正しいのだろうか」 「俺はこんなことで、よいのだろうか」などとひとりひとりが真摯に自問自答してくれれば、まだ女たちに「懐柔」や「買収」を仕掛ける余地もあろう。
しかし女たちには 「本当に」 も 「よいのだろうか」 もへったくれもないわけで、とにかくワーワーと多勢にものを言わせてなんでも通すだろうから、騙しようがない。    

古来、フランス革命や米騒動などのように女たちがワーワーと暴れて、男性の美しき秩序を破壊してしまった例は多いという。
数十年前のアメリカ大リーグでも、労働者の女性たちを無料で観戦に招待してやったら、ワーワーとものすごく集まってきて、もう試合展開などいっさい無視、ファンの選手にひっきりなしに嬌声をあげたり、ものを投げ込んだり、椅子を壊したり、挙句に集団ヒステリーを起こして球場を燃やしたり 
─ という戦慄の記録が残っており、だから女性感謝デーのようなものはスポーツではタブーになっている。 
してみると、中国の女性の纏足というのは実は偉大な叡智であったのかもしれない。
そういうこと分かっていて、20世紀後半になってから女たちを野放しにしてきたのはどういうわけであろうか?
もう、手遅れなのであろうか?


以上

 

2012/12/02

生物科のヒント? ─ 海を渡る鷹


たまたま、放送大学講座をテレビで眺めていた。
放送大学の講座の大半は、放送時間枠の都合からか、あくまで一般教養のレベルで既存の学術のフォーマットを概説するに留まり、さほどアカデミックな分析も飛躍もなされぬため概して退屈。
が、中には想像力を存分に刺激してくれるものもある。
そのひとつが、鷹の飛行ルートの研究についての講座。 

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そもそも渡り鳥は、鷹のような大型の猛禽類もふくめて、驚くほどの距離を飛行し(数万キロにも及ぶ)、しかも季節に応じて一定のルートで往復している。
この飛行ルートを研究している分野があり、実践的なスタディが進んでいるという。
さて、ここで、ある鷹に「電子タグ」をつけて、人工衛星経由でその飛行ルートを追跡してみる。
いやぁ、この追跡データは本当に面白い、下手なゲームよりもよっぽど面白い鷹のグレートジャーニーである。

ハチなどを捕食するこの鷹は、飛騨山中から西へ、西へと数日かけて徐々に移動し、やがて九州最西端に到着する。
そして、どういうわけか?この鷹は東シナ海をノンストップで一気に飛行して横切り、中国に入るとまた数日かけて徐々に、徐々にと陸伝い、そうやってミャンマーに入る。
そこでまたまたどうしたわけか、1ヵ月以上そこで滞留しほとんど移動しないらしい。
それでもやがて、鷹は何かを思い立ったのか、タイ、マレーシアと半島伝いに数日かけて南下し、インドネシアまで到達する。

さて、季節が変わる。
この鷹は今度は逆ルートで帰ってくるのだが、(いや、帰ってくるというよりむしろ日本にやってくる、というべきかもしれないが)、このリターンジャーニーのさいにはまた陸地を数日かけて徐々に飛行し、なんとこんどは朝鮮半島北部まで辿りつく。
そこから、また海をノンストップで渡り、九州西端を経て飛騨山中まで飛んでくる。 

もちろん、ここで最大の「謎」は、東シナ海のノンストップの飛行である。
餌場の無い海の上を、いったい何故に超えていくのかということ。

たかが鷹に、どうしてそこまで拘るのか、と思われるかもしれない。
しかし、何しろ人間をはるか超越したその行動距離、その特定の行動パターンであって、これに着目しないほうがどうかしている。
だったら他の渡り鳥でもいいじゃないか、と言われるかもしれないが、でもとりわけ鷹に注目したくなる理由は、鷹が鳥類の中でも図抜けて能力が高い(つまい賢くて強い)から、かつ、群れではなくたった一羽だけでも飛んでいくからである。

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で、ここからが科学的な?想像力の出番である。
いや、むしろ科学というものは実は想像力と実証の連続であろう ─ かもしれないが、科学的な素養などほとんど無い僕であるから、ここでは好き勝手な想像力だけを発揮して記しておく(笑)
ゆえに、この想像力が科学的な触発たりうるかどうかは判らない。
ともあれ、想像力を刺激する疑問点を収斂すると; 

(1) 鷹は何を認識しながら長距離を飛行するのか
(2) 鷹は何を遺伝的に記憶し、それは何を意味しているのか
(3) なぜ、強い個体なのに遠距離を移動する必要があるのか


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(1)については、鷹の体内に磁場のセンサーがあって、きっと太陽や星座の位置を把握し、それで方位が判るのでしょう、とか。
まあいろいろ仮説ないし実証はあるようだが、それは方位認識の説明ではあっても、「なぜわざわざ海を超えて飛行するのか」についての説明にはなっていない。
ハチを捕食する鷹が、なぜ?海を超えて?
なんというか、人間には客観的に捕捉しにくい要素、たとえば餌のハチの微妙なにおい、周波数、などなどを、鷹ははるか海の向こう数百キロ以上も離れて感受し、それで一気に海を超えていくのかな、とも想像可能。
いや、遠距離を直接ではなくとも、他の生物種から間接的にハチの状況を感受していることも想像してみたくなる。
しかし、基本的に一羽だけで行動する鷹が、他の個体や他種の生物からどれだけ影響を受けるのか?
   
なるほど、たかが野良猫でさえも、時間感覚や嗅覚においては人間をはるかに凌ぐ。
ミャオーゥしか喋れないくせに一丁前に縄張りがあって迷子にはならないし、メシの時間を覚えているし、「やさしいお姉さん」と「いやなやつ」の区別が出来ている。
まあ、人間には判らないが、動物は独特の電磁波(脳波も含めて)などを感受しているのは確かなようで。
鷹ほどの生物ともなれば、 気候や気温や磁場に影響されているのかもわからないし、CO2の微妙な濃度差を感受しているのかもしれないし、太陽の黒点の位置などに関係しているのかもしれない。
しかし、だ。
それにしても、一体何故この鷹はインドネシアから更にオーストラリアやインド方面までは飛んでいかないのか。
ヒマラヤ山脈などが、捕食するハチの種の断層となっているのだろうか。
と、なると、むしろハチや他の昆虫種の分布を分析したらどうなるか、と想像力はさらに飛躍する。 


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…という具合に、(1)について実証もなしに本投稿は次に進めちゃうわけだが、ともかく(2)については、もっと多元的に想像力を触発される。 
なにしろ鳥類は恐竜の生き残りだとされるほどの、古いふるい種族なのである。
その「古さ」に着目する。
すると、たとえば日本と大陸がまだ地続きだったころに餌を求めて飛行したその記憶が、この鷹の遺伝子に残っているんじゃないか、と想像が出来る。

いわば、飛ぶ化石のごとし、否、化石どころではない、現に今も生きているんだからね。
事実、化石は放射性同位体の半減期の電子数変化から?その年代記を推定しているらしいが、実際にこの鷹の遺伝子に基づく行動を精密に峻別し、分析し、そこからかつての在り様を逆算出来たらどうなるか。
能ある鷹は爪を隠す、というが、爪や嘴や眼や羽毛が古代から現代までの多くを語ってくれそうな気がする。
そうなると、もう化石の年代記どころではない。

むしろ地球史の宅急便というべきか。
この鷹がはるか遠い祖先から受け継いだ遺伝的な長距離飛行パターンによって、はるか太古の地表の条件、大陸の分布、CO2の量、植生や昆虫の分布や、気候変動の実相や地磁気の変化すらも分かる、かもしれない。
と、いうことは。
これからの地球がどうなるか、磁場がどうなるか、環境や気候がどうなるか、それら将来像もあわせて判るかもしれない、ってことじゃないか。

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…と、ここまでは何だか当たり前っちゃあ当たり前のことばかり書いていて、大した想像力も動員していないのが申し訳ない。
だが (3)についての疑問も、やっぱりありきたりの疑問でまとめてしまうところが、素人というか門外漢の限界なのであって、まあ許して下さいな。

とりあえず、鷹の鷹たるゆえんは、おのおのの個体がとにかく強いので、群れる必要がない、というところ。
であれば、長距離を移動する必要もない、と、とりあえず考えてしまう。 
また、群れないから他の個体と共鳴しあったりする機会も少なく、だからリョコウバトのように群れて長距離を飛んでいくことはないのだろうな、とも思い当たる。

ここですぐに連想してしまうが、人類の祖先であったネアンデルタール人は個体としての腕力があまりに強かったので群れることがほとんど無く、それで環境変化に対応するだけの知性を醸成出来なかった、という。
と、なると。
群れない強者というのは進化における発展形なのか、それとも退化のステージにあるというべきなのか、むしろ判らなくなってくる。
また、強者はすぐに地元のボスに居座れるから、なおさらのこと、遠距離を移動する必要などなかろう、とも考えられる。
が ─ 或いは強いからこそグルメであって、だから海を超えてまで美味しいハチを捕食しに出かけるということはないのだろうか?  
さらに。
鷹は群れない、という観察にしても根本的に間違いで、実は鷹同士の地球規模のチームやネットワークがあるのだが、それがあまりにも広域過ぎるので我々にわからないのかもしれないぞ。 

鷹が適者生存によって、その個体の在り様を太古から変えてないとするのなら、上の(2)も大いにスタディの意味があろうけどね。
でも、もし逆に適者生存ゆえにその行動や姿形を著しく変容させてきたのであれば、鷹といえども所詮は自然界の気まぐれの落とし子でしかなかったということか?
そして絶滅から逃れるために、必死になって試行錯誤を繰り返し、その結果として東シナ海を渡ってまで餌場を探し当てた、と?
そうであれば、鷹の遺伝子は古代の地球史をほとんど何も引き継いでいないことになり、(2)についての検証の優先度は低くなってしまう。

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と、いうわけで、興味関心のある人は(1)、(2)、(3)などなど、いろんな観点尺度にのっとって、どんどんスタディしてみては如何?
僕はいろいろ想像空想してみたので、もう満足です、あとは知りません。
 

以上

2012/11/01

スコットランドのささやかな思い出

※「偶然」と「必然」について、分かりにくいという指摘を頂いたので、これらを個別観念ではなく物事の「捉え方;偶然としての個別事象か連続としての必然経緯か」と再定義し、少しだけ書き換えました。
 

およそ若い時分というのは、偶然と必然の区別が無い ─ というか、起こることや見聞きすることの全てが自己の 「偶然」 。
それらを極めて短期的に宿命とか誠意などといって自己をストイックに縛り付けるくせに、それでもちょっとしたことにいちいち手放しで喜んだり、と思えば今度は憤激したり、つまらないと分かっていてもどっぷり浸かり、ああこれがつまらないということなのか、なるほどなるほど、またひとつ利口になった、などと。
僕ももちろんそう(だった)。
すべては、どれもこれもが偶発的なぶっつけ本番にしか映らず、その長いながい必然的な連続プロセスとしては捉えようとしないのだから ─ なんと、実直な…。

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パースは、スコットランドの中世に繁栄した旧き首都であり、エディンバラから列車でさらに2時間ほど北上したところにある田舎街。
なぜ、どういう理由から思い立ったのか、もうさっぱりおぼえていないが、ともかくまだ大学3年生だった僕が駅からパースの市街地に降り立ったその朝は初春のうすら寒さ、確かどんよりと曇った日だったと記憶している。

ふらりと遺跡など探索しかけて、僕は 「キンヌールの丘」 のたもとに辿りついた。
川が大きくゆったりと流れていた。
その川辺に、初老の紳士、S氏が偶々散歩していた。
紳士、とはいっても、質素な濃紺の毛編みのカーディガンをさりげなく着こなし、何か饅頭(ハギスだとか称するもの)をかじりながら、そぞろ歩きの風であった。
僕はちょうどその時、腹が減っていて ─ 朝からろくなものを食べてなかった ─ だからその饅頭をひとつ1ポンドで2つくらい売ってくださいなどと申し出た記憶がある。
「美味くないぞ、こんなもの」
S氏が目を細めながら答えた。
そんなところから会話が始まり、 タダで譲ってもらった饅頭はなるほどお好み焼きとブタまんの混ぜこぜのようで美味くもなんともなかったが、ともかくも僕は軽く挨拶し日本から来た学生なのだと自己紹介した。
そうだろう日本だろう、俺には分かるんだ、君みたいな正直なやつは日本人だろうさ…などとS氏はだんだん相好を崩し、いやぁよく来たね、ここはいいところだぞ、本当のブリテンのハートへようこそ、などと語り始めた。
さらに曰く、彼は電気技師で、セールスの取りまとめの仕事もしている由であった。

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しばらく川辺でS氏と話しているうちに、彼がサッと腕を挙げて、「おい、このキンヌールの丘にのぼってみようぜ、いい景色だぞ」 と言い出し、僕が快諾するや否や彼はびっくりするほどのスピードでダーーッッと丘を駆け上がりはじめた。
とっさに、僕もすぐあとから追いかけた。
ほんの1分くらい駈けあがっただろうか、彼が振り返りながら 「君、疲れてないかね?」
「全然、平気です」 僕は少しムッとしつつ、悔し紛れに答えた。
「それなら結構」 と言い放つと、さらに彼はまたどんどん駆け上っていった。
いやもう、彼の健脚ぶりのすごいのなんの。
僕も体力には人並以上の自信はあったのだが、ハァハァと息せき切りながら追いかけていくのが精一杯で、まあそんなふうに走って、ちょっと休んで、また走って、休んでを繰り返しつつも、ようやっと丘の上に辿りついたのだった。
そこから川をあらためて見下ろすと、大きくうねりながらゆっくりと流れていたのがあらためて分かった。
「絶景だろう」 S氏が静かに言った 「俺は休日はいつも、ここへ来るんだ」
「そうですね」 肩でフゥフゥと息をしながら僕は相槌をうった。

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丘を降りると(そのときもまたS氏は駆けていったのだが)、S氏は川辺の停めてあった自分の車の前で立ち止まり、さぁ市内を案内してやろうと申し出てくれた。
いやぁ、そりゃいくらなんでも通りすがりの旅行者の分財で甘え過ぎか…ちらっと逡巡したが、でもその日は休日で、それに、俺はマネージャだから仕事しなくてもいいんだよ、さあ乗った、乗ったなどと催促されたので、好意に応じることにした。

それは業務車両で、予想通り少し乱暴にブワンと発進した。
「ここは、そもそもどういう街なのですか?」 少しがたがたと揺られる車上車上で、僕は尋ねた。
「かつてイングランドと戦った偉大な街だ」 S氏が答えた。
「でも、スコットランドの首都はエディンバラですよね?」
「エディンバラはスコットランドではない!」 S氏が敢えておどけたような大声をあげたので、僕はちょっとびっくりした。
「エディンバラはイングランドだ。あそこにはハートが無い。ビジネスだけだ」
「でも、イングランドとのビジネスがあるからスコットランドだって得があるわけでしょう?」と僕は続けて尋ねた。
「ちょっと違うな、スコットランドはビジネスでいつもイングランドのために犠牲になってきたんだ」
「どういう意味ですか?」
車は次第に街中に入っていった。
「いいか、君ね、俺のような普通(decent)の国民のいうことをよく聞くんだ」 S氏は少し声色を落とした 「スコットランドはね、日照時間がイングランドよりも短いんだぞ」
「はぁ」
「イングランドに合わせて生活させられるのは、不利なんだ、朝早く起きなければならないし、法律もイングランドに従わされるし、それに若いやつらがどんどんイングランドに流れていく」
そうすると、、どういうことになるのか、僕にはどうにも具体的なイメージが湧かず、だから黙っていた。

S氏はハンドルを握り、前方を見据えたまま、それでも妙に陽気な声で語り続けた。
「犠牲にされてきたのはビジネスだけじゃないぞ。かつてグレートブリテン帝国を軍事的に支えたのは俺たちの祖先の血だ、イングランドの奴らじゃないんだ。だから我々スコティッシュがイングランドから独立してもいいんだ、そうだろ?俺たちはスコティッシュのためのビジネスをすべきなんだ」
「それで互いに競い合うわけですね?」 と僕が尋ねた。
「互いが育つためならば、だがね」
僕はそのうちに、話しかける内容が無くなり、ほとんど黙ったままで車中からずっと街を眺め続けた。 
S氏もそこのところちゃんと斟酌してくれたのか、「どんどん本を読め、話題が増えるぞ」 などと静かに、かつ、半ばからかうように声をかけてくれたのだった。
車は質素なオフィス街や、カトリックの聖堂や学校や庭園などをすーーっと通りぬけて行った。

=================================

「ヘイ、ジョー!」 信号待ちで停車中に、S氏がいきなり車外に向かって大声を挙げた 「万事、うまくいってるか?!」
「アーイ!」 なんだか妙なアクセントで、路上のその若い男が叫び返した。
さらに、パッチしたとかロードしたとか、なんだかそんなようなことを言いながら大声でこちらに手を振り返していた。
「あいつは、優秀なやつなんだ、大切なやつなんだよ」 S氏がつぶやくように言った 「何をやらせても、ちゃんと仕上げる、それに若い、そして今日も働いている」

いつの間にか正午を回っていた。
S氏が、昼食を一緒にどうかと声をかけてくれた。
「この街にはあまり美味いランチはないけどな、でも、腹一杯食えるぞ」
いや、もう結構です、午後に移動先がありますから、と僕は適当な嘘をついて丁重に断った。 
別れ際にS氏は、パースの駅前で僕を車から降ろし、「そこの土産物店で枕を買っていけ、良い香りのハーブの枕だ、熟睡出来るぞ、お母さんにいいお土産になる」 と言い残して去っていった。

=====================================

それから、数か月のち。
僕は日本の某電気メーカに就職が決まり、ああそうだ電気関係といえば、と、このS氏のことを思い出し、それで自分の次第について略記した手紙をしたためてS氏に郵送したのだった。

しばらくしてから返信が届いたが、それは意外なことにS氏自身からではなく、奥様からのものだった。
その手紙に曰く。
夫は電気関係の事業がだんだん低調になり、近頃は体調を崩して家に籠りがち、だから夫に代わって私があなたの将来を祝福します、日本の人たちはとても優秀だと聞いています、これからのあなたの成功を祈ります…などと優しくまとめられた内容のものであった。

====================================

この手紙を受け取ってから。
僕はS氏のことを回想するたびに、どうまとめたらいいか分からぬまま、考え込んでしまうことがある。
この一連の顛末の意味は、いったい、なんだろう?
どうしでも分からず仕舞いで今に至るのではあるが。
しかし、ささやかな教訓くらいは、鈍感な僕でもそれなりに得たつもりではある。

すなわち。
自身にとっての個々のあらゆる「偶然」は、どこかで誰かに分かち頂いたもの。
どこかで誰かに譲り受けたもの。
そんな一つひとつの瞬時瞬時の「偶然」すらも、十や二十の「必然」プロセスに束ねて両替し、清算に充ててしまうことが…それがもしも現代の大人になるってことだとしたら。
それはけっして楽しいことでもなく、格好の良いことでもなく、ましてや ─ 哀しいことですらもない。
日々の多くを、ほとんどを、相対化して理屈もつけて、しばし道義の観念も生活信条も職業までも変えながら。
それでも、否、それでこそ本当はいつまでも返済出来ない、ひとつひとつは借りっぱなしの偶然の堆積として、今現在までの僕がここに在る。

===================================

キンヌールの丘を駈け上り、駈け下りたあの胸一杯の真っ白な冷気、わが身をめぐった血潮のいぶき。
いまも、あの丘は。
遥か北の一画において、雲の合間のまっすぐな日射しを受けなだらかに立ち、裾野をゆるやかに曲がりくねる静かな川を黙ってたたえ、南に遠くイングランドを、さらには遥か世界を臨みつつ。
小さな刹那の真っ赤な必然を、無償だからこそ返済し得ない気高きさだめを、過去から未来へと交錯させ続けているのだろうか。

スコットランドは社会人になったのちも何度か訪れたが、パースには行かず仕舞いである。



以上

2012/10/25

男子は殴ってやればよい (アハハハ)

① 男子たるもの、一度や二度くらいは思いっきり痛い目に合った方がよい、と思っている。
理由は、在る程度の緊張感、恐怖心、スリルがあってこその、男の生き甲斐だからである。
サァ、これから思いきりブン殴ってやる!
気絶するかもしれないし、入院するかもしれん、でも、怨むなよ、みんなこうやって一人前になったんだぞ…
うーむ、いい世界観だ。
そんなの日本の悪しき封建主義だ ─ なんていう、その感覚がそもそも馬鹿、というか、古い、というか、非合理的。
だってさぁ、欧米なんか、みんな伝統的に滅私奉公の封建主義、メッチャクチャな軍国主義と自己犠牲の根性、よくも悪くもそれで世界を動かしてきた。
今だって、そうだろう…だから欧米諸国にはちゃんと軍隊がある。
むしろ、日本の方がすぐに甘ったれて、軟弱になる、と思われる (アジアはのどかなんだよな、もともと。)


もちろん、いつも目下のやつらを殴ってりゃ、そのうちに報復だってあるだろう。
そこに、スリルが有るってんだよ。
たまには、目上のやつを逆にブッ飛ばしてやりゃあいいのね。
相撲をみてみろ、ボクシングをみてみろ。
格下のやつが、格上のやつを容赦なく張り倒してんだろう?
そういう下剋上が許されてこそ、男はいつも緊張感を維持出来る。
そして、それが分かっているからこそ、観客はみなが座布団投げて拍手喝采だ。
今も昔も、変わりなく。
儒教なんか入り込む余地はねぇんだ。
だから日本人のテイストに合っているのかもしれぬ。
それを、どうして否定するのかなぁ?


② 暴力は、集団化し、暴徒化につながるから、よろしくない。
…という意見もあるのは百も承知。
でもね、自分を思いきりブン殴ったりネジ上げたりした奴をね、集団で報復しても面白くないのよ。
親なんかが出てきたら、もっと面白くないに決まっている。
てめぇ一人でカタをつけるところに、男としての誇りがあるわけよ。
いつぞやは、随分と世話になったな、オッサン、さぁ復讐してやる、覚悟しろ!って。

実は、男子はもともと矛盾しているのである。
矛盾しているがゆえに、男らしいといってもいい。
それはどういうことか、といえば ─
本当は男子は女子よりもずっと執念深いし、女子のようにみんな仲良し、大団円、などという世界にはなかなか到らぬもの。
得てして、負けた男は 「本当は俺が勝っていた」 などと死ぬまでウダウダと呟き続ける。
試合のルールが、間違っていたんだ、とか、本調子じゃなかった、とか、ずっとぼやき続けているものだ。
つまり…
男子は自分一人だけで決定的にカタをつけることに極めて拘ってしまうのだ。
チームなんかどうなろうが、部隊が勝とうが負けようが、本当はどうでもいいんだ。
俺さえスカッとすればそれでいいんだ。

と、まあ、どうしたってそういう手前勝手な心性からは逃れられないんだから…男子たるもの、たまには痛い目に合わせてやって、早くそういう男の流儀というかマナーを覚えるべきじゃないか。
「だからこそ」、あえて軍隊が在るのだ。
矛盾、そのもの、と言われても仕方ないのではあるが、軍隊においてこそ、一人ひとりを鍛えつつ、自尊心を活用し集結することが出来る。
もちろん、軍事やスポーツだけじゃない、どんな仕事だろうが、学術分野だろうが文化芸能だろうが、男の悦びなんて自分勝手なもんだ、と考えている。


③ そういうたった一人の、イチかバチかのスリルを知らない男というのは、そりゃあつまらんぞ。
名刺ばっかりバラ撒いてね、やたらと価格交渉や納期交渉の場面にばっかりしゃしゃり出て来てね、信頼がどうしたとか人間関係がこうしたとか、担保されるとかされぬとか、もうもう、実体はなにも分からないくせに半身で事情通ばかり気取ってね。これは、もう…主観的にも客観的にも実存的にも、本当につまらない。
実際、そういう連中は、ほんと、傍からみてもつまらなそーーーな顔してるでしょ?
これではモラルが低下するのも当たり前。
女のモラルはたぶん向上も低下もしないが、男のモラルはぬるま湯では低下する。
そうならないように、時々ブッ飛ばしてやるこそが、男子の教育には絶対に必要だと思っている。

まあ、さすがにボクシングパンチなどで殴ったら大事故に至るおそれもあるから、かるーく地面に押さえつけてバタバタと暴れさせてやるくらいが丁度いいんじゃないの?

以上

2012/10/22

女子は放っておけばよい


今の仕事に移ってから暫くの間、女子学生への学科指導が本当に難しいなと実感した。 
学科指導どころか、ただのアドバイスすらそう簡単ではないということに気づいてしまった。
最近はもう慣れてしまったので、あまり驚かなくなったが…いやいや、それでもやはり時々当惑させされることがある。
それは、どういうことかと言えば。

要するに ─ 女子はちっちゃい頃から既に人生のストーリーの大筋がもう出来上がっていて、それを局面や経緯に沿って具体的に展開しているのである(あろう)。
だから、外部要因による刺激や誘導が、じつに困難。
成るようにしか、成らん。

古代、中世から近代にかけて、世界の知識や学術は、成るようにしか成らぬもの 『ナトゥーラ』 から、意図によって変え得るもの 『アルス』 へと編成が進んでいったとされる。
が、これでいけば女子はずーっと 『ナトゥーラ』 のままである。
『 ナトゥーラ』 はすなわち英語の nature であり、mother nature なのであろう、か。

よくは知らないが、(性)染色体は女性がXXの対になっており、このうちXひとつが機能しつつ、もうひとつは全細胞で不活性化しているという。
これでちゃんと生命としてまとまり、人間という種の在り様を決めているとか。
これが正しいとすれば、男性の染色体XYにおけるYはむしろ「余計」な作為を人体に課していることになるそうな。
だから男性の方が人工的で、外部刺激に感応しやすく、しかも無理を続けるから概して早く死ぬ…??


男子というのは自身のストーリーを外部刺激によってダイナミックに再改編させることが可能で、その度に新しい自己を造っていくことが出来る。
そして間違いはすぐに消し去ることも出来るわけだ。
だから 互いに触発したり説得したりといろいろ仕掛け甲斐もあるってもの。
だが、女子には何を言ってもむだむだ。
たぶん、一貫した統一モラルのようなものが頑として在るので、そこから逸脱したものにはきっと聴く耳を持たずにシャットアウトしてしまう。
いや ─ むしろ自分たちこそが世界のモラルの中軸であるかのごとし。
こっちが疲れていたりすると、「先生、頑張って下さい」などと声をかけてくる娘たち。
こういう女子の言動に接して、なんだこのやろう!と思わず怒鳴ってやりたくなったこともあった。
が、しかし彼女たちからすれば、当然の施しということになるらしい。

暫く以前に。
ある娘がなんとか志望校に進学し、それで僕が素っ気なく「あー、よかったね、うんうん」 などと応対してやったら…
この娘が非常に不機嫌になって、 「なんで喜んでくれないんですかッ!?」 と大声をあげたのにはこっちがびっくりした。
最初っから(きっとどこまでも)、皆が祝福しあう素晴らしき世界、というストーリーになっているらしい。
「わかった、わかった、頑張ったよ、うんうん」 と宥めてやったのだが、それでもしばらくの間はずっと不機嫌だった。

ことほど、左様に。
女子はいつも完結しており、完結している以上は外部要因で誘導することもきっと出来ないだろう。
否、もともと誘導などする必要がない ─ まあ敢えていえば、適宜「補正だけ」を施してやれば、あとはほっといても普通のまともな世界に導いてくれる。
そう考えれば、むしろ安心して見守っていればいいのしらん?と気楽にもなる。


ただし、重要なことを最後に付記しておく。
もしも学科指導の相手が女子生徒ばっかりだったら、さぞや、楽しいだろうな……というのは傍から眺めてのこと。
実際には、いつもこちらが娘たちから監視されているような状態。
下手なこと言おうものなら、「この先生はおかしい」 「人間味が無い」 などとヒソヒソ声がおこり、それが公倍数となってこっちを包囲しかねない。
いやぁ、このシチュエーションは本当に辛い。
(だいたい、女ばっかしのパーティとかに行くの、イヤだろ?もう死ぬほどつまんないから。)
だから、担当の生徒たちの過半が男子だと、むしろホッとするんだよね。

以上

2012/09/12

コードブック


「さっきっから、なーに読んでるのよ…なになに?人類の宿命?」
「ちょっと待って…うーーむ、未来は幸せに満ち溢れているでしょう、って」
「幸せ?今以上の幸せが、まだあるのかなぁ?」
「あのね…病気がなくなって、寿命がぐーんと伸びるでしょう、ってさ」
「ふーん、それは同意出来るわね、病気はいやだもんね」
「えーと、それでみんなが豊かになるだろうって書いてあるわよ」
「今だってみんな豊かなのに?」
「でもね、みんな豊かになるからもっと、もっと、大きな投資が出来るようになるからだって」
今だって土地や財産ですっごく大きな取引しているのにね」
「だけど…そうやって大きな投資が出来れば、すごい技術開発が出来るんだってさ」
「にわとりを卵に戻すみたいな?」
「よくわからないけど、それで病気がなくなって、寿命が延びるんだって」
寿命が延びると、豊かになるの?」
「そうだ、と思うけど…」
それでどうして大きな投資が出来るようになるんだろう?」
「みんなが豊かになるからじゃないの?」


「…わかった!寿命が延びたらみんな豊かになるから、大きな投資が出来るようになって、技術開発が進むってこと!」

「えー、違うんじゃないのかな?技術開発が進めば寿命が延びて、それで大きな投資が出来るようになって、だからみんな豊かになる」
違うよ、ちがう、みんなが豊かになるから、技術開発が進んで、それで寿命が延びて、大きな投資も出来るようになるんだよ、そうだよ、きっと!」
「違うよ!大きな投資が出来るようになるから、みんな豊かになって、技術開発が進んで、寿命が延びるんだよ、たぶん!」
「うん!そうだね、そうに決まっている!」


2人とも、何かやっぱりおかしいんじゃないのかなぁ、という疑念を払拭出来ず、さらに本を読み続けていくのだった。
にわとりが卵に逆戻りすれば、きっとみんなが豊かになるんじゃないかしら …
でもそんなことは きっとどこにも書いていない 21世紀のページを捲るまでは書いていない。



おわり

2012/09/01

【読書メモ】 素材は国家なり - 就職活動にさいして必読の書

『素材は国家なり』 とはまた凄いタイトルですが ─ 昨年末に東洋経済新報社から出た本著は、恐らくは日本の工業技術の解説書として最強の一冊ではないかと察します。
長谷川慶太郎/泉谷渉 共著。

ことに長谷川慶太郎先生は永年に亘り、産業・軍事・経済の諸分野においてわが国を代表する解説者のお一人にて、世界や日本の在り様について毎年のようにシンプルかつ理知的な著作を発表されています。
しかしながら、この 『素材は国家なり』 はとりわけ触発される内容。 ほんの200ページに過ぎぬコンパクトな構成、極めて読み易い文体をとりつつも、一般社会人はむろんのこと就職活動中の大学生にとって必読の書とはまさにこのこと!
理科系分野の学生のみならず文科系学部の学生にとっても、日本の工業競争力から未来産業に至るまで巨視的に俯瞰出来る絶好の入門書。
ついでに、諸外国のまともな大人たちが日本をどのように捉えているのか、その答えも全部この本に記されております。

ともあれ。
購入後しばらく、僕なりに惹かれた箇所を特記メモとして控えておりましたが、あらためて以下のとおり箇条書きしておきます。
さっと理解しやすいように、<デバイス>編と、<パワー編>に分けておきました。
ただし、具体的な企業名の引用は、ここでは極力避けております。
興味関心に合わせて皆さんで勝手にお調べ下さい。



<デバイス>

 ・半導体について。

新しい半導体の部材調達には、そもそも3-5年の信頼性試験を繰り返す。
そしてウエハーを投入してから実製品が出てくるまでに、3カ月かかる。
日々、凄まじい勢いでラインが進む自動車メーカにとって、採用部品の半導体をそう簡単に他社製のものに代えられるわけがない。

・そんな半導体の基幹素材であるシリコンウエハーは、日本メーカが全世界の70%のシェアを誇る。
東日本大震災のさいに、世界のシリコンウエハーの1/4の生産がとまることになった。

・パソコンは、商品化されてから35年かかって、全世界の「年間」出荷台数が3億5千万台に達するに至った。
ところが、全世界のスマートフォンの年間出荷台数は、すでにこれを超えている。
i-Pad などのダイレクト端末もここ2-3年のうちに年産で1億5000万台に達すると見込まれる。

・スマートフォンやi-Padでは、低温ポリシリコンや有機ELを採用。
これらの素材は従来のアモフファスシリコンTFT液晶と比べぐっと高精細で、レスポンスが極めて速く色の再現性にも優れている。
そしてこれら素材は日本メーカが優勢である。

・液晶の保護材として、TACフィルムが採用されているが、これは日本メーカが世界シェアの100%である。
ちなみに、PVAフィルム、位層差フィルム、配向膜も基本素材だが、これらも日本メーカが世界シェアの100%を占めている。

・かつ、スマートフォンやi-Padでは、実装基板の面積も極小でなければならないが、そのために折り曲げ可能なフレキシブルなプリント配電基板が必須。
素材として銅箔が用いられるが、そのシェアのほとんどは日本勢である。

・ほか、半導体の材料において、フォトマスク、フォトレジスタ、封止材、そのフィルターにおいて日本メーカの世界シェアは圧倒的である。

・日本製の和紙は、コンデンサやリチウム電池の中で使われている。
また、ガスタービンの「ろ紙」としての大いに使われており、砂漠で活躍したアメリカ軍の戦車でも土埃がタービンに入りこまないように起用された。
それどころか、アメリカ海軍の原子力空母、原子力潜水艦のクリーンルーム運転のための「ろ紙」としても採用され続けている。
 

・窒化ガリウムについて。
これは世界中で大注目の未来派の素材。
LED電球でも、また新型パワー半導体でも起用されている。

・まずLED電球だが、これは白熱電球の40倍の寿命を誇りつつ、消費電力は85%も低減される。
省スペースで、低温でも発光効率は下がらない。
すでに単価1000円を切った販売店もある。

・LED電球は、一般照明には留まらず、自動車照明、信号、携帯電話、パソコン、液晶テレビのバックライト、屋外照明に至るまで応用が期待されている。
これら全てを含み合わせれば、その全世界の市場規模は日本円換算で15兆円に相当する!?との見方もある。

・LEDはもともとアメリカ技術の窒化ガリウム合成型の単結晶であったが、赤崎勇氏による高品質ガリウムの窒化単結晶によって青色LEDが開発され、そこから白色LEDが可能となった。

・2009年のオバマ大統領による「グリーン・ニューディール」宣言は記憶に新しい。
ここで謳われた環境にやさしい新エネルギーの気運のもと、LEDが政局にとっても大注目されるにいたっている。

・LED発祥の拠点とされる名古屋大学で、2011年に新設された研究棟は国立大学初の全館LED照明である。
その名古屋大学では、光発電型のLEDも研究されており、これによればA4サイズのノートPC自身が30Wを発電可 - となると充電が不要になる。
一方、LEDの信号灯の50%は東京都が採用中である。

・いわゆる「パワー半導体」も、窒化ガリウムによって可能となってきた。
パワー半導体は、AC/DC変換時の電力ロスを徹底的に抑える省力型チップであり、最先端世代のIGBTは日本勢が世界の過半を占め、名だたる電気メーカが開発を推進している。
その市場規模は日本円換算で2兆円規模であり、フラッシュメモリと同じほどのスケールである。
 

・超電導について。
従来の超電導技術は、冷却用の液体水素、液体ヘリウム、液体窒素が不可欠であったが、もし「常温」超電導技術が普及するとこれら触媒が不要となり、製造コストが大きく低減される。

・常温超電導は、送電システムを激変させ得る。
何千キロの送電線でも電力ロスはゼロになり、越境しての大胆な給電システムをどんどん仕掛けることが出来るようになる。
じっさい、ドイツやイタリアの果敢な電力事業などは常温超電導による海底電線を起用することで、北海から地中海までまたがる国際電気事業を図っている。
サハラの太陽光発電の電力をヨーロッパに引っ張ってきたり。

・ともあれ、常温超電導ケーブルが実用化されれば、現状の高圧送電線は不要となり、じっさい日本ではあと数年で送電線はすべて地下に潜るかもしれない。
電力事業も、大きく代わり得る。
よって、現状だけみて東電の事業がどうだこうだと騒いでいるのは虚しい限りである。

・ナトリウム硫黄電池 - いわゆる「NAS電池」は夢の蓄電池である。
これは電力事業そのものを激変させ得る。
アメリカといえばスマートグリッドだが、ほかカタールやUAEなど安定的な電力供給の困難な地域でもこのNAS電池の可能性が大いに注目されている。
大規模な蓄電が本当に可能となれば、とてつもなく自在でフレキシブルな電力供給プログラムに採用され得る。

・NAS電池の現状の課題は、ナトリウムが水と混じると爆発すること、またナトリウムと硫黄の絶縁膜が未だ開発途上であること。


☆    ☆    ☆    ☆    ☆

<パワー>

・第一次オイルショックの1973年まで、日本経済の目的は工業製品生産の拡大で、この年の鉄鋼生産額は粗鋼ベースで1億2800万トン。
このとき原油の輸入実績は史上最高の2億8000万キロリットル。
以降、実に2008年に至るまでこれ以上の鉄鋼生産高を記録することはなかった。

・一方で、オイルショックを機に、量的拡大にかわり技術の提供で経済活動を安定・維持する方針へと、日本経済の在り様が大転換した。
日本史上、これだけダイナミックな転換は他にはあまり例がない。

※ なお、60年代末期から70年代に産業の在り様が大激変した、とはドラッカーを始め多くの見識者が一様に指摘するところでもある。

・日本の製鉄業は最も急激にかつ大規模に変貌を遂げて現在に至る、まさに産業知性の総元締め。
資源エネルギーから電力、はてはIT産業から末端のサービス業に至るまで、みな製鉄のために存在していると言っても過言ではない。
たとえば光ケーブル導入による瞬時の工程管理は、まさに製鉄業が導入したものである。

・かつ、日本の製鉄業・鉄鋼業は環境負荷の最も小さな技術を積極採用しているため、世界中から大注目の的である。
鋼材1トンをつくるため、現在の日本の鉄鋼業では(熱エネルギー源として)石炭を0.5トンしか必要としない。
アメリカの鉄鋼技術では鋼材1トンのために1.2トンの石炭が必要で、中国になると1.5トン以上が必要となっている。

・日本の鉄鋼技術は石炭など投入エネルギー効率のみにおいて優っているわけではない。
同時に、「排熱の回収率」においても極めて優れている。

・たとえばLD炉において、銑鉄の原料である「コークス」の生成するが、そのさいに空気を液化し酸素と液体窒素に分解し、その酸素を用いている。
一方、ここでの液体窒素のほうは800℃に高温化したコークスにぶつけて冷却するのに用いるが、その際にコークスの潜熱がこの液体窒素をあらためて気化させ、高温の窒素ガスを生成する。
そこで、この窒素ガスを活用してタービンをまわしている。

・出来たコークスが高炉に入ると、鉄鉱石が反応して鉄を還元する - つまり高温に溶けた状態の銑鉄となる。
ここで発生するガスをまた燃料としつつ、タービンをまわす。
(これが高炉炉頂発電で、日本の23基の高炉は全てこの発電システムとなっている。)

・さらに、高温の銑鉄が今度は転炉にいくが、そこで銑鉄に酸素を吹きかけると、銑鉄に在る炭素が一酸化炭素として放出され、この過程で銑鉄は鋼となる。
このとき放出された一酸化炭素をボイラーで燃焼させると、その発熱がこれまた電力に転用出来る。

・製鉄所の立地場所は、日本のみならず主要産業国の在り様そのものを決定する課題であった。
八幡製鉄所の時代は石炭の投入量が重大な要件であったため、筑豊炭田の近くに建てられた。
かつ、鉄鉱石の輸入コストも重大であり、よって海沿いに建てられていた。

・やがて、技術進歩によって石炭の投入量がさほど問われなくなったため、製鉄所にとっては鉄鉱石の輸入調達が最優先され、インドのオリッサ州などのように海沿いに多く建てられている。

・なお、鋼材を1トンつくるのに、従来は340トンの水が必要であったが、日本の最新の製鉄所では新しい水はなんと1トンしか要らない。
ほとんどは内部の回収水でまかなっている。
だから水資源の近郊でなくとも、製鉄所は可能となってきた。

・ところが、話はいよいよここからである。
「電炉」の登場、これこそがあらゆる産業構造を激変させ得る。
日本はあと5年で電炉による製鉄プロセスを完成させる。
この電炉で鋼を1トンつくるのに投入するエネルギー量は、現在の銑鋼一貫方式による生産プロセスの1/5で済んでしまう。
なぜなら、鉄くず(スクラップ)をもとに最高品質の鉄鋼板を造ってしまうからである。

・日本の鉄鋼の在庫 - つまり日本のあらゆるや鉄道などのインフラから自動車や家電製品などの消費財にいたるまで用いられている鉄鋼の総量 - は30億トンである。
これらを仮にこんご20年間、均等にリサイクルするとする。
毎年1億5千万トンの鉄くず(スクラップ)を世の中から回収出来ることになるが、これらをそのまま「電炉」の製鋼にまわせば新規の鉄鉱石を買う必要が無くなる!

・こうして、電炉による製鉄所は、石炭どころか鉄鉱石の調達にすら左右されなくなるため、海沿いに設置する必要すら無くなる。
むしろ、工業地帯に隣接されるようになる。
そうなると、電力事業そのものも大いに変わる。
とくに大きな製鉄所は大規模な発電機能をそのまま有しているため、工業地帯への給電を積極的に行うようになるだろう。

・電炉が石炭にも鉄鉱石にもあまり依存しないとなると、そんな電炉の製鉄所そのものが海外に移転するのでは…という不安を煽る人が必ず居る。
※中国マニアなどはすぐにそういう無知丸出しのことを言う。
しかし、製鉄による工業製品に極めて高技術、高付加価値のものが多く(自動車エンジンなど)、ゆえに製鉄所を日本以外に移植するなどありえない。
・いわゆる「スーパースチール」は、普通鋼でありながら強度が2倍の鋼材であり、つまり同じ強度であれば重量は半分で済むというもの。
熱処理を通じて鉄鋼の結晶の大きさを調整するが、これはとてつもない微調整の世界。
日本が世界最先端を行く。

・基幹素材として、鉄から炭素繊維への移行が大胆に進められている。
そもそも、鉄も銅も半導体シリコンもケイ素(SIO2)から成り、ケイ素の比重は水よりも大きいため地球の中心部を構成しており、つまりはもっとも基本的な素材そのものである。
そんな鉄や銅やシリコンに代わり、炭素繊維を基本素材として活用しようというのだから、これは人類史そのものを大転換させる壮大なヴィジョンである。

・炭素繊維そのものは日本メーカが圧倒的なシェアを誇る。
自動車や航空機のボディ、部品などに採用されている。
とくに他金属と接合すれば、可能性が大いに広がる。

・すでに炭素繊維とアルミニウムとの接合が、特殊な触媒と焼成炉の高温化によって可能になっている。
ただ、炭素繊維は切削時に粉塵が多く、また飛行機に採用すると落雷を受けやすいというデメリットをどう克服するか、大きな課題はまだまだ残る。


☆    ☆    ☆    ☆    ☆


<捕捉>

・日本の産業全般において、研究開発投資の3/4は民間企業自身の負担であり、政府の負担は1/4でしかない(とりわけ製鉄業では、政府負担はゼロである。)

一方、アメリカの研究開発投資はその半分を政府部門が負担するのが慣行となっている。
さらにその半分は、国防総省(軍事技術)の所管する研究開発対象のものである。
だからアメリカの軍事技術への研究開発投資は大変に多く、日本のそれの10倍以上にもなっている。

・ことに製鉄業で比較すると、日本の製鉄業は売上の2%を自らの研究開発投資にまわしており、ここでは政府負担はゼロ。
だがアメリカの製鉄業だと研究開発にまわせるのは売上の0.1%でしかない。

・日本の輸出先のほとんどは(売上ベースで)海外の企業であり、個人向けは微々たるもの。
ゆえに製造物の瑕疵は品質問題として信用失墜が必須となるため、日本企業は品質を何よりも重視してきた。
じっさい、品質最優先をとった産業は信用を長期に亘って勝ちとり、価格競争で潰れてしまうこともなく、研究開発の余裕も生まれた次第。

・1956年、最初に第一種技術導入(つまり特許)がなされた時、日本の特許の輸入額は海外諸国への提供額の7倍、つまりかなりの輸入超過であった。
1992年、日本の特許は国際収支で初めて黒字となった。
1996年には、対アメリカ、対ドイツをはじめあらゆる国々に対して黒字となった。

・2008年、特許をはじめ工業技術おける日本の対外黒字は8000億円、これは製品輸出の1/10に相当するスケールで、以降現在まで毎年2000億円以上のペースで黒字が増えて続けている。
近く、日本の技術貿易の黒字は製品輸出の黒字を超える。

(バブル崩壊がどうこうと未だに歯ぎしりをしている人々は、90年代以降の産業の変質が全然分かっていない。)

※ なお、日本企業の長期的経営について。
戦後のインフレ期の企業においては、資金借り入れの有効な担保が無く、経営者には失業保証もなく、ゆえに経営者は自身の個人保証のもと全財産をかけ経営に邁進し、従業員がそれに全力で呼応してきたため。
しかし時代が下るとともに、企業にも金融機関にも余裕が生じ、経営者が個人保証する慣行が無くなった。
だから、日本企業の長期的経営は減っていった。

…これらの箇所は、本著のみならず長谷川氏の直近の著作には必ず引用されている。 以上


2012/07/18

主権と領域 (尖閣諸島問題)


以下の論点について。
予備校や学校などの教育関係者にいくら訊こうが、誰かの書いた参考書や行政書士のくだらない注釈書あたりをとんとんと指でつついて、それでおしまいになってしまう。
そんな連中から独創的な見解などとても出てきそうもないし、基本的な理念すら期待出来そうもないのだが、一方で僕自身の少し長期的な勉強課題としつつ、ここにもちらっと記しておく。

(大学の教授くらいになれば、以下のような論点に対してちゃんとコメント出来るものだろうか?
変な代議士に黙殺されなければ、いいんだけどね。)

(1) 国家の主権
日本国憲法を解釈する限り、主権 (sovereignty) の重要な存立支柱は;
対外的な independence、内部におけるgovernance、そして国民自身による排他的なdecision-making。
と、まあ、英語表現にすると(いや、戻すと)、じつに論理的に意義が伝わってくるねぇ。

これらいずれの存立事由をとるにせよ、主権はもちろん実践されてこそ初めて主権となる。
実践するためには、誰が(=国民自身が)はもちろんのこと、「どこで」 「どこまで」 も事前に定義がなければならないのでは?
当然のこと、「どこで」「どこまで」 は最小限に解釈しても「国家の領域」であろう。
だから、主権は必ず領域に則っていなければならないのではないですか?

※ 「領土高権」 なる捉え方があり、それに拠れば主権の governance  は 「どこで=領域内にて」 と見做し得るそうな。


(2)さて。
中国の侵略チームによる我が日本の尖閣諸島侵略、あるいは韓国の侵略チームによる竹島侵略について。
もちろん尖閣はこのまま静観していれば取られるし、次は沖縄、となるだろうし。
同じ理由で、竹島だって二度と帰ってこない。
したがい領海も変わる。
わが日本の主権確保のためにも、彼らを撃つか、あるいは彼らの総元締めと戦わなければならない。

いやいや、尖閣諸島くらい放棄してもよいだろう、という官僚や左翼も居るようだが、この発想は領域の放棄、よって主権の放棄。
ゆえに憲法違反そのものを導くものである!

いやいや、日本国憲法は自然法じゃなくて実定法として判断すれば、なんでも文言解釈次第で協議や改編が出来る、とか。
まあ、そんな議論だってありうるが、それにしたって主権そのものが欠落させられようとしているんでしょう?
そうはいっても、実際に憲法9条の縛りがあるので武力行使は出来ない…
…という先生方が居らっしゃるが、領域が脅かされている現状は、9条どころか憲法そのもの根源である 「主権そのもの」 の喪失危機に突入しているのである。


(3) 尤も、台湾や中国の諸勢力および侵略チームが統一された意思決定主体であるとは考えにくい。
なぜなら、どうも彼らは主権と領域を別個のバラバラに捉えているように見受けられるため。
彼らに戦時と平時の区別すらないように見受けられるのも、彼らが主権と領域をバラバラに考えているからでしょう?
呼応して「尖閣や竹島なんか、あげちゃえよ」 と言っている官僚や左翼も、きっと同じ。
それが移動型民族というものですよ、と社会学で解説してみたところで、主権と領域を一体として捉える我々には何の救いにもならない。

ただ、我々は主権を守ると主張しつつ、中国チーム(および左翼チーム)の総元締めをちゃんと見極め続けていけば、まだトータルな議論の余地が残されている、と信じたい。
主権と領域を別個に捉える彼らと、主権に領域を含める日本は、「全面戦争」にはきっと発展しない。

では韓国チームはどうか。
中国チームよりは主権と領域について鋭敏じゃないかな…と期待したいけれど、でもそうは考えていない人たちもうろうろしているようで。
ただ、韓国チームが日本と全面戦争をする意思は、もっと小さい。
だって日本の産業が矮小化すればするほど彼らのダメージが広がる一方であって、そんなこと彼らは我々以上に分かっているから。

ともあれ。
憲法の根幹が主権にあり、主権の実践には領域が不可欠、と強引に突いていけば、或いは戦っていけば、我々はもっと強圧的に侵略チームを押し返すことが出来ようもの。

さあ、どこか狂っていますか?

2012/07/07

偏差値3000


ある特定の光、エネルギー、そのスピードとその配置。
感受することが出来るのは、限られた人々だけ。

これは特殊な能力なのだろうか?

逆だよ、逆。
もともとは、あらゆる生命が、宇宙のあまねくエネルギーを感受していたはず。
だが一方で、それらを感受出来ない種族もいて、そいつらはおのれらにて通じ合うもののみを共有図ってきた。
彼らはその過程でさまざまなものを記号化し、数量化し、言語化し、概念化してきたわけさ。
そして、それに適合した種族こそが時代とともに増えていった ─ 
それこそが我々人類なんだよね。

うーむ。
きっと、そうに違いないね、哀しい進化論、というよりは退化論だなぁ。
でも哀しいってことはないだろう、何でも記号化し概念化してきたからこそ、今の我々の技術文明があるんだ。



こんな具合に、ロケット乗組員たちが談笑していた。
そのとき、宇宙の遥か遠方にて何らかの波長が微かに変わった。
一番年下の乗組員の青年がそれに気づいて、皆に伝えた。
「おい、おまえよ」 と同僚たちが呆れた声を挙げた。
「訳の分からないことを言ってないで、動力系の確認を続けろ!」


そのとき、別のロケットに搭乗していた一人の観測員の娘も、遥か遠方において何らかの波長が微妙に変わったことに気づき、その旨を口にした。
「あなた、疲れてるんじゃないの?」 と同僚の女性が呆れ声を挙げた。
「通信系の精度確認しっかり頼むわね、ノイズ発生率は常に最小限に抑えないと」


かくして。
遥か遠くかけ離れた2つの宇宙空間を航行続けてきたそれら2機のロケットは、互いにウンともスンとも交信を図ることなく、超演算と超物理マシンをもってすごいスピードで別々の銀河へと飛び去って行くのだった。


(おわり)
※ 星新一に触発されたもの。

2012/05/27

学校や予備校が何故か教えてくれない世界史


世界史科の教科書や参考書を読めば読むほど、「訳のわからない疑問」 が湧いてくるもの。
もちろん学校のみならず、これに徹底的に基づいて教育をしている予備校でも、同じ。
おそらく、世界史は如何なる事実でも必ず「以下のステップ」で発生した、と考えないと説明出来ない。

(1) いつでも、どこでも、新規の農業や畜産や漁業、その技術ノウハウうやスキルが生まれ、土地や海洋の発見・開発も進む
(2) そこで交易市場が拡大し、余剰が生まれた地域では技術が収斂して産業となり、言語や通貨の専門化や効率化も進む
(3) そうなって、初めて社会や地域間に経済力の格差が生じ、所有と権利(法)と課税の闘争が生じる
(4) それがついに人種や民族の正当性の闘争、さらには戦争まで発展し、どこかで双方が諦めて条約となる
(5) 以上の合間に、時々文化人が現実を賞揚したり慨嘆したり理論化したり、絵画や音楽を残したり、更に新しい信仰がおこる。

大学入試の世界史出題をみると、たまに、「ああ、いい問題を出しているなぁ」 と感心させられるものも確かにある。
(1)→(2)および(5) もしくは (2)→(3)および(5) あるいは (3)→(4)および(5) 
…という具合に事実の因果を踏まえた出題が良問じゃないかと思っている。
ここに具体的な用語をちりばめたり、それを空所補充させたりして、うまくまとめあげるよう受験生にチャレンジしたりして。
いわゆる難関校ほど、そうなっている。
それで学習分量が増えて困る、というのなら、中国大陸の諸文明の歴史を一気に類型化し、唐王朝以前は割愛すればいいんじゃないの?
だって、同じように長く広域に亘る国家民族として、イラン系、アラブ系、トルコ系やドイツ系の歴史記述なんか、明らかに少ないよ。

ともかくも、「訳の分からないこと」 について以下のように僕なりに 「思いつくまま」 挙げてみる。

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・人口が増えると、商材取引の市場が拡大し、機会や情報や勉強量や経験量が増えるから産業が発展し、総じて経済が発展する、と一見思われる。
しかしながら人口の巨大な民族/国家がすべて経済力で世界トップ級というわけではない。
なぜか?
そもそも人口の多寡と産業力と経済発展の関係について、一貫した説明がどんな学問にもないように思われる。
なるほど、人が少ないから発展しない、という市場や産業もあるだろうが、人が多過ぎるからこそ発展しないという政策論理だってあるだろう(で、なかったら人減らしなど起こるはずがない。)
いずれにしても、人口の多寡こそは人類の歴史を決定する根幹要因そのものではないかと思われるのだが、どうしてこういう 「問題提起」 をしないのか?

・現行の世界史科ではほとんどが実質的には 「政策史」 であって、つまり民間の市場に国家権力がどのように絡んできたかの歴史となっている。
であれば、まず民間市場ありき、というのストーリーが自然なはずなのだが、どうして民間市場(や企業)についての歴史を徹底的にオミットしたがるのか?
これではとりわけ欧米の歴史を説明出来るわけがない。 

・世界史が派手に動いた時代は、大抵デフレ局面にあった。
まず、インフレについての説明は、比較的簡単で、「何かが不足した」ために市場と産業と経済における「調達競争」とそれに伴う「信用(期待)」が過熱し、通貨価値が下がり…
それが過度になるとついていけなくなる主体が増え、社会そのものが維持出来なくなり、で、破綻する ─ といえばよい。
ところが、問題はデフレであって、これは文明においてカネの蓄積者が率先して安穏と停滞に向かわせる「財の超過」 「カネ余り」 「信用崩壊(放棄)」 「不況」 なのだが、その循環を世界史科ではほとんど説明していない。
政治経済科などでは、○○の一つ覚えみたいに 「在庫が超過すれば、デフレです」 などと教えているが、ふざけんじゃないよって。
どんな財でもサービスでも、完成した瞬間から客先に引き渡されるまでは在庫なのである。
だから、在庫が超過であるという状況説明は現象面の暫定的な描写に過ぎず、過程や傾向の説明にはならない。

なるほど、何らかの理由で市場がどんどん縮小し、だからしばしば戦争をして無理矢理に景気づけをすることになる…地理上の発見もピラミッドも征服活動もニューディールも大戦争も景気回復のための大事業であった
…などと大まかに類推するのが普通の社会人で、学校教師連中よりはまだまともな市場経済感覚を持っているといえよう。

しかしながら…世界史という学問領域はどこまでも世界や社会の 「連続性を説明」 しなければならない!
つまりは、インフレ~デフレの景気循環と歴史的事実について動的に明らかにしなければならない。
ましてや、僕もそうだが、インフレの経験も記憶もない人間にとってはデフレ経済こそが現実=人生観そのものになりかねない。
ゆえに、現代の世界史科では、とりわけデフレの要因と経緯と顛末を動的に=歴史的に説明しなければならない。
そういうことは政治経済科に任せればよい…というのはちょっと無責任な見識だと思うし、また政治経済科でデフレをちゃんと説明するのであれば世界史の知識は不可避じゃないのですか?

・16世紀はじめのルカ=パチョーリによる複式簿記こそは人類史における最大の発明のひとつ、一般見識では通説とすらされているのに、世界史科では一般に触れられていない。
これでは、なぜ経済運営システムが欧米内部では正当化が進んでいったのか、なぜ巨大な投資への信頼が高まっていった、そしてなぜ非欧米世界がしばしば騙され搾取されたのか、ちゃんと説明出来ない。
しかも一方では、中国諸王朝の課税だの土地制度だのには恐ろしく細かい知識が課され、かつ、苛烈な課税制度にも中国人民は負けていないぞ、という文脈である。
いったい、何を教育しようとしているのかさっぱり理解出来ないし、何か意図があるのかすら分からない。
どうなっているのだろうか。 

・ストア学、アリストテレス、儒学、仏教、キリスト教、スコラ学、イスラームなどなどの思潮は、現代の科学技術と連環させてこそ意味のあるもの。
特に、近代以降の帰納法と演繹法について ─
たとえば前者は山岳系や海洋系の文明に適した着想で 「具体的な結果をまず出せば過程はあとで検証出来る」 という、いわば農業や鉱工業や商業に向いたロジックじゃないか。
一方で演繹法は、平原移動系の文明に適したカネの配分や課税、法律など 「まず数学的な真理がありきで、その真理の応用が現実となっていく」 という着想のもとなのでは?
中央集権や社会主義や唯物論とはどう関るのか?

このように(たとえばですよ)帰納法と演繹法については分類し易く、往々にして産業や職能についての分析でも準拠しやすいものかと思われる。
実際に、日本の産業は帰納法=経験論の着想に基づき、まずはやってみろ、数学と法律は後回しでよい、と言えば強くなるのでは?
(もちろん、それだからしばしば理念を無視して大失敗することもありうるのだが。)
ともあれ、どうして思想や哲学と現実とを世界史科ではつなげて教えないのだろうか?なんのための「文化史」なのだろうか?

・なぜ原子力が産業エネルギー源として選択されたのか?
これはもちろん理論的に可能であったからだが、理論的に可能だからといっても must ではなく、あくまで選択肢の一つでしかないはず。
兵器のエネルギー源として採用されたのなら判るが、それを産業エネルギー源として 「用いなければならない」 のか?
当たり前のことだが、水力や化石燃料が産業エネルギーの源泉であったからこそ、人類の居住地から領土紛争までが決定されてきた。
つまり、エネルギー源は、歴史の決定要因のうち最も根源的なもの。
このこと、なぜ世界史科で教えてはならないのか?
(言っておくけど、僕は原子力そのものを否定する積りはないし、原発だって選択肢の一つとしては保持しておいてよいと考えている。)

・世界史におけるいかなる大国、強国も、東西への拡大は速かったが南北への拡大は極めてゆるやか、乃至はゼロである。
なぜか?
あまりにも有名な 『銃・病原菌・鉄』 は、早稲田の入試英語でも取り上げられるほどに学際的かつ初学者向けの総括的な文明論である。
そこでは確か、穀物や家畜が同じ緯度では移殖し易い反面で、緯度が異なると移植が難しく、だから南北間での征服・拡大はなかなか進まなかった、とある。
こんな重大な 「問題提起」 をどうして世界史科でちゃんと指導しないのか?
地理科で教えりゃいいということか?
しかし市場や産業や経済の発展要因の最も重大な根源については世界史の領分ではないのか?

・世界史の強者は、必ずと言っていいほど海軍の強者でもある - ということは、ちょっと真面目に世界史を勉強すれば高校生だって閃くこと。
海軍力は、古代のアテネやローマから中世のオスマン帝国、近代のスペインやオランダや英国、現代の日本、アメリカに至るまで、必ずその学術や技術力の粋をぶちこんで強化されてきたもの。
これは深く考えなくても分かることで、まず海運が陸運とはケタ違いにコストが低く抑えられるため、経済力は海運力とも直結している。
まさにその海運を守るためにこそ、強力な海軍力が必須。
加えて、海軍の戦いは 「一時退却~!」 などという悠長な戦術が通用せず、いったん開戦したらどっちかが全滅するまで続くから、弱っちい小粒の海軍をいくらバラ撒いても、全く意味が無いじゃないか。

…という具合に、海軍力の覇者が文明の覇者であること (だから中国史上の諸文明は文明の覇者になったことはない) は現代に至るまで最強の真理であると思われる。
どうしてこういうことをちゃんと世界史科で解説しないのか?

・そういえば、どうしてアジアの文明史においては、(日本とマラッカを除いて)海洋民族が大国化しなかったのだろうか?
海が広すぎて、物流コスト低減のメリットを活かせなかったからか?
しかし地中海あたりよりもずっと広域での取引が出来たわけだから、市場規模だってすごく大きくなりえたはず。

・話題の本 『水が世界を支配する』 に仔細に解説されているが、スエズ運河やパナマ運河は、国際戦略展開を激変させたもの。
北方民族が中国文明を新たに造った時(隋や唐)にしても、運河の開削で東西及び南北をつないで経済活動を拡大した。
つまり、運河というのは海運と海軍のパワーを最大限に活用するためのインフラなのだが、これほど重大な文明史上の効用について、どうして世界史科でちゃんと解説しないのか?
アメリカなどでは、実際はエリー運河などの巨大な西方運河開削が続き、フロンティア活動が活発になったからこそ、それを補完促進するために大陸横断鉄道が出来たはず。
そういう運河と鉄道の関りも、世界史できちんと説明すべきではないのか?
まさか、これも地理科の領分だというわけか?

・インドシナ半島の真ん中、極めて細い地峡は、かつて開削して運河(いわゆるクラ運河)をつくろうという動きがあったのだが、どうして依然として中断されたままなのか?
そんな運河が出来たら、南端のシンガポールに寄港する船舶が激減するため、華僑資本が妨害しているんじゃないの?
そうでないなら、どうしてなのか?ねぇ、どうして?

・海洋民族と並んで世界史上の強力な勢力は、山岳系の民族である。
その理由としては、山岳系の民族は地の利を活かして外敵から守り易かったこと、耕作し難い土地におかれたため技術開発の創意工夫が進んだこと。
さらに、山岳部では疫病が伝染しにくかったことなどが挙げられている。

さて、日本人は海洋民族であるとともに、山岳民族でもあるわけで、地政学的に大袈裟に例えればトルコ人に似ており、イタリア人にも似ており、もっと言えばドイツ人と英国人をミックスしたようなアドヴァンテージがあったと思われる。
つまりこういう海洋と山岳の折衷こそが、経済、産業、軍事の全てにおいて優位に立つ要件であった、と考えたくもなる ─ のだが、こういう仮説を世界史科で聞いたことがない。
むしろ世界史科においては、平原部の移動型文明が一番強かったかのような説明が散見されるのだが、おかしいのではないか?

・日本は戦国時代に銃の生産量で世界一であったことがよく知られている。
そのままずっと銃の改良を続けて行けば、たとえ鎖国をしようともライフルや自動小銃(マシンガン)や大砲の類をヨーロッパやアメリカに先駆けて自主開発していたかもしれない。
いや、そうなっていたとすればそもそも鎖国などする必要もなく、豊臣秀吉の時代にはむしろアジア全域を簡単に征服していたような気がする。
もちろんライフルや大砲があれば、弓や騎馬軍などはもう相手ではないからであり、かつ日本製のライフルや大砲はきっと簡単には模倣出来ない技術水準のものになっていただろうから。
そうなると、南方に進出していたスペインやオランダをも追い出していたような気もする。
因みに、ヨーロッパの軍隊がライフルを活用するのは1700年代以降で、大砲とライフルが小銃とともに機動部隊を作ったのはナポレオン以降である。
どうして日本の権力者は銃器の新規開発製造を止めさせて内に籠ってしまったのだろうか?(本当に止めていたのだろうか?)

・いわゆるセルジューク・トルコでは、アカデミズムの代表者であるニザーム=アルムルク、宰相ガザーリーを始め、イラン系の傑物が輩出したことで知られる。
それどころかペルシア語を公用語にすら定めている。
トルコ、と称する王朝なのに、しかもイスラームだから法や税の根幹はアラビア文明圏のはずなのに、どうしてイラン系がこれだけパワーを発揮したのか?
そして、なぜイラン系にシーア派が増えたのか?
民族の能力や適性に関する好例として、これらの理由を世界史科が解説しければならない。
だいたい、民族運動となると物凄く大仰に語りたがる人が多いくせに、民族の能力ということになると口をつぐむのは何故か?

・いわゆるジプシーは、自称 「エジプトから来た民」 だが、じっさいにはインド方面から流浪してきたとされている。
ドイツ地方に流れ着いた集団は、ツィゴイネルワイゼンとも呼ばれた。
しかし、どうしてジプシーは東アジア方面へは流れてこないで、わざわざ寒いヨーロッパ方面に向かったのか?

・プロテスタントとカルヴァン派とピューリタンと英国国教会の違いについて、ちゃんとした説明が世界史の教科書にも参考書にも無い。
これでは17世紀前半のいわゆるピューリタン革命と、スコットランドのカトリック王権との関係と、クロムウェルの独裁と、英国国教会の立ち位置と、17世紀末の名誉革命と…どれも説明が出来るわけがない。
なおプロテスタントはカトリックと異なり、女性の読み書きを認めているとして広く知られているが、これもちゃんとした説明が世界史科ではなされていない。
民族の産業力、経済力そのものにも関るこれらの重大な現実について、どうしてちゃんと説明しないんだろうか?
こういうことは、ミッション系の女子中高生の方がむしろ知っているのだが、だったらそういう女子高にちゃんと聞きにいけばよいだろうに。

・フランス革命は、1792年のいわゆる8月10日事件の直後から国民公会主導で急激に社会主義化(第一共和政)し、さらに対外的にも攻撃的に打って出ていくが、これらはどう関っているのか?
ちょっと考えれば、ああ王権を抑えることで税などが軽減されたのだな、と分かるが、しかしベルギー侵略など対外戦争を進めるための「義勇兵」は何に期待したのか。
いや、そもそもそんな強力な兵隊、どこから出てきたんだろうか?

それから、1848年の中小企業と労働者による一連の革命の顛末として、ルイ=ナポレオンが全社会階層や軍部の支持を集めて大統領になっている。
ルイ=ナポレオンはもともと国家反逆罪で英国に逃亡中の身であったのに、なんでこんな人物が人気を博したのか?そもそもなんで大統領が必要だったのか?
(彼は後になんと皇帝にまで上りつめ、ナポレオン3世と称し、国際紛争にもどんどん首を突っ込んで大失敗している。)

・中国史を造ってきた諸文明は、おおむね朝貢貿易と冊封体制をとってきたが、これらはものすごく奇怪な外交政策とはいえないのか?
まず朝貢貿易だが ─ もし中国の諸文明の王朝が万物の生産力や商材の種類において 「本当に」 卓絶していたのであれば、ほっといても周辺諸民族の商社マンなどが買い付けにきたはず。
だから、中国皇帝が周辺諸民族に対し 「おまえら、わが中国のものを買え」 などと強要する必要など生じたはずがない。
そりゃまあ、買付にくる諸民族はなにか貢物くらいは持ってくるだろう、しかし商売なんだからあくまで交換であって、中国皇帝への一方的な貢物という見方自体がおかしい。

むしろ、ギルドの商売の許認可のようなビジネスライセンス付与だったと考えるのが自然で ─ そうならば朝貢などと言わず中国商品のライセンス許認可貿易だったと言ってほしい。
かつ、日本が遣唐使を廃止した理由は、唐で政治動乱が起こったから、というのもトンチンカンな説明で、そうじゃなくて日本側には唐の物品を購入するメリットが無くなったから、と考えるのが常識。

次に冊封体制だが、そんなもの本当に可能だったのか?
たとえば日本は継続的に中国の諸文明の冊封を受けたことはないし、モンゴル帝国が中国文明を新築した時代を除けば攻撃を受けたことすら一度もない。
そもそも、冊封体制を強要したはずの中国の諸文明の方が、北や西や東の周辺民族に乗っ取られて、廃絶させられてきた
…というのが歴史の真実。
いったいこの冊封体制とは何だったのか、と不思議でたまらない。

・モンゴル帝国に組み込まれた地域は、おおむね近現代に社会主義政策を国策として受け入れた経緯があるが、何故なのか?
普通に考えれば、「平原部」 の民族はもともと移動性が高く、利潤の配分を最優先とする一方で能力開発の観点が無い、だからろくな産業が興らない。
ろくな産業が興らないから人口増大とともにみんな飢える、かつ、国際競争に勝てない。
だから権力集中と利益配分(=つまり社会主義)を政策として選択する…と考えられるが、これが正論なのか?
こんなに明明白白な疑問に対して、どうして世界史科でちゃんと解説しないのか?

・モンゴル帝国は、西ヨーロッパと日本と東南アジアを除く広いユーラシアを征服した
─ というが、ならばどうしてロシアや東欧や中東の現首脳部に (優勢遺伝であるはずの)黄色人種が見当たらないのか?
もし本当にモンゴル帝国が黄色人種によるものだとしたら、どこかで人種そのものが駆逐されてしまった、としか思えないのだが。
そうではなくて、実はトルコ系の帝国だった、と言われれば人種的にも納得出来ないことはない。
(セルジューク=トルコという強大な勢力が消え去ってしばらくして、今度はモンゴル帝国が興っているわけで、セルジュークトルコの発展形がモンゴル帝国だと考えると理解しやすい。)
なお、ヨーロピアンが征服した諸地域では、未だにちゃんと白人との混血が政治・経済のリーダー層におさまっている。

こういう人種間の強弱論について、どうして世界史科ではちゃんと解説しないのか?
ついでに、中国大陸からの苦力がアメリカで強制労働を課せられ、それによって大陸横断鉄道が出来たということは誰でも知っているのに、どうして世界史の教科書に書かないのか?
人種差別論そのものになると、ものすごく大仰に解説したがるくせに。


・戦争中の軍事境界線と、戦争当事国の国境は、何が違うのですか?
いわゆる軍事境界線は「実効支配による領域」を示すというが、実効支配にはどういう法的正当性があるのですか?
つまり ー 国家主権と領域についての説明がきちんとなされないと、戦争と国家の関りも説明出来ないでしょう。
そういうことは政治経済科で教えればよい、とでもいうお積りですか?

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ちょっと思い当たるだけでも、以上のように疑問がふつふつと湧いてくる。
これらをちゃんと説明しようとしたら、世界史科は地理科および政治経済科とセットにしなければならない。

その方向への一層のシフトを期待する。


以上

2012/05/16

【読書メモ】 水が世界を支配する

数年前、『石油の終焉』 という本が巷間かなり話題となりましたが、それ以来の - おそらくはそれ以上の巨視的で深遠な文明論。
それが、今回ざっと要約した 『水が世界を支配する』 です。
英文原題は "WATER - The Epic Struggle for Wealth, Power, and Civilisation" で、文明史における水の意味、意義、そして効用とリスクを大胆に総括せんとしたもの。
著者は英米主要メディアの最高のジャーナリストの一人、スティーヴン・ソロモン氏。
日訳担当は矢野真千子氏で、この日訳版が昨年夏に集英社から出版されました。
青いカバーの強力話題作で、400ページを超えるドドンとした厚みもスリル抜群、一時は書店の新書コーナーが青々と映えてなかなかの壮観でしたね。

一読して……いやいや、これはこれは。
水というものが(石油と異なり)代替不能な唯一絶対の資源、かつ財である以上、これ以上に包括的な文明論はおよそ在り得ないような。
あらゆる生産活動面や衛生面など経済活動の諸局面を鑑みても、水こそは供給行為の源泉そのものといえ、かつ水の需要が国家間の紛争、農業や化学産業などの既得権益化をもたらしている次第で。
と、なると、化石燃料、資源、化学、工業、貿易、言語、数学、軍事、法律、IT、カネ…といった諸要素がいかに上っ面の変動要素に過ぎぬものか ─ 水の巨大なプレゼンスの前にこれらすべてはあまりにも小さい、小さい。

もう少し具体的に換言すれば ─ もし地理学がもっとも包括的な学術分野のひとつとするならば、本書こそはその最強のテキストのひとつといってもいい。
ゆえに、地理学の導入には格好のドキュメンタリーファイルとも言えそうです。
むろんそこから、あまりにも巨大であまりにも断片的にすぎぬ生態系の学問分野を触発していくことも可能。

ともあれ。
以下にちょっと長いのですが要約メモを列挙します。
こういう本ではいつもそうですが、本当に重要なコンテンツはだいたい後半に集中しているので、今回の要約も後半部、つまり 「第3部」 「第4部」 のみに絞りました。
(前半には古代~中世の世界史の変遷と水について、ドラマティックに描かれています。)

まず、本書でふんだんかつカラフルに引用される 「水に関わるテーマ」 を範疇で分類すれば;
・生態系全般
・降雨
・河川
・地下水(地下帯水)
・灌漑農業
・ダム貯水
・水力発電
・工業用水
・物流(水運)
・生活用水、衛生
・国際紛争の歴史

以上に、ざっと分けられます。
ただし人類文明とのインタフェースを主眼にすえているため、概して海水ではなく淡水におかれていること、かつ、なぜか日本についてはほとんど触れられていないところも併せて留意。

なお、本書でしばしば引用される 「水1ガロン」 がアメリカ式の表記であるとすれば、これは約3.8ℓに相当。


・地球上の全ての水量のうち、蒸発と降雨をエンドレスに循環している 「淡水」 はたった0.004%しかない。
そのうち、人類が使用可能な状態のものは、最大でも1/3にすぎず、残りの2/3は地下水系から海水になってしまう。

・この使用可能な淡水をもし全人類に均等に配分すれば、ちゃんと全員に行き渡るはずだが、しかしアマゾンやコンゴのジャングル、シベリアの淡水をも確保した上での話である。
おしなべて、現在の使用可能な淡水は全人類のニーズ、つまり年間1人あたり2000立方メートル相当を満たしていない。
こんごの人口増で、ますます足りなくなる。

・オーストラリアは世界で最も乾燥した大陸で、流出水全体でみても全世界の5%しか無い。
だが人口は全世界の0.5%以下である。
アジア大陸は全世界の使用可能な水の1/3を有するが、世界人口の3/5がこの大陸に住む。
降水の3/4は季節性かつ概して乾燥気候ゆえ、取水や貯水の効率が概して悪い。
なお、とくに乾燥の激しい中東地域に限ると、人口の増加率が著しく高い。
ヨーロッパ大陸は使用可能な水は全世界の7%にすぎぬ一方で人口は12%であるが、降水に恵まれ蒸発も少なく、河川にも恵まれているので取水効率がよい。
北米大陸は使用可能な水が全世界の18%で、人口は8%しかいない。
南米大陸は使用可能な水が全世界の28%もあり、人口は6%と、一見とても水には恵まれているが、それはジャングルからもちゃんと取水が出来た上での話である。

・人間は、仮に食事がゼロでも数週間は生存可能、しかし1日に2-3ℓの清潔な水が絶対に必要。
いくら知力が高くても技量や腕力に優れていてもカネがあっても、水が無かったら死ぬ。

・現在、人類全体の約1/5は1日に1ガロンの安全な飲料水を入手できない。
人類全体の約2/5は、最低限の衛生状態を保つための1日5ガロンの水を入手できない。
入浴や料理まで含めた生活には、1日に最低13ガロンの水が要る。
全世界の20億人が、水害に対処する公共インフラに不足している。
一方、アメリカなどの先進国の一般家庭では1日に150ガロンの淡水を使うこともある。

・淡水の使用量は、過去2世紀の間に人口増加の倍の速度で増加した。

・世界の主な河川の261本が国境をまたぐものであり、その流域に世界の人口の40%が住む。

・20世紀が終わるまでに、全世界の大河川のじつに60%がダムなどの人工物に遮られるようになった。
これらによって、灌漑農地の拡大や水力発電の獲得を推進出来たということは素晴らしい事実である。
しかし反面、シルトの部分的な堆積、下流水域の土地の塩類化、河川水量そのものの減衰、自然環境の不安定化、排水公害などが深刻化した地域もある(とくに発展途上国)。
もちろん河川の上流国と下流国の間で、国際紛争の原因にもなっている。

・地球の地下深く、取水が可能な地表水の100倍もの淡水が、有史以前氷河期から恐ろしくゆっくりと溜まっている。
このいわば化石水が溜まっている深みが、「帯水層」 である。
地表の水は降雨と蒸発の循環で、その一部は地表のすぐ下の地下に一時的に滞留するが、「帯水層」 の水はまったく異なり、ひとたび取水すれば 「なくなる」。

・1992年のリオデジャネイロの 「地球サミット」 がきっかけとなり、世界の利用可能な淡水源は今後の経済成長を支えきれないという認識が高まってきた。
2001~2005年の、国連の 「ミレニアム生態系評価委員会」 によれば、今世紀に入って世界の灌漑農地は水不足のために有史以来初めて 「減少」 に転じているという。
同報告によれば、世界の淡水の使用量の1/4は 「持続的な供給」 の限界を超えている。
また、全世界の20億人は、全世界で使用可能な水のたった8%しか自由に使うことが出来ない。

・2003年、国連は 「世界水発展報告書」 の発行を開始。
同年に京都で開かれた 「第3回世界水フォーラム」 では、世界の水インフラ投資に必要な年間1800億ドルの拠出を先進国政府や協力民間企業に求めている。

・2005年、国連は 「生活水国際10年計画 - 命のための水」 の開始。

・世界の水の3/4が農地灌漑のために、しかも概して農業事業者と政権による既得権益の硬直化もあって極めて安価で使われている。

・1ポンドの小麦の収穫までに、0.5トンないしは150ガロンの水が必要である。
1ポンドの米の場合には、250~600ガロンの水がいる。
ハンバーガー1個分の肉およびコップ1杯の牛乳をつくるため、家畜に与える飼料が要るが、その飼料のために800ガロンまたは3トン以上の水がいる。
Tシャツを一枚つくるため、700ガロンの水が必要である。

・世界5大飲料品メーカであるネスレ、ダノン、ユニリーバ、アンハイザー・ブッシュ、コカコーラが商品生産のために1日に使う水量は、地球上の全員が1日に生活で使う水の量に相当する。

・2025年には、世界の乾燥地帯、人口過密地帯、貧困地帯に要る36億人が、食物の自給が出来なくなる。


・現在にいたるまで、水というものは基本的に市場原則から除外された財であり、その価格は取水と排水のコストのみから成る、とされがちである。
もっとも、水はけして無限の財でないことは古来より人間の知るところであり、アダム=スミスやフランクリンの時代でも、効用と供給限界を鑑みた上での水の価格は 「安すぎるのでは」 と論じられてきた。
しかし、現在でも水は市場取引、自由競争の財として見做されることはほとんどなく、むしろ各国政府の独占供給、独占配分、独占価格決定のもとにある。

・水による 「生産性 (productivity) 」 は先進国と途上国の在り方を端的に表す経済指標といえる。
すなわち、水1立方メートルあたりの生産物を、その売価額面に換算して評価するというもの。
この額面が高いほど、水の経済効率が良いことになる。
アメリカの例では、1900~1970年まではおよそ6.5ドルだったが、そのご急速に額面が高くなり、2000年になると15ドルになった。

・最大の理由は、環境保護運動が高まったために発電・産業・都市の「廃水」 による公害規制が厳格化し、その廃水の浄化は汚染者負担の原則が定着化していったため。
いかに廃水を減らすかを追求する過程で、いかに水を効率的に使うかを産業界・経済界で追求していった所以。

・先進国では、おしなべてこの努力が継続されてきた ─ こんご生態系への理解と研究が進めば進むほど、改善はますます進むだろう。
とくに、本来的に水が不足しがちであったニューヨーク州の環境保全的で包括的な取り組みは注目に値する。

・対極にあるのが中国やインドで、そもそも廃水による汚染そのもののコストが巨大になり過ぎている。
たとえば、いわゆるグリーンGDPを算出すると、生態系復旧コストは経済成長による成果を食いつぶすほどになっている。

・なお、しばらく前の四川大地震はダムへの貯水の重量が地盤に悪影響を与えたため ─ という見方が真面目に論じられている。
環境との共存が勘案すべきリスクは、様々である。

・環境と文明の共存について、大別して2つの路線がよく引用される。
とくに水の利用についてまとめると ─
1つは、「ハードパス路線」 と呼ばれるもので、20世紀前半のアメリカや後半の途上国のように、巨大なダムを建設しテクノロジーと中央統括インフラを強引に導入。
こうして、経済効率を最優先にすえて、環境をまさに量的に改造していくというもの。
もう1つは、「ソフトパス路線」 というべきもので、既存の水供給を元手にその利用技術の効率化を進めつつ、経済活動における水の需要と供給能力を総じて弾力的にするというもの。
これはあわせて、文明のもっとも巨大な決定要因である生態系そのものへのダメージを極力抑制するという活動にもつながる。

・最近になって、水を需給の自由な調整をへて市場化、産業化させるという動きも活発にはなっている。
水を産業化した例としては、水道事業の民営化があり、多国籍企業が仕切り、年間で4000億ドル相当の世界的産業として推進している。
ちっちゃなスケールとしてはペットボトル水もあり、年間で1000億ドル相当の売り上げがあって、コカコーラやペプシコは公共水道水をハイテク素材で濾過しつつ1700倍の金銭価値を付加して売っている。

・水資源に本来的に乏しい国々は、必要な農産物や工業製品を水資源の豊かな国に生産委託し、そのコストを含めた生産物を輸入する、というオプションもとっている。
この輸出入取引の形態をとくに 「ヴァーチャル・ウォーター」 と称している。
こんご、ますます増えることが予想されている。

・水の配送インフラが未整備のため、水道管などの水漏れも依然として大きな問題である。
これらをまともに補修をするためには、この先数年だけでも全世界で3兆ドルはかかるであろうと概算見積もりがなされている。

・海水の 「淡水化」 は、第2次大戦中に南太平洋のアメリカ海軍兵に淡水を補給するという必要から、本格的な技術導入が始まっている。
蒸気圧の誘導を応用した熱脱塩技術などの試行錯誤を経て、さらに海水に高圧をかけて塩を濾過するという 「逆浸透法」 へと。

・この逆浸透法は多量の付加エネルギーを必要とするもので、浸透膜そのものの技術革新もとわれてきたが、21世紀に入るとずいぶん進歩し、低コスト化が進んだ。
実現可能性が高まる一方とされる、未来派技術の粋であり、この産業の市場規模は2005年には40億ドルだったものが2015年までには7倍にまで拡大する、という見方すらある。
実際、オーストラリアのパースでは供給水の1/5がすでに脱塩処理によるものという。

・ただし ─ 現時点での見極めによれば、脱塩処理による淡水の量は、世界で必要とされる淡水をほとんど満たさない希少なものに過ぎないともされ、すぐに水不足を解決する手立てとはなりそうもない。

・(これは僕の所感)
市場化、と聞いてすぐにカネを中心に思考を展開する経済無知がいるが、困ったものである。
経済は本来はエネルギー交換や物々交換や知識間の交換が理想で、それが現実的には出来ないから仕方なくカネという媒体があるのである。
通常、自由競争ではカネが一番用途も効用も多岐にわたるため、どうしても資本主義の形態をとりがちだったのは当たり前。
一方で、現実をふまえれば水こそが最も普遍性、交換性、優先性の高い財であることは間違いなく、となればその用途、効用をとっても物々交換経済の主要媒体として最有力候補たりえないだろうか?
そうなると、 「水本主義経済」 の時代がこれから到来しうるのだろうか?
これが最先端の未来派思考であるのか、或いは、退行的な思考放棄ととられ得るのか、それは今後の我々の常識と見識と想像力のすべてにかかってくる。

ただ、「水本主義経済」 においては、所有の独占や権利の随意な移転、そして納税を通じての権益配分などはこれまでのカネと同様には出来なくなるだろうから、反対する人間の方が圧倒的に多いだろうなぁ。

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<以下、近現代史にかかわるエピソードを列記>



・公衆衛生の観念はもともと古代ローマの時代にすでに存在していたが、ローマ帝国の瓦解とともに廃れていった。
コンスタンティノープルでは細々と受け継がれており、オスマン=トルコに征服されて以降に水道網や水力事業が復活した。
また、ベネツィアにも公衆衛生の観念はかろうじて残っていたが、地形的には常に淡水が不足しており、イタリア本土から給水船で水を運んでいた。

・産業革命の時代を向かえ、スコットランドのグラスゴーやエディンバラでは、蒸気機関および鋳鉄の利用による川の水の汲み上げ技術、ダムや水道が発展した。

・ロンドンでは、17世紀初頭のエリザベス女王治世下に、人口増にともない民間の長距離水輸送業も発展、ロンドンを支えたのはテムズ川の水で、水車ポンプも活用していた。
18世紀、ニューコメン蒸気機関のポンプも活用されはじめた。
だが、ロンドンでは19世紀になると人口増に応じた清潔な水を確保しきれなくなる。
一方、下水の量は際限なく増えていった。

・1817年にインドのコルカタでコレラが発生。
船舶の乗船者が世界中に撒き散らすことになり、またメッカに集まったイスラーム教徒たちはコレラを母国に持ち帰った。
アイルランド移民によってコレラは新大陸にも広まっていった。

・1831年、コレラがロンドンで大流行。
テムズ川は本来、潮汐に応じて水位が大きく変わり、よって下水=汚水は海に流れ出でる前にロンドン市内を何度も巡ることになる。
さらにずっと昔に埋めておいた汚水溜めも、攫ったりするものだから、どうしても疫病が流行る。

・1833年、テムズ川からサケが獲れなくなる (再びサケが戻ってきたのはなんと1974年だった)。

・テムズ川で、上下水道を厳密に区分すればよい、との知恵が出てきて、それは法令にもなるが、このころにはコレラが「細菌」であるという認識がまだ確立していなかった。
だから下水道そのものは杜撰で、途中で上水と交じり合い、1848年にはまたコレラが大流行することとなった。

・1861年、クラッパーが効率的な水洗トイレを開発、販売へ。
するとロンドンでは水の使用量が倍増し、よって汚水がますますテムズ川に還流されることになった。
ようやく、コレラの感染経路は水に違いない、との見識が麻酔医のジョン=スノウによって打ち立てられ、従来の自由放任経済論者の反対を押し切って議会と政府がコレラ問題に介入。
水硬性のセメントが下水管に採用され、下水はロンドン中心部から徹底的に離れたところでテムズ川に放流、それを荷船で海に投棄、という行政主導のネットワークシステムが出来上がった。
こうして、やっとロンドン市内からコレラ患者が消えた。

・ちなみにコレラ菌そのものが発見されるのはドイツのコッホによって、1883年になってからのことであった。
病原細菌説の登場により、同じく水媒体の超チフスの感染も抑止されるようになった。

話は前後するが、普仏戦争でプロイセンが大勝した最大の理由は、プロイセン側が伝染病対策を怠らなかったためで、一方のフランス軍は伝染病により甚大な病死者を出した。
なお、パナマ運河開設の工事初期には、蚊が媒介する黄熱病が甚大な死者を出したが、1914年の開通時には死者はほとんどいなくなっていた。

・水の殺菌処理は、20世紀にはいると大きく進歩、化学薬品、熱処理、紫外線、オゾン処理など。
1915年、ロックフェラー財団は全世界感染症撲滅活動を開始する。
1920年代になると、欧米の先進国では人口増にも関わらず清潔な淡水が不足することはなくなった。

・なお現在の汚水処理は、固形物を濾過、微生物で有機物質分解、化学焼く遺品による殺菌という3段階を経ている。
ロンドンのヘドロは海へは投棄せず、高熱で灰化し、廃熱は発電に転用している。
最終的な放出水は、テムズ川の水よりもきれいである。


★   ★   ★

・アメリカ植民地は東部が雨水農業の可能な大地と水源にもともと恵まれており、独立以前から大西洋沿岸の海洋物流はさかんであった。

英国植民地ということもあり、海洋型の文明であった。
内陸にも流れの激しい河川も多く、水力を活用しての銑鉄や鋳鉄の製造は英本国をしのぐものだった。
また、ニューイングランドの背の高い木は造船を盛んにし、なんと独立戦争における英国艦隊の1/3はアメリカ植民地による造船だった。

・アメリカは1783年の独立当初、西辺境はミシシッピ川、北は英領カナダ、南はスペイン領フロリダまで確保。
このスペイン領フロリダ部にミシシッピ河口のニューオーリンズがあった。
だがアメリカは最初からすでにアパラチア山脈以西~ミシシッピ流域の水運力や産業可能性に大注目。
ミシシッピ川の肥沃な流域は、ナイル川やガンジス川の2倍の広さがあり、その広さはアメリカ本土のじつに1/5を占めている。

・アメリカが英国と巧みに妥協しながら英領インド諸島との交易を始めると、スペインは英米の連携を恐れてミシシッピ下流域とニューオーリンズの航行権をアメリカに提供。

これでアメリカはカリブ海へのアクセスも可能となったが、そうなると今度はフランスが英米の連携を恐れて、カリブ海を巡ってアメリカと対立。

・1802年、ナポレオンは、砂糖とコーヒーの植民地であるハイチの奴隷反乱を抑えるために何万ものフランス軍をハイチ周辺に駐留させる。

これに慌てたアメリカは、英国との連携をちらつかせつつ、ニューオーリンズとフロリダをめぐってフランスと交渉するが、ハイチ駐留のフランス軍が黄熱病で倒れてしまい、このためナポレオンはハイチをあきらめ、新大陸にも消極的になり、ヨーロッパにおける英国との直接対決に方針転換。

・やがてナポレオンの公使タレーランとの交渉の結果、1803年にアメリカはニューオーリンズを併せたルイジアナをフランスから買収、広大なミシシッピ川流域を一気に得た。

(なお、ハイチはこののち独立してしまう。)

・1807年、ナポレオン戦争にアメリカが巻き込まれることを憂慮したジェファーソン大統領は対外貿易を停止、かつ、その狙いはアメリカ農業を保護することであった。

しかし、英国製の織物の輸入がとまると、むしろアメリカ国内の織物産業を加速化させることになってしまった。
すでにこのとき、ホイットニー開発の水力の綿繰り機によって、綿はアメリカ南部の主要生産物。
さらにホイットニーは、規格化部品そのものの工作機をも開発しており、アメリカの大量生産の端緒がおこっていた。


★   ★   ★


・1815年、フルトンが設計開発の蒸気船はミシシッピ川を始めて上流~下流間の 「往復」 を実現。
(それまで、木造船はすべて上流から下流までの一方渡航が普通であり、下流についた船は解体されていた。)

・このころ、既に大西洋の 「玄関」 となっていたニューヨーク州からアパラチア山脈をつきぬけて峡谷をいき、なんとナイヤガラの滝のエリー湖まで水路をつなげるという、巨大な構想が持ち上がっていた。
企画率先はニューヨーク州で、最初は既存のモホーク川をエリー湖までつなげていこうとしたが、船舶航行には不適格とされた。
代わりに、この川に並行して全長363マイルの大運河をエリー湖まで開削することになった。
これが世に知られる 「エリー運河計画」 である。
ニューヨーク州の夢はふくらみ、ゆくゆくはエリー運河をミシシッピ川へつなげよう、と。

・1817年、ついにエリー運河の開削工事が始まり、フランスへのルイジアナ買収債務支払い不安に始まるアメリカ国内恐慌にも関わらず、運河の開削は進められた。
むしろ運河建設によって、出資イニシアチブをとったニューヨーク州は好景気となり、他州が不景気だったため概して低金利で資本獲得もできた。

・1825年、ついに巨大なエリー運河が完成、初年度から7000隻もの船がこの運河を航行し、ニューヨークは大西洋と内陸部をつないで大発展していくことになる。
5大湖方面の鉄鉱石が東部諸州にもたらされ、鉄鋼業の大発展をもたらした。
また中西部諸州の農産物は東部沿岸を経てヨーロッパへと輸出されていくようになった。

・エリー運河がきっかけで、東部諸州から西部への大規模な人口移動も可能になった。
アメリカでは、巨大運河づくりがブームになった。
1840年になると、アメリカ人のじつに1/5がアパラチア山脈西部に移住していた。

・ちなみにこのころ、ニューヨーク州自身は水利に恵まれておらず大火災もあり、コレラ禍にも苛まれていたが、やがて下水道の整備が始まり、人家ではバスルーム設置も当たり前となっていく。

・なお、19世紀の半ば、ミシシッピ川の渡航船による貨物輸送量は巨大なものとなっており、「大英帝国」域内の貨物輸送量とほぼ同量となっていた。

・1848年、カリフォルニアのゴールドラッシュが始まった。
そこで、東部諸州を今度は一気に西海岸の諸州につなげる気運が高まってくる。
と、なると海上輸送ルートが模索されることになるが、ここで着目されたのがパナマで、パナマまで海路をいき、なんとかその地峡を超え、太平洋側に出てからまた海路をとって西海岸へ向かう、という構想が出来た。
パナマはコロンビアの集権下にあったが、アメリカはコロンビアに譲歩しつつもとりあえず地峡をつらぬく 「パナマ鉄道」 を開通させた。

・だがしばらくのちの1903年、アメリカはコロンビアからこのパナマ地峡そのものを買い取り、今度は大胆にそこを全部開削して運河を通すことに。
そして、1914年にパナマ運河が開通する。
もはやゴールドラッシュの西海岸へのアクセス、どころではなかった。
たった10年で船舶通行量は年間5000隻となり、スエズ運河と並ぶほどの勢いだった。

海路、パナマ運河を経て太平洋に躍り出るようになると、アメリカは軍事的な選択肢が大きく増えたことになる。
この時点でのアメリカの最大の仮想敵国は、もちろん全世界に展開している大英帝国であった。


★   ★   ★


・英国のアークライト系列の織物工場の熟練工サミュエル=スレーターは、その工場全体の設計をずべて暗記、農民のふりをしてアメリカに渡航し、ポータケットにおいてなんとそれを再現し、水力駆動の綿織物工業を発展させた。

・フランシス=カボット=ローウェルは、英国に滞在中にマンチェスターやバーミンガムの綿織物工場設備をやはり 「暗記」 し、アメリカに戻ると原綿から布地までの機械式織機をつくりあげる。
河川そのものも滝やダムで加工し、水力そのものも増強しての運用を始めた。
やがてローウェルという町となり、アメリカ最大の綿織物製造地となった。

・ローウェルの工場では、動力源の水車の出力にさらなる工夫を重ねるうち、蒸気機関を凌駕する出力を達成、やがてこの過程で1848年には水力タービンが開発される。
開発した技師、フランシスの名をとって、フランシス・タービンと称され、このフランシス・タービンはずっとのちにナイヤガラの滝の電力化にとって1万馬力を出せるようになった。
水力発電の画期的なイノヴェーションであり、アメリカは水力発電の大国となっていく。

・西部諸州の農地の灌漑、開墾の効率=農業生産性を向上させるため、1902年にセオドア=ローズヴェルト大統領は 「開墾法」 を成立させた。
これはホームステッド法以来の伝統的な自営農地開拓の精神に反し、政府主導の農地灌漑・水利化を目指すという、革新的なもの。
政府が率先ゆえ、協力する農業経営者への補助金貸付もはじまった。

・西部諸州の灌漑農業はもとより、さらに発電、洪水管理、船舶航行の促進と、すべてを解決する手立てとして、大河川における巨大ダムの建設構想がおこった。
1922年、巨大な水量を誇るコロラド川を有する各州がその水量を分かち合う取り決めがなされ、1929年に大統領に着任したフーバーはコロラド川に 「ボールダー峡谷ダム」 の建設を開始させた。

ところが同時期にアメリカは大恐慌におちいり、1933年にフーバーに代わってフランクリン=ローズヴェルトが大統領に着任すると、このボールダー峡谷ダムをはじめ巨大なダム建設工事をいわゆるニューディールの柱にすえた。
各所の巨大なダム工事に、全米の失業者の25%が従事した。

・1936年、巨大なボールダー峡谷ダムが完成、ダムのコンクリート量はアメリカ大陸横断のハイウェイのそれに匹敵する量。
そこに、人口貯水のためのミード湖がつくられた。
ちなみに、このダムは企画元の大統領の名をとって、フーバー・ダムと改称された。
巨大な水力発電の時代が始まり、あわせて、その水力発電の売り上げが大農家の農地灌漑の補助金を支えていき、農業族議員が既得権益を調整していく時代へ。

・コロラド川のさらに10倍もの水量を有するコロンビア川には、1941年にグランドクーリー・ダムが完成。
これはフーバー・ダムの3倍のスケールのもので、全米の水力発電量の半分を生み出した。

なお、このグランドクーリー・ダムの完成わずか5日前に、日本軍による真珠湾攻撃があったが、このダムの発電は航空機とアルミニウムの大量生産を可能とし、ひいては第二次大戦におけるアメリカの圧倒的な軍事的優位性の源泉となった。
ワシントン州コロンビアのハンフォード軍事施設にまで給電され、そこでプルトニウム239が開発されることになる。

・アメリカの巨大ダム建設は1970年代以降に下火となるが、それは巨大なダムが主要な河川に作られすぎてしまい、更なるダム建設の経済効果が無くなったため。
時代は前後するが、コロラド川の水はダムの止水と灌漑過程での蒸発のため、いちばん下流のメキシコに届かなくなり、メキシコの土地は塩類化が進んでいった。
これは生態系をも狂わす問題として、60年代から70年代に意識を高めていった。

・コロラド川流域の諸州では、2007年に 「非常事態協約」 が成立した。
背景を雑記すると ─ 南カリフォルニアで極度に灌漑農業を優先してきた状況に、テキサスの投機筋と水不足のサンディエゴの意向もからみ、コロラド川の水利権を活用せんとしてきた一方で、アリゾナやネヴァダ州などが取水しすぎてコロラド川の水量そのものが減ってしまったため。
ここで事態を重くみた内務省が、南カリフォルニアをはじめ関係諸州にコロラド川の水量割り当て制限を課して、関係諸州がともに妥協しあう非常事態協約となった。
灌漑農業と補助金における既得権益が、利益享受者と不満組の間で大騒ぎをもたらし、やっと合理的な妥協に至ったという好例。

・この非常事態協約によって、関係諸州ではコロラド川の水の効率的な活用に積極的に取り組むようになり、水の使用料と他産業の諸コストを金銭取引するなど、柔軟なビジネス機運も拡大しつつある。


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・アメリカの大西部、グレートプレーンズの地下深く、オガララ帯水層というおそろしく広大な水源がある。
コロラド川の水量に換算してなんと235年分に相当する水量がある、いや、あった。
この地下帯水のうち2/3はネブラスカ州の下。

・第二次大戦が終わると、ディーゼル駆動の遠心ポンプの活用がすすみ、可動式スプリンクラーの導入も手伝って、オガララ帯層の水はぐんぐんと汲み上げられてグレートプレーンズを大灌漑農地に変えていった。
1980年代までに、これによる灌漑農地面積は1400万エーカーになった。
一方、オガララ帯層の水は、少なくともテキサスとカンザスでは貯蔵量の30%を使い果たしており、2020~2030年のうちに枯渇が予測されている。

・樹木の年輪による長期的な気候変動予測によれば、アメリカ南西部はこれまでがむしろ湿潤期で、今後はどんどん乾季(高温化)にむかうという。


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・アラビア半島諸国ほか、リビア、イスラエル、パレスティナなどはいわば砂漠そのものに近く、独立後に食糧自給のための必要水が得られなくなった。

取水可能な水に恵まれていると見做されたヨルダンやエジプトでも、1970年代には水危機に陥った。
しかし、同時期にオイルマネーで儲けたため、そのカネを食料輸入に充てて当座の危機をしのいだ。

・1956年、エジプトのナセルは、ナイル川に巨大なダムを建造するヴィジョンを掲げて大統領となった。
スエズ運河国有化など反欧米路線をゆき、第二次中東戦争もひきおこした。
そして、ソ連の技術を取り入れてダム建設へ。
ところがソ連の技術力が低過ぎてダム建設が進まぬと判ると、今度は西側の建設機器を購入した。

・ただし、ナイル川の水はすべてエジプト国外、つまり上流国から流れ込んでくるもの ─ すなわち、エチオピア、スーダン、ルワンダ、ブルンジなど、現在まで続く貧困国、紛争国である。
とりわけ、エチオピアはこのアスワン・ハイ・ダムの建設時から、エジプトへの敵対心が根強く、エジプトとスーダンだけがナイル川の水量を事実上独占するという 「ナイル水利協定」 にも憤懣。
そこにイスラエルが忍び寄るという構図もあった。

・1967年6月のいわゆる6日間戦争 (第三次中東戦争) は、ヨルダンの水の奪い合いがきっかけ。
サウジの資金的な後押しで、ヨルダン川上流に位置するシリアがイスラエルに無断でダムを建設し始めたことから。

この戦争にあっという間に大勝したイスラエルは、逆にそれまで確保できなかったヨルダン川水系のほとんどを支配下におく。
域内のパレスチナ人は農地灌漑の自由が大きく損なわれ、農地が減っていった。
なお、このときイスラエルが確保したヨルダン川西岸地区には、巨大な帯水層が確認された。

・イスラエルはヨルダンとの間では水路の安定確保を互いに約束していたが、その理由はヨルダンこそがPLOゲリラの拠点であったため。
水を担保に、PLOがイスラエルを急襲しないように、との取り計らいだった。

・しばらく後に、イスラエルはゴラン高原も併合し、有力な淡水湖であるガラリア湖を手中に納めた。

・1969年、リビアのカダフィは革命で実権を握ると、「大人工河川プロジェクト」 に着手した。
オイルマネーを元手に、なんとサハラ砂漠の地下の帯水層の水を取水し、それを地下水同網を経て地中海沿岸の主要居住区まで引っ張ってくるというもの。
この地下帯水層こそが、いわゆる 「ヌビア・サンドストーン帯水層」 であり、その淡水埋蔵量は500億エーカーにも及ぶとされ、現在まで知られる世界最大のものである。
但し、やっかいなことにこの巨大なヌビア・サンドストーン帯水層はリビアだけが占有しているわけではない。
エジプトもチャドもスーダンも共有しているのである。

・1971年、エジプトではナセル死後わずか4ヶ月して、ナイル川に壮大なアスワン・ハイ・ダムが完成。
これがナイル川流域を安定した灌漑農地へと変えていった。
このダムの貯水湖(通称、ナセル貯水湖)は、ナイル川の年間水量のじつに倍以上を貯水、またダムによる水力発電はエジプト国内の電力の半分をも担った。

・だが、エジプトは他国の貧困を犠牲にして自身のみが生存している、との見方もひろまり、エジプト国内では敵国イスラエルがいつかアスワン・ハイ・ダムを攻撃するのではとの疑心暗鬼が高まっていった。
これこそ、1979年にサダトがイスラエルと平和条約を結んだ重大な背景事情のひとつ。
エジプトはこれにより寧ろ国際的な評価が高まり、イスラエルについで国連支援の受益国となった。

・同じころから、ナイル川は20世紀最悪の渇水期にはいり、農地灌漑水量と発電が危機的状況に陥った。
しかし1988年、ナイル川の上流国エチオピアとスーダンに大規模な降水があり、ナイルの水はふたたび豊かになるどころか、今度は一転して最高の豊水期に入った。

・また、同じころにイスラエルでも旱魃が起こった。
イスラエルは農業用水への補助金を引き下げることで、従来優先されてきた灌漑農地への水利用を削減させ始めたが、これは世界的に見ても画期的な大英断である。

・1990年、トルコに大規模な 「アタチュルク・ダム」 が完成。
世界各国で、歴史上の偉人や有名人の名をダムに冠しているのは、面白いというか切迫感すら伝わってくるもの。
このダムの貯水湖は、備えられたユーフラテス川の年間水量の5倍もの容量がある。

・このアタチュルクダムなどをもとにトルコが遂行させたのが、「南東アナトリア開発計画」 である。
そもそも、ユーフラテス川の水のじつに98%は、トルコの南東アナトリア山岳地帯に端を発している。
(ちなみにティグリス川の水の半分もトルコが水源である。)
だがこの計画は、ユーフラテス川下流域のシリアやイラクの取水を大きく損ねるものであった。
そこでシリアは、南部アナトリアの反体制勢力であるクルド人と通じ始め、さらにシリアをイラクのサダム=フセインも支援した。
フセインは、アタチュルク・ダムを爆破してやるなどと発言。
これでイラクが水不足であることが却って知られるところとなり、湾岸戦争が始まると多国籍軍はイラクへの給水を封鎖。

・1991年、リビアのカダフィが待ちに待ったヌビア帯水層からの最初の大地下水道網が開通。
アメリカ石油資本の大々的な協力によるものであった。
但し ─ これを包括する 「大人工河川プロジェクト」 が仮に完成しても、リビアの食料生産需要の半分も確保できない、というのが現在までの冷めた見方でもある。
かつ、このままプロジェクトを進めていけば、ナイル川流域国(エジプトやスーダンやチャド)の地下水面が低下していくことも指摘されている。

・1993~94年のパレスチナ暫定自治協定で、イスラエルはヨルダン川西岸地区に居住するパレスチナ人に地下帯水層の開発の自由を認める。
だがパレスチナ人居住区の帯水層はほとんど取水が出来ず、有用な帯水層は依然としてイスラエルが独占していた。
こうして、和平プロセスは瓦解していった。

・1999年、世銀が支援する 「ナイル流域イニシアティヴ」 は、今度こそナイル流域諸国が共同で河川を開発するモデルケースか、と思われた。
しかし実際は、エジプトが人口増加のための居住地拡散をはかり、砂漠への引水と緑化をはかるものであった。

そして現在まで、ナイル上流地域の諸国は依然として水不足のため飢餓と内戦が続いている。
たとえばスーダンは未来のアフリカの穀倉地帯たりうると期待され、ナイル川流域全般でみれば3/5を占めるほどだが、耕作可能とされる土地の1%しか灌漑が進んでいない。

・現在、当のエジプトでも使用可能な淡水がだんだん不足し、穀物輸入が増え続けている。
どこでもあることだが、ふんだんに使われてきたナイル川の水は政府補助金つきで農家に優先的に配分され、その既得権益が硬直化してきた。
ゆえに農業政策が弾力的に改善されない。

・ナイル川の水質自体も変わってきた。
巨大ダムのために、シルトが下流域に流れていかなくなり、土壌の塩類化が進んでいる。
これでは農業生産性も落ちるが、人口集中の肥沃なデルタ地帯が逆に地中海の海水に侵食されつつある。

・一方で、エチオピアやスーダンはエジプト離れを進め、ナイル川上流に大小のダムを好き放題に建設。
それどころか、エチオピアの青ナイル部の周辺に巨大な地下帯水層が発見されるにいたり、いまやエジプトの方がエチオピアにすり寄っている。

・2001年、レバノン南部のシーア派がシリアと組んで、ゴラン高原から引水するパイプラインを建設しようとしたが、イスラエルはこれを戦争挑発だと激しく非難した。
現在に至るまで、ゴラン高原とヨルダン川の水の分配についてはイスラエルとパレスチナとシリアが互いに譲らす、緊張状態が続いたまま。

・そもそもレバノンもシリアも、イスラエルに比べれば水はけして不足状態にはないわけで、政治的な国際紛争がゴラン高原とヨルダン川の水の奪い合いと複雑に絡み合った格好。
そこにユーフラテス川上流のトルコと、トルコ内のクルド人と、イラクまでもが絡み合って、ヨリ混迷した情勢になっている。


・ソ連は1917年の共産主義革命で発足してから60年間で水の使用量を8倍に増やした。
その源泉は、ボルガ川、ドニエプル川、ドン川、ドニエストル川といった大河川。
収容所の労働者を無償で働かせての、取水や引水であった。

・アラル海の消失は、「水のチェルノブイリ」 と呼ばれる。
1950年代以降、ソ連政権下で中央アジアの乾燥地帯を巨大な綿花地帯に変えるため、強引な取水継続を続けた結果、アラル海の水が干上がった。
21世紀の現在、アラル海の一帯はむしろ乾燥化が進む一方で、綿花栽培も出来なくなっている。


以上